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京都walker

「京都」の街を歩いて、歴史・文化を楽しむBLOGです。

新選組Walk…(15)高瀬川…LAST

2005-02-26 22:45:14 | 新選組
今回の新選組Walkingの京阪七条駅のゴール手前の高瀬川を渡るところまでやってきました。高瀬川は、二条通りから木屋町通りに沿って南下して伏見に至る人口の川で、角倉了以が大阪の物資を伏見経由で京都に運ぶために作った運河です。運河を就航する舟は浅い川用の平底の高瀬舟を用いたため運河も高瀬川と呼ばれました。また江戸中期には沿岸に700人からの船頭・船子が住み大変栄えたらしく、材木屋や薪炭の店が多いことから一帯を木屋町と言うようになったそうです。
 幕末には、諸藩の京都屋敷がこの辺りに多く、維新の志士達もこの川の近くに住んでいました。坂本龍馬の寓居跡、佐久間象山遭難の地など、史跡があります。

 今回京都市内を新選組の観点でぐるりと歩いて分かったこと・・・13kmは結構歩き甲斐がありましたが、幕末の動乱期に相反するグループ(新選組vs勤王の志士)が意外と近くに住んでいたんだ!ということを身をもって体感したことですね。特に西本願寺の屯所以降は高瀬川までほんの目と鼻の先。日常的に新選組と龍馬・桂小五郎たちはひょっとしてニアミスを繰り返してたんじゃないかな~?きっとそうだったのでしょう。毎日が一触即発・・・それが幕末の京都・・・今回の私の感想です。
 朝に三条京阪を出発して約13km…冬の寒空のもと歩いてゴール到着まで約5時間あまり。こんな距離歩くのはほんとに久しぶりでしたが、関東からやってきた近藤・土方たち、西からやってきた勤王の志士たちが故郷を離れたこの京の町で歴史を刻んだ日々を少しでも共有できた気がして達成感を味わうことができました。
    "新選組は永遠です!”またいつか機会があれば新選組の足跡をたどってみます。

新選組Walk…(14)西本願寺

2005-02-26 01:50:25 | 新選組
堀川通り沿いの大きなお寺…西本願寺です。
1865年、勤王派の動きを牽制するため、幕府は屯所が手狭になった壬生からここ西本願寺に移しました。西本願寺での新選組の行動は、境内で大砲や小銃の発射訓練をして参拝人の肝を冷やしたり、神聖な寺域での切腹、取り調べ、粗暴な振る舞い…数々の圧迫にたまりかねた西本願寺は新選組に移転してもらうべく、不動堂村に1町四方の土地を買い屯所として広大な屋敷を建てたそうです。巨大な財力・実力をもつ西本願寺にして新選組を追い出すにはかなり苦労したようですね。
1867年6月、新選組は第3の屯所、不動堂村に移転しました。西本願寺から南、ちょうどJRの高架のあたり(リーガロイヤルホテル前)です。

親鸞聖人により開かれた浄土真宗本願寺派の本山。1591年現在地に移動。世界文化遺産。

新選組Walk…(13)島原大門

2005-02-18 22:12:16 | 新選組
 この門はガイドブックなんかでよく目にします。
島原遊郭の大門で、1641年(寛永18年)に六条三筋町から移された、我が国初の官許の花街で、四方を堀と塀で囲み、大門はその東辺の北寄りにありました。
浅田次郎さんの「輪違屋糸里」(新選組土方と島原の芸妓・糸里を中心として芹沢鴨暗殺事件を描いた新選組文学の傑作)ででてくる輪違屋は、元禄時代から今日現在まで300年続いている唯一残る置屋さんでここ島原で営業中です。もちろん「いちげんさん」お断りの世界で、営業中なため内部の見学はできません。残念ですが・・・

 今の島原大門、周囲はビルとかで囲まれていて、思っていたのとはイメージが違いましたが、門の傍らの柳や、天水桶がいかにも遊郭らしい面影を伝えており、このわずかな一画のみ江戸時代にタイムスリップした印象でした。
 ここでWalking距離も9km…大詰めにさしかかりました!!もう一息ガンバレ!

新選組Walk…(12)島原角屋

2005-02-18 21:51:51 | 新選組
今回の新選組Walkも終盤戦です。
壬生をあとにして、島原へ。途中の光徳公園という所が昼食ポイントになっていてみんな思い思いに弁当を広げてピクニック気分です。天気は回復してきましたがまだ寒くてのんびり食事とは行きませんでした…。
 JR山陰線の丹波口を右に見てさらに南下します。京都中央卸売市場を過ぎて左折すると島原へ到着。唯一現存する江戸期の揚屋(あげや)建築として国の重要文化財に指定されているのが写真の「角屋」です。
 揚屋とは、芸妓や太夫を呼んでもてなす料亭のことで、当時は勤王、佐幕を問わず諸藩の武士たちがここを利用したとか?壬生からも近く新選組隊士たちも毎晩のように島原で遊んでいたと言われています。
 幕末、維新の島原の艶めいた風情を偲ばせる美しい日本建築ですね。

新選組Walk…(11)壬生寺

2005-02-18 21:48:35 | 新選組
新選組屯所の八木邸からすぐ南の壬生寺。
ここで、隊士達の軍事演習が行われました。大砲の響きであちこちが破損し、屋根瓦がずり落ち、参拝人が恐れて来なくなったと当時お寺が嘆いたとか?
 一方、この境内で沖田総司が近所の子供達と遊んだり、近藤達隊士が壬生狂言を鑑賞したというエピソードも残っているようです。
 境内には、区画が仕切られ、隊士の墓所「壬生塚」があり、芹沢鴨をはじめとした隊士が眠っています。

