Graffiti Decorations

私の人生は、キャンパスいっぱいに描かれ続けている。
生まれてからずっと、らくがきのように。

私らしさ。

2006-07-27 02:12:59 | 自分について
自分とキャラや容姿、考え方がそっくりな人間にもし出会ったら、
果たして私はその人と仲良くなれるのだろうか。

と、考えてみたことがある。

もちろん大して意味のないことだし
実際この質問に即答で「ムリ」って言う人と
「おもしろそう、出会ってみたい」って思う人と
まぁ半々くらいで、大して何も考えずに答えられるようなことだ。

私自身も、なんとなく
少し人間関係に行き詰って
誰か私の気持ちを完全に理解してくれればいいのに、とか
そんな人いるんだろうかとか
そんなことを考えてたときにふと思ったことだ。

これに対する私の答えは、
確実にノーだ。

「もう一人の自分」なんてものに出会ってしまったらもう
私は生きていけないかもしれない。


なぜなら、私にはほぼ相対的な価値観しかないからだ。
比較対象があるからこそその存在を認識できる。
人と自分との「違い」こそが私であり、
私らしさである。

私はそう思っている。

結局、自分自身に絶対的な自信を持っていないともいえるが、
それだけやはり私はまだまだ自分をわかっておらず、自己分析にいつも悩む。

絶対的な考えを持っていないというか、持つのが怖いだけなのかもしれない。
それが覆されたとき、精神的にそれに耐えられるほどのタフさが
私にはないからだ。


もう一人の私に出会ってしまったとしたら、
「これこそ私」「私はこういう人間」
って思ってたものが自分だけではなくなり、
実は大して今まで「これがあたし」って思ってきたスタイルは
個性的で貴重なものでは全くなかったのではないか、
今まで私がいたポジションが彼女に取ってかわられるんじゃないか、とか
そういう恐怖と戦い続ける毎日になってしまう。


このことから、今まで私は他人と違うものを選択することで
自分らしさを表現して生きてきたのかもしれないと思い始めた。

私は重要な大きい選択から日ごろの何気ない選択まで
無意識のうちにマイノリティーを選ぶことで安心していたのである。

それだけでなく、自分の居場所を様々なところにつくりたいと思っている。
そして、ある場所に居続けていたら「自分」が消えていきそうだ、と感じたら
それ以外の場所での自分を想像し、時には「自分には色々な面がある」と他人に話したりする。

きっと、私はそうやって人に話すことによって精神的に自分を安定させていたのかな。


実際、これに共感できる人って結構いるんじゃないかな。

とりあえず、考えていたら私は結局こういう人間とわかったし、
むしろ私自身の居場所探しとマイノリティーを持ち続けられるような仕事につけれれば、将来をもっと気軽に過ごせるのかも、と思いました。



新しい出発

2006-02-27 00:56:25 | 自分について
主観的な自分と、客観的な自分の違いに気づいたとき。

多分、だれもが通る道なんだろうけど、私もだいぶ悩んだ。

私の考える自分は、口げんかでは負けないし、音楽ではロックが好きだったし、納得できないことがあるととことん考えるし、登山とかアウトドアが好きだったし、映画といえばもっぱらアクション系しか見ないし、どちらかというと熱い心をもって人とかかわってきたと思う。

でも、私の他人にあたえる第一印象は、おとなしい、女の子らしい、ほんわかしてる、まぁもっと言えばひかえめで平凡でつまんないとか思われていたかも知れない。

このギャップに気づき始めた頃、私はとにかく本当の自分を知ってもらおうと
みんなの前では第一印象を裏切るようなことばかりしていた。

聞く音楽もヘヴィロック路線に拍車がかかり、今までかかわってこなかった遊びも、ファッションも、とにかくいろんなものを試して自分を飾り付けた。

でも、ふと気づいて省みると、
その「みんなの前のわたし」はどこか無理していて
形作るのは空っぽの自分で
外から見ると「似合わない」と思われても仕方ないような気がした。


そのときから、私は飾るのをやめた。

自分を客観的に見て
洋服も派手でない女の子っぽい格好にして
聴く音楽も嗜好を変え
最近の流行曲やフツウの女の子が聴いてそうな曲を探して
部屋にぬいぐるみを置き
キャラクターの小物も揃え
おそらく女の子っぽいであろうと考える趣味をことごとく試した。

はじめはこんなのいつまで続くかと思っていたが
それは案外すんなりと生活の中に入り
あっさりと新しい私を作り上げた。

そして、それからできた友達からは
「意外だね」といわれることもなくなり
表も裏もないフツーの女の子になった。

それからは前より人と接するのが楽になった。
「本当の私を見て」なんてあせらなくても
周りからは親しくする前に容易に想像がつくくらい
私は見た目どおりの女になったようだ。

