無為の旅 朝な夕なに 秋の声
有馬温泉宿から同じアングルで撮りました。
神々しいばかりの綺麗な夕焼の一夜明ければ、透き通るような蒼天で地は緑におおわれていす。
無為の旅 秋しみじみと 夕焼かな
無為の旅 天高くして 一夜明け
雄大でダイナミックな自然の変化(へんげ)を前に、改めて自分も生々流転のこの自然の一部だよね~、と思いながらしばし眺めていました。
宇宙物理学にも仏教にも門外漢の私ですが、存在論というか、宇宙論みたいなものに若い時から興味があり、両者の見方は似通っているな~、という印象をもっています。
現時点での宇宙物理学では、私たちが今住んでいる宇宙は137憶年前のビッグバンで誕生し今現在も膨張し続けている、そして、この宇宙に存在するあらゆるものの根源的構成物質は、人間も含めすべて同じ、と言っているように思われます。この地球に存するあらゆるもの、生物も、水も土、石などの無生物も全て根は同じで、この宇宙に存する他の天体についても同様。
この見方からすると、私は日本に人間として生まれましたが、これはたまたまのことで、他の国で生まれる、又は他の生きものとして生まれる、はたまた無機物となっていた可能性はゼロではなかった、ということになります。もしそうだとすると、自分以外の人、生きもの、無機物を差別する、冷たく扱うことに躊躇の気が生じるような・・・。また、自分が死んで根源的物質に還元され、その同じ根源的物質から他のものに再構成されてこの宇宙に再存在するかもしれないと考えると、躊躇の気はますます大きくなります。
一方、仏教の存在論、認識論ですが、最近読みました三田誠広著「日本仏教は謎だらけ」で次のような個所に出逢いました;
「私たちは宇宙の中に存在しています。その宇宙を、巨大な一つの仏ととらえ、私たちは仏の胎内にいるのだと考えれば、私と仏とが一体になったように感じられます」。「仏はわたしたちの心の中に存在している。わたし(=三田氏)はそんなふうに考えています」。「宇宙全体が仏の胎内にあるとすれば、その小さな仏の中にも宇宙があるはずです」
このようなものの見方があるので、「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」という考えが自然に導き出されたのではと思いました。
宇宙物理学、仏教から教えられるのは;
万物皆同じ、他者への慈しみの心を忘れずに
ということでしょうか。
無為の旅 朝な夕なに 秋の声
秋に移ろふ自然の声がここかかしこから聴こえてきます・・・
追記:奈良の大仏は宇宙そのものを象徴する毘盧遮那仏(=久遠本仏)です。この仏は本来姿がないのですが、前述本によれば、姿のない仏を仏像にするには「想像を絶するほどに巨大な仏像を作るしかない」とのことであのサイズになったとのことです。