平蔵日記

クサガメ平蔵の日記。他に徒然なるまま気の向くまま・・・

正面から

2006年05月05日 21時37分54秒 | カメ
水槽の窓から覗いていると、平蔵もこっちを覗いてきました。
写真を撮ると、やっぱり甲羅にピントがあってしまいます
このアングルで、バッチリ顔にピントがあった写真が撮りたいものです。
腕(足)の先はウロコで覆われてますが、だんだんと皮に変わっていってるんがよくわかります

「真田太平記(七)関ヶ原」 池波正太郎

2006年05月05日 20時37分16秒 | 読書
いよいよ関ヶ原の戦い。
あまりにも有名なこの戦いの結果、西軍勢力は滅び、また縮小され、東軍勢力、とくに徳川家の勢力は優に豊臣家を凌ぐこととなり、天下はほぼ徳川家のものとなりました。
小早川家の裏切りがなくとも、兵力的に優勢であったがそのほとんどが本気で戦わなかった西軍が、兵力が劣っていても全軍上げて戦った東軍に勝てる訳がなかったのかもしれません。
そのように事前に仕掛けていた、徳川家康の貫禄勝ちでしょう。
本巻は西暦1600年の8月25日から運命の9月15日を経て、10月末ごろまででしょうか。

関ヶ原にて両軍が激突する2週間ほど前。
9月2日から7日の間、真田昌幸は上田城にこもり、徳川秀忠率いる徳川第2軍を完璧に翻弄します(第2次上田合戦)。
その結果、徳川秀忠率いる4万近い軍団は、関ヶ原の戦いに間に合わない、ということになります。
「これならば、いかに治部(三成)とても、負くることはあるまい」
とは昌幸の言葉。
ところが負けるんです。
当日の戦況を知ったときの昌幸と幸村の失望は、
「あまりに愚かしく、なさけなく、正気の沙汰とはおもえぬ・・・」
だったそうで、このときの失望が、後の幸村を鬼神の働きへと駆り立てることになるんですが・・・

全体的に情けない人間ばっかりが目立ってしまいますが、滝川三九郎の爽やかさ、義の人大谷吉継の奮戦、島津義弘・豊久の化け物じみた退却戦、そして家康の忠臣本多忠勝が家康と戦うことを決意してでも真田親子の助命を、家康に迫るシーンなど、心震える場面も揃っています。

真田太平記〈7〉関ケ原

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「真田太平記(六)家康東下」 池波正太郎

2006年05月05日 19時57分41秒 | 読書
家康の天下取りへの執念が、ますます凄まじくなります。
大体秀吉亡き後の豊臣政権は、ホント隙だらけです。
その隙に家康の爺さん、思いっきりつけ込みます。
太閤贔屓の自分としては、家康ってのは生理的に受け付けないんですが、この時期(そして後の冬夏の大坂の陣のころ)の家康は、メチャクチャむかつきますね
だけど、戦国時代をまともに生き抜いてきた人間と、その2世達とでは、まともな喧嘩になりません。
家康の掌の上で、反家康勢力は完全に踊らされ、ほとんど思うがままに展開し、次の巻にていよいよ関ヶ原の戦い、となります。
実際は家康にしても伸るか反るかの、博打的要素が大きかったんですが、徳川家康と石田三成というリーダーとしての資質が、まともに結果に反映した戦いですね。
西暦で1599年12月始めから1600年8月25日です。
およそこの9ヶ月に渡って行われた前哨戦で、関ヶ原の結果が決定したようなもんですから、池波正太郎さん丁寧に書き込んでます。

真田家は、昌幸(お父さん)と幸村(次男)が西軍(石田三成)につき、信之(長男)が東軍(徳川家康)につきます。
真田昌幸が中央の情勢に、もっと詳しかったら、果たして西軍についたかどうか・・・
というよりも、真田昌幸は別として、幸村と信之の生き方の違いが、ここでハッキリとした、ということなんでしょう。

真田太平記〈6〉家康東下

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Tourist Trophy vol.8

2006年05月05日 19時36分09秒 | ゲーム
久しぶりにスーパークラス挑戦。
なぜかインフィニオンをサクッとクリア。
あの苦労は一体・・・
これで調子に乗ったのか、ミッドフィールド、スペシャルステージ・ルート5も連続クリア
ところが富士スピードウェイ 90'sで大つまづき
ほんと何てことないコースなんですが、第1コーナーが曲がれない
とにかく立ち上がり重視で(当たり前なんですが・・・)丁寧にコーナリングするようにして、何とかクリア
最終コーナー曲がる時は、ホント祈りながらでした
ふぅ・・・
大体デモンストレーションが、金のタイムをクリアできてないってどういうことなん
あとはトライアルマウンテン、そして鈴鹿でライセンス・スクール修了です。
鈴鹿・・・
ぞっとします