秀山の俳句写真日記

日々の生活、旅先での出逢い・思いを俳句、写真、文にした徒然日記です

311震災遺構、子どもの日

2023年05月08日 00時25分18秒 | 日記
震災遺構 時さかのぼる 子どもの日
         福島県双葉郡 請戸(うけど)小学校
 
 
 請戸小学校は、3月11日午後3時37分に津波に見舞われ、幸いにして児童93人は全員無事避難することができました。校舎はその当時のままに整備・保存されています。時計も止まったままです。
 この遺構を歩きながら、私は広島の原爆ドーム、そして広島平和記念資料館にある当時の資料に圧倒されたことを思い出しました。実物の持つ圧倒的な説明力です。
 この小学校は2階の床下まで水が来、1階は津波に破壊され、鉄骨の構造部分のみ残されました。
 請戸小学校の被災状況を見て、311当時の宮城県の大島、女川、七ヶ浜の悲惨な被災状況が鮮明に蘇りました。
 2011年の5月は宮城県気仙沼市大島、7月は宮城県牡鹿郡女川町、12月は宮城県宮城郡七ヶ浜町にボランティアでそれぞれ1週間から10日ほど滞在しました。
 5月の気仙沼市大島では、流されてきた土砂、瓦、ガラスの破片、他の人の電気冷蔵庫等々で埋まった家の1階や田畑の片付けのお手伝いをしました。被災者の方と先ずご挨拶した時、言葉が詰まってしまいました。7月と12月は、仮設住宅で食料調達、配膳等、生活のお世話や足湯マッサージをしながら被災者の方々のお話をお聴きしたりしていました。
 
 日本は地震からは逃れられない運命にありますが、これからの日本を担う今の子供たちの為にも、311の教訓が活かされることを切に願います。
 
 以下の和歌や俳句は、当時の被災地での状況を見、又は被災者の方のお話を聞き、又は自分なりの感じから生まれたものです。
 
5月 気仙沼市からフェリーで大島へ
 
船山に 登るや津波 魔の力 浜辺を千鳥 小走りゆけり
 
残りえた 家の一階 空洞に 浜辺の町は 更地となりぬ
 
山腹に トタン柱や 梁のあり 田畑瓦礫で 埋(うづも)れり
 
家一歩 入るや天井 垂れ下がり 家財散乱 茫然自失
 
凄まじき 津波の跡の 家田んぼ 他人(ひと)手なければ 片付け不能
 
凄まじき 津波の跡の 家の中 家主を思い 片付けにけり
 
 
7月 宮城県牡鹿郡女川町
 
段ボール 仕切り避難所 蠅数多
 
段ボール 仕切りの中の 昼寝かな
 
段ボール 仕切りの夕げ 団扇手に
 
オープンな 暑き避難所 セル生活
 
 
12月 七ヶ浜、亘理町仮設住宅 お聞きした話と自分の生活;
 
車より 我降り妻を おろさんと 握りし手をば 津波奪へり
 
松原より 助けを求む 声のあり 孤立二階で 為すすべのなき
 
二階にて 水に囲われ 連絡の 取れず助けを 待つ昼夜中
 
もうダメかと 思ふも外を 見続けし 時に近づく 自衛隊ヘリ
 
餅つきて 絆明るく 七ヶ浜
 
被災地の 陽は神々し 冬の朝
 
癒されるも 癒すも絆 年暮るる
 
胸の内を ただ聴く足湯 年暮るる
 
全て失せし 人のつぶやき 年暮るる
 
奥さんの 時計右手に 年暮るる
 
足湯に来る 年寄元気 年の暮
 
七ヶ浜に 無量慈光の 冬の月
 
泥道も 夜は凍てつきし 七ヶ浜
 
ダウンコート ズボンで寝袋 七ヶ浜
 
厚着して 蓑虫のごと 寝袋寝
 
朝冷えに 更に厚着す 寝袋寝
 
家農地 津波に奪われ 戻られぬ いつまで続く 日雇の日々
 
海陸の 幸の豊な この土地が 無にならんとは 思ひもよらじ
 
 
以下は、他のボランティアの方と活動して感じたものです。私が参加させていただいたボランティアの方々は、私と同年代は女性の方がお一人だけで、後は皆さん、私よりはかなりお若い明るく頼もしい方々でした;
 
相知らぬ ボランティアの チーム力 その源泉は 他への優しさ
 
 
和をもつて 役割を決め ボランティア 津波の跡を しかと片付け
 
日本の 若者頼もし ボランティア 柔軟確実 明るく黙々
 
日本の 女性は元気 ボランティア 作業に食事に いつも高笑
 
ボランティア 人海戦力 黙々と 津波の跡の 片付け進む
 
集まれば 大きな力 人の手は 片付けしつつ ピラミッドを思ふ

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