新選組Walk…(10)八木邸

2005-02-13 00:35:20 | 新選組
新選組屯所としてはこちら八木邸がより有名ですね。新選組発祥の地です。
浪士組として江戸からやってきた近藤たちに最初に屯所として割り当てられたのがここの離れ座敷でした。前回紹介した前川邸のすぐ隣にあります。
 浪士組提唱者の清河八郎が京都到着後すぐに江戸に戻ったあとも初志を貫徹して近藤、芹沢等24名が京に残留…ここに新選組が始まりました。
 またここでは酒乱&素行の悪い芹沢一派が1863年9月18日、大雨の夜に島原から帰って寝ていたところを土方、沖田らに急襲・粛清されました。その時の鴨居の深い刀傷が今も残っています。緊張してしまうシーンです。
 この八木家は大河ドラマでよく出てきた家です。伊藤四郎さん扮する八木一家が最初は嫌ってた新選組を、その内に大事に親しくなっていく様がよく分かりました。やはり新選組は京都市民には人気があったんでしょうね!

新選組Walk…(9)旧前川邸

2005-02-12 21:47:39 | 新選組
 いよいよ今回から壬生の新選組本拠地に入りますよ!
1863年(文久3年)以来2年間、西向かいの八木邸とともに近藤、土方等の試衛館一派の宿舎になった壬生郷士・前川荘司の旧邸です。
玄関には目印とはいえ良く目立つ「誠」の旗が…ちょっと派手なんでは~。
 ここは、長州系のスパイ古高俊太郎が捕らえられ取り調べが行われ池田屋事件の情報をつかんだところとして有名です。また副長山南敬助が切腹した場所としても知られています。
 色んな新選組の歴史を見てきたこの前川邸…今は玄関先で新選組グッズが売られているお土産店になっておりました!

新選組Walk…(8)光縁寺

2005-02-11 01:31:23 | 新選組
 「さぶー」と思わず口にしそうな京都の空からは小雪がちらほら。二条城から南へ…京福電車嵐山線のターミナルビルがある四条大宮の先の路地を入っていくと、新選組の墓所「光縁寺」です。
浄土宗知恩院の末寺-1613年頃の創建で入り口には「新選組之墓」と刻まれた石碑があります。供養されている隊士は27名。
山南敬助をはじめとして、河合耆三郎たちのお墓があります。すごく小さなお寺ですがファンには気になる所…だそうです!
この辺で出発してから約7km・・・ちょうど中間点、まだまだ頑張りますよ~!

新選組Walk…(7)二条城

2005-02-07 00:12:30 | 新選組
京都観光の定番「二条城」です。大規模な建築で、世界遺産にも登録されています。
京都守護職屋敷跡(京都府庁)から南西方向、約10分の距離です。
築城は1603年(慶長8年)、京都の守護と上洛時の宿所の為に徳川家康によって行われました。ちょうど家康が征夷大将軍になり、江戸に幕府を開いたのと同時期ですね。徳川幕府の京都支店のような位置づけです。1634年の家光の上洛以降は200年以上歴史の表舞台に出ることがありませんでしたが、明治維新の重要な歴史舞台として幕末に復活しました。
 1863年(池田屋事件の1年前)に将軍家茂が孝明天皇の勅命で上洛し、ここ二条城へ。続く最後の将軍慶喜はここで1867年10月に大政奉還を行い260年続いた徳川政権は幕を閉じました。ここでは、大政奉還の部屋とかを見学することができます。これを聞いて新選組のみんなは落胆したんでしょうね。きっと。

 歴史とは全然関係ないのですが、映画「ラストサムライ」のプレミアム試写会が一昨年の11月にこの二条城でトムクルーズ等出演者を招いて行われました。この日、私も休みをとって京都にいたのですが、どこかでトムクルーズとニアミスしてるかも知れませんね??そういえば、その日はやけにマスコミの方々をたくさんお見受けした日でした。プライベートジェットでアメリカから飛んでくる方は違いますね!!
 ここまで歩いて、Walkingはまだ5km少し。まだ半分未満ですね。昼前から空模様も少し怪しくなって雪がちらほらと・・・冷えてきましたよ~!!

新選組Walk…(6)京都守護職屋敷

2005-02-06 15:41:37 | 新選組
京都御所・蛤御門を後に、当blogで04年10月11日に紹介した「聖アグネス教会」の角を西に入ると京都府庁。ここは幕末時代の「京都守護職屋敷跡」です。
 金戒光明寺(1/9の当blog参照)を宿舎とした会津藩主松平容保は、1863年にこの京都府庁の敷地に守護職屋敷を建てました。京都守護職とは、京都の治安維持の為に設立された幕府の役職で、京都所司代や京都町奉行などの上位に位置づけられたそうです。
 ここでも容保さんは、近藤、土方達と面会し、色々と相談したようですね。テロが激しい幕末の京の町を一所懸命守った新選組に改めて感謝です。

 また機会のある時に「建築」のカテゴリで説明しようと思うのですが、この京都府庁の歴史ある建築も有名なんですよ。京都ハリストス教会の設計者「松室重光」の設計作品です。今どきの庁舎と少し趣が異なり「重厚」「どっしり」「安心感」・・・がみなぎってます!どこかのようにカラ出張、税金無駄使いは無かったんでしょうね。当時はどこも。