それはそれはラクだった。
もう趣味が「似合わない」なんていわれないし
あとから作ったはずのスタイルにも違和感なく馴染み
私は生まれたときからこんな子だったかと
自分で錯覚してしまうくらいだ。
まったくの自然体だ。


そのかわり、私はなんも変わり映えのしない、
その辺にいるフツーの女の子になった。

もう周りと区別をつけれるほどのインパクトもなく
自分でも自己紹介のとき、好きなものや趣味に迷うくらいになった。

もう自分がわからなくなった。

そしてたまに出でくる「意地っ張り」な部分や「頑固」な私。
街角でふと昔聴いていたロックが流れたときや
自分がかつてなりたかった理想の女の人を見ると
懐かしいような、かなしいような、遠い昔の自分を思い出したような気がした。

たまに友達や彼氏とケンカっぽくなったり
胸のうちの深い部分を話すと、
「意外に熱いんだね」
「そんな行動的だとは思わなかった」
と、言われることもあったが、
それはそれでちょうどいい程度の「ギャップ」として
今までどおりの私と平行して通用するような気もした。

そして今、二十歳を迎えようとする今年。

やはり、このままではいけないと思った。
したいように生きないと、人生じゃない。
でも今の自分も自分だと思うし、否定はしない。

ただ、もっともっと自分を試したい。
自分をもっと好きになりたい。
人と違う自分自身の特徴がなんなのかを、もっと考えたい。

たぶん、今年行うであろう就職活動では
これが最大の課題である気がする。

いかに自分を分析し、アピールできるか。

でも就職活動に限らず、これから生きていくうえで、
やっぱり自分を知ることは大切だ。

主観と客観、このバランスを考えながら
ベストな自分にたどり着いたとき
自分で自分を世界で一番愛しているといえる。

人から好かれることよりも、まずは自分から。

そのとき、もっともっとすてきな恋愛ができるんじゃないかと思う。

青い芝生

2006-02-22 07:21:32 | 自分について
私は、昔から何かにつけて人と自分を比較する。

別に下を見て優位に浸ろうとか、そんなものじゃない。
うらやましいと思う友達を見て、自己嫌悪と後悔に沈むのだ。

別に人と比べる必要なんてない。
私は私。
とか思っていた時期もあったが、
今思えばそれは強がりでしかなかった気がする。

結局、私は
思春期から今の今まで
隣の芝生を綺麗だと思うばかりの人生を送っている。

でもまぁ、そのおかげで常に向上心も持てるし、
目標を達成するたびに自信もついてきた。

でもまだまだ足りない。

満足するのもつかの間で、私はまた新しい芝生をみつける。

たぶん、この貪欲さが
私の一番のストレスの元で、
自分を追い詰めることとなっている。

でも当分は、この貪欲さに付き合っていこうと思っている。
自分の可能性を、もっともっと試したい。
ネガティブ思考は自分をくすませるから、あまり落ち込まないようにしつつね。
私はいつもサイアクな事態を想像しつつ、前向きだ。
石橋をたたきながら、走るみたいな。(はやっ)


私はたまに、行き詰って悩んでいるとき、「少し休んでみたら?あせりすぎじゃない?」
と言われることがある。

そのとき、私もまったくその通りだと思い、
休みたいと思う。
でも、気づくとまた動こうとする。

別に急ぐ必要はないが、このままじゃ足踏みをしてるだけで先へと進めないと、何かが私をあせらせる。


最近、私はそういう性格なんだと気づいてきた。

高校時代、勉強の意味を見いだせなくてもこつこつ勉強を続けられたのも、
辞めたくて仕方がなかった部活を結局は引退まで続けるのも、
大学辞めたいとか進路変えたいとか言いつつ進級してってるのも

たぶん、そのときの私はその理由を聞かれても答えられない。
ただわかるのは、意味を見いだせなくても、やろうと思えばするってこと。

そこは、「無意味なものはしたくない」っていう私のポリシーと矛盾してるからヘンな話だけれど
たぶん、悩んだり考えたりすることで今の状態に損傷をきたすことは避けたい、というか、
少なくとも現状維持の状態で悩み続けたい、か、
今の位置さえも失うことはしたくない、みたいな
そんな気持ちが心のどっかにあったのかな。



今日、大学を休学した友達がうちに泊まりに来る。
彼女は多分もう大学には戻らない。
大学で同じクラスだったから、在学中に少しでも悩みを分け合えていればよかった、というのは後の祭りで、彼女が休学した後に仲良くなった。

一度同じラインに立ったものの、違う道へそれぞれ進んでいる私たちは、この先もまったく違う「人生」を描くことになるのだと思う。