日々あらたに

3/11の大震災以降、数多くの変化が起きています。その変化をとらえ、新しい時代について観察を続けていきます。

日本人の高いモラルはどこから?(その1)

2011年05月15日 | 日記

日本人の高いモラルはどこからきたのだろうか?

今回の震災では、被災地の方々をはじめ極限状態におかれた日本人のとった行動、特に、自己犠牲の精神、他人への思いやり、集団秩序の重視・・・などなどについて、海外から多くの賞賛の声があがっている。

これらは、阪神大震災の時にも、外国報道で賞賛されたものであり、古くは、明暦の大火(1657年:10万人以上の焼死者を出し、江戸城は全焼、市中も焦土化した)の時にも、民衆には同様な行動が見られたようである。

                (参照: 3/23日経 東大、山内教授の記事)

この、極限状態になって現れる高いモラル。

これは今に始まったわけでなく、昔から、日本人に備わってきたものだとすれば、少し大袈裟に言えば、もしかすると、遺伝子レベルにまで刷り込まれたものではないだろうか?。・・・とすれば、そのルーツはどこからきたのか?あるいは、どうやって、文化・風土にまで定着したのだろうか?

沸々と湧き上がる疑問に耐えかねず・・・また、歴史的背景を知りたがる英国BBC放送の突撃取材に日本人を代表して答えられるよう、・・・浅学非才を承知の上、少し調べてみた。


その結果、

歴史をズイズイとさかのぼって見ると、孔子(紀元前551~479))に始まり、孟子(紀元前372~289頃)につながる儒教の教え、その中でも特に、孟子が唱えた「四端(したん)の説が最もルーツに近いような気がする。

「四端(したん)の説

       惻隠(そくいん)の心は仁の端(はじめ)なり。

       羞悪(しゅうお)の心は義の端(はじめ)なり。

       辞譲(じじょう)の心は礼の端(はじめ)なり。

       是非(ぜひ)の心は智の端(はじめ)なり。 

 「惻隠」とは、他者を見ていたたまれなく思う心。「羞悪」とは、不正や悪を憎む心。「辞譲」とは、譲ってへりくだる心。「是非」とは、正しいこととまちがっていることを判断する能力のこと。

これを、現代風に訳すると、

       かわいそうだなという気持ちは、仁のはじまりである。

       善悪がわかるのは、義のはじまりである。

       譲るという気持ちは、礼のはじまりである。

       是か非かわかるのは、智のはじまりである。 

この「四端」を努力して拡充することにより、それぞれが仁・義・礼・智という人間の4つの徳に到達する。

だから人間は学んで努力することによって自分の中にある「四端」をどんどん伸ばすべきなのであり、また伸ばすだけで聖人のような偉大な人物にさえなれる可能性がある。  ・・・というのが、孟子の教えだそうだ。

(参照:四書五経一日一言(渡辺昇一)

ウイキペディアhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9F%E5%AD%90)


この「仁・義・礼・智」 に漢の董仲舒(紀元前176~104)が「信」を加え、「五常の徳」を確立した。そして、最終的に、この五常の徳が、儒教の中核をなす考えとなったのである。

 「五常の徳」とは、 (人間が守らなければいけない5つのルール)

 ・仁 ・・・愛、慈しみ、思いやりの心、慈悲の心
 ・義 ・・・人の生きる正しい行い(普遍的礼儀) 

 ・礼 ・・・礼節を重んじる、辞譲の心、謙虚に、社会秩序に従い、人を敬うこと
 ・智 ・・・考え学ぶ力、是非の心、知識や経験を通じた正邪の区別ができる知恵
 ・信 ・・・信頼、信仰、自分を信じ、人を信じる心。うそをつかない、約束を守ること


この儒教の教えが、時間と空間を越え、長い年月と様々な経緯をたどりながら、日本人の心の原型を形づくって行ったのではないだろうか?

              (ふううう・・・疲れた。) 

今日は、ここまで来るのにも軽い脳みそがいきなり、悲鳴をあげはじめた。漢文系は見るだけで、普段の10倍位のエネルギーを消費してしまう。

              (今日は、ここまでで終わろう。)

また、機会を見て、この考え方が文化・風土としてどう定着していったのか?あるいは、遺伝子レベル?まで浸透していったのか等について、できれば調べてみたい。

      ・・・ということで、唐突だが、次回に続く。(The END)





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