国道329号線を南下、何部病院の先からバイパスに入りしばらく行くと左側に畑が広がります。その畑の中、糸満市伊敷に自然壕の糸洲壕があります。1944年10月10日、十・十空襲の際に糸州の住民達がこの壕に避難しました。壕には出入り口が2箇所ありそれぞれウッカーガマ、ウンジャーガマと呼ばれています。
1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)は糸洲壕に移動してきます。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていました。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されました。
しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたということです。
この長野県出身の軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物でした。
糸洲壕の上に立つ鎮魂の碑
第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していくことになります。壕の中は広いのですが、中には水量豊富な川が流れており洞窟内は濡れた状態で、学徒隊の足袋は乾くことが無く足がふやけてしまい歩くのも困難になったということです。
6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受けます。壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んだりする攻撃です。
衛生兵たちは切り込み隊に任命され、夜になると闇夜に紛れて米軍へ奇襲を行いました。
衛生兵が少なくなるにつれ、学徒隊の仕事はますます多くなっていきました。
こうした中、小池隊長の元に野戦病院の解散命令が届きます。この解散命令とは実際には「玉砕せよ」という命令です。しかし今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになる。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩みましたが、こんな状況の元で少女たちを放り出すことは出来ない、と解散命令を握りつぶし壕の中で解散の時期を探ることにしたのです。
糸洲壕への入り口
6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知ります。そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出します。
解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、次のような話をしたということです。
「日本は戦争に負けました。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げました。
米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、
「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出しました。
解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還しました。
解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見します。
なぜ常々「決して死んではいけない」と諭していた小池隊長が自決したのかは明らかでありません。軍人として命令を握りつぶした責任を取ったのでしょうか?
いずれにしても沖縄戦において、命を尊ぶ考えを持った軍人が日本軍にいたという事実を知っておかねばなりません。
八千穂から ひで
会社の近くの駐車場で管理人をされているご年配がいらっしゃいまして、ある日飲み屋で一緒になりました。
彼は「日本兵に助けられた」という話をしてくれました。
詳細はまた書くことがあると思いますが、日本兵にもいろいろな人が居たというのも事実です。
アルファさん、
言われる通りですね。
命の重さが軽くなる社会にはしたくありません。
どれだけ奇跡的なことか、
自分の手でその生命を断つことがどれだけ残念なことか、
それを教えるのが教育の最も重要な役割だと思っています。
戦時中の日本の方針は、
「反面教師」としてみんな伝えられるべきだと思います。
沖縄である種の劣等感に似た気持ちもあり…の生活でしたが、小池勇助少佐のような方もおいでになったのですね。知らないことの怖さを知り、これからひたすら学ばねば、と思っています。嬉しいです。まだまだ生かせて貰えそうで。