狩野一派・・・永徳の祖父元信時代からプロフッショナルの絵師集団を
率いて、天下人、寺社仏閣、有力大名からの作画要請に対応していたようです。
スタジオジブリの桃山時代版でしょうか^^;
その中心の永徳は、現代ビジネスマン同様、膨大な仕事をこなし、48歳で没する
直前まで東福寺法堂の天井画(蟠龍図{ばんりゅうず})を制作していたとのこと。
怪物絵師として他の追随を許さない、圧倒的な才能で画壇の頂点に君臨しつつ
たいへんなストレスも感じていたのでしょう?何となく気持ち分かります・・。
そんな永徳がその前半生に描いた山水、花鳥、人物画はほとんどが精緻を究めた
「細画」でした。その代表作が、これです。
・・・「洛中洛外図屏風」 国宝 米沢市上杉博物館蔵・・・
信長が上杉謙信に送ったと言われています。
凄いですよ!この絵・・・。上の写真は屏風の2枚分ですが、実物はこれが
6連になっていて、さらに左右一対の大作。
金雲たなびく京の街の中の建築、町衆の様子が細かく細かく描かれていて
人々のさんざめきまで聞こえそうな模写です。人物は計2485人だそうです。
上の写真の右下には祇園祭の山や鉾まで描かれているのが分かりますね。
この絵、先まで行ってまた戻ったりして、3回ほどじっくり観ました。
雪の積もった金閣寺や、清水寺、五条大橋や室町通り・・・発見しては
喜んだりして・・・
この絵は永徳さん、きっと義務だけで描いたのと違って作品を楽しみながら
描いてたのと違うかなぁ~?永徳20代の青春時代の作品です。
永徳の後半生は前回の記事のトップの写真「唐獅子図屏風」のように風格雄大
な大型作品(絵の対象も、巨大な樹、枝とかが多かったです)の「大画」です。
こちらは戦国武将の覇気を画筆に乗せて現した作品群でした。
また、その間、天下人の人物画も描いていて(描かされていて??)、教科書で
見るようなこんなのもありました。
・・・「織田信長像」 京都 大徳寺蔵・・・
神経質で怖そうな信長が描かれています。この仕事は永徳さん手が震えたこと
でしょう。実際、安土城の障壁画を描きに安土まで長期出張する際は、信長に
気に入られるかのリスクを考えて、弟に家督を譲ったとさえ言われています。
素晴らしい桃山時代のアートの寵児:狩野永徳・・・戦国の時代を突っ走り
狩野一派の盤石な基礎を造り、日本画のパイオニアの絵が今京都に集結してます!
率いて、天下人、寺社仏閣、有力大名からの作画要請に対応していたようです。
スタジオジブリの桃山時代版でしょうか^^;
その中心の永徳は、現代ビジネスマン同様、膨大な仕事をこなし、48歳で没する
直前まで東福寺法堂の天井画(蟠龍図{ばんりゅうず})を制作していたとのこと。
怪物絵師として他の追随を許さない、圧倒的な才能で画壇の頂点に君臨しつつ
たいへんなストレスも感じていたのでしょう?何となく気持ち分かります・・。
そんな永徳がその前半生に描いた山水、花鳥、人物画はほとんどが精緻を究めた
「細画」でした。その代表作が、これです。
・・・「洛中洛外図屏風」 国宝 米沢市上杉博物館蔵・・・
信長が上杉謙信に送ったと言われています。
凄いですよ!この絵・・・。上の写真は屏風の2枚分ですが、実物はこれが
6連になっていて、さらに左右一対の大作。
金雲たなびく京の街の中の建築、町衆の様子が細かく細かく描かれていて
人々のさんざめきまで聞こえそうな模写です。人物は計2485人だそうです。
上の写真の右下には祇園祭の山や鉾まで描かれているのが分かりますね。
この絵、先まで行ってまた戻ったりして、3回ほどじっくり観ました。
雪の積もった金閣寺や、清水寺、五条大橋や室町通り・・・発見しては
喜んだりして・・・
この絵は永徳さん、きっと義務だけで描いたのと違って作品を楽しみながら
描いてたのと違うかなぁ~?永徳20代の青春時代の作品です。
永徳の後半生は前回の記事のトップの写真「唐獅子図屏風」のように風格雄大
な大型作品(絵の対象も、巨大な樹、枝とかが多かったです)の「大画」です。
こちらは戦国武将の覇気を画筆に乗せて現した作品群でした。
また、その間、天下人の人物画も描いていて(描かされていて??)、教科書で
見るようなこんなのもありました。
・・・「織田信長像」 京都 大徳寺蔵・・・
神経質で怖そうな信長が描かれています。この仕事は永徳さん手が震えたこと
でしょう。実際、安土城の障壁画を描きに安土まで長期出張する際は、信長に
気に入られるかのリスクを考えて、弟に家督を譲ったとさえ言われています。
素晴らしい桃山時代のアートの寵児:狩野永徳・・・戦国の時代を突っ走り
狩野一派の盤石な基礎を造り、日本画のパイオニアの絵が今京都に集結してます!