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ハチは知っている

渋谷区について広く・浅く知識を深めよう♪
ただ今工事中です。書式等の統一中の為、少しずつページが変わります。

世界文学『The Tale of Genji』

2012年06月27日 | 文学
日本人なら誰もが知っている『源氏物語』。
興味のあるなしに関わらず目にし、耳にしているでしょうから、その内容は説明するまでもないかもしれませんが、この物語は、大変なイケメンで才能もあり身分も高い貴族・光源氏の誕生から死、そしてその後の子孫の生活までを、54の小物語(五四帖)にわけて描いた世界最初の連作長編小説です。

渋谷区でも、商工会館にて、東洋大学名誉教授 神作光一氏による古典文学講座として、源氏物語読解が行われていました。(“『宇治十帖』を読む〜「四十九帖 宿木」「五十帖 東屋」~” 2011年の6/17~9/30までの間に全12回行われていました。)

「源氏物語は、その時代の人間の生や死に関わる様々な感動や思考、あるいは憧憬や苦悩、喜怒哀楽といったことがらが描かれており、平安時代に誕生してから、時を超えて現代でも多くの人々に愛され続けています。」これは講座案内のチラシの文句。

『源氏物語』は多くの読者から愛されるがゆえに、様々なアーティストたちにより映画化・コミカライズされてきました。
最近ではジャニーズJr.の生田斗真くんが主演で映画化(映画「源氏物語~千年の謎~」2011年12月10日公開、鶴橋康夫監督)の話もありますね。

コミカライズでは、中でも原文に忠実な大和和紀先生の『あさきゆめみし』があまりにも有名ですが、2005年の時点では13巻で1600万部も売れているとのこと。さらにこの漫画は、すでに英語版だけでなくドイツ語、中国語訳も存在しています。
この物語に大きく魂を揺さぶられているのは、決して日本人だけではないのです。


(画像はlivedoor Booksよりお借りしました)

ということで!
今回わたしが紹介するのは、『源氏物語』に感銘を受けた外国人作家の作品たちです。

そもそも『源氏物語』が海外の読者に紹介された最初の例は、おそらく、末松謙澄の英訳で、1882年にロンドンで出版されたとされていますが、外国人による英訳は、1925年 Arthur Waley(アーサー・ウェイリー) がロンドンで出版した『The Tale of Genji』が最初であると言われています。(『ウェイリー版 源氏物語』平凡社ライブラリ:N33/ム)



ウェイリーは1925年~33年にかけてこれを出版し、西洋に大きな衝撃を与えました。
その後も様々な国の人々に翻訳されていますが、訳する外国人は誰もがまずはウェイリーの英訳を読んでいると言っても過言ではありません。
彼の英訳により、“西洋諸国のその後の日本研究は格段の飛躍を見せた”(『世界の源氏物語』ランダムハウス講談社)とされています。

訳以外では、『病むことについて』(みすず書房・2002)にも掲載されている、ヴァージニア・ウルフ(映画『めぐりあう時間たち』でニコール・キッドマンが演じた人)の書いた『源氏物語』の感想などもよく読まれているようです。


さらに、この物語に対する情熱は、訳や感想だけにとどまりませんでした。
物語の続編を違う作者が書く、いわゆる《偽書》が多々発見されています。わかりやすく言うと同人誌…?

例えば、ライザ・ダルビーが紫式部のフィクションという形で描いたものが、『紫式部物語―その恋と生涯』(光文社・2002)
紫式部の死後、彼女の娘が遺品を片付けていると『源氏物語』の続編を見つけたとし、ライザ・ダルビー自らその続編を作っています。


そして、偽書の中でも興味深いのが、フランスの女流作家マルグリット・ユルスナール(1903年生「ハドリアヌス帝の回想」でフェミナ賞受賞)による『源氏の君の最後の恋』(原題:Le Dernier amour du Prince Genghi)
わたしたちのよく知る源氏の世界に、フランス的スパイスが利いています。


紫式部による『源氏物語』はその後半、最愛の妻・紫上を亡くし哀しみにくれる光源氏が雲隠れし、主人公が次の世代(源氏の息子・薫)に変わります。
そしてこの源氏が雲隠れする帖は、『雲隠』という帖名のみが伝わっているだけで、本文は白紙という、なんとも粋な方法で表現されています。
この『雲隠』という名前は、高貴な人の死、つまり源氏の死を象徴的に表していますが、この帖については、『もともとが帖名だけで意味を示し、本文は書かれなかったとする説と、本文は書かれたのだが紛失したとする説がある。(略)この幻の帖の内容については様々な説があるが、今でも真実は明らかになっていない。』(『面白くてよくわかる!源氏物語/根元浩 著)とされ、日本でも、六帖もの読者の創作『雲隠六帖』が伝えられているほど。

読み手側の数だけの源氏の最期を考えさせるのも、作者、紫式部の担いであったのではないだろうかとも考えられます。

そしてユルスナールの『源氏の君の最後の恋』は、まさにこの、白紙になっている『雲隠』の帖を想定して書かれたお話です。
さらに主人公は、『源氏物語』の数多の魅力的なヒロインたちの中でも最も地味で控えめで登場機会も少ない花散里という、非常に目の付け所のおもしろい作品です。



紫上の死や己の老いによりすっかり心をふさいでしまい、過去の輝いていた頃の自分を知る者とは誰にも会いたくない源氏。
どうにかしてもう一度お顔を見たい花散里が、尼さんからお姫様まで様々な人物に扮装して、へこたれずに何度も源氏のもとへお見舞いに行くところはまるで西洋のコメディ風。
そしてまた懲りずにこの花散里の扮するお姫様と関係をもってしまう源氏がおかしい。

そして最後。源氏が死に際に、自分と関係をもった女性たちをひとりひとり順に回想していくのですが、こんなに一生懸命通いつめた花散里の名は最後まで出てこなかった…という、いかにもフランス的ユーモアの効いたストーリー。
全体的にもの哀しい空気のお話のはずなのに、フランス映画のような皮肉なおかしさが。


訳にしても偽書にしても、日本語でしか表せない微妙な言い回しや独自の風習なんかを海外の言葉にするのは本当に大変…というか不可能だと感じました。
現代の私たちでさえ古文を読解することは容易ではないのですから、外国人にとって古典文学を本当に理解するということはかなりの難関でしょう。
しかしそれぞれのお国柄が非常によく現れた表現は、原作とは別物として楽しめます。

そしてやはり愛は世界共通!
表現は面白いほど変わりますが、このように『源氏物語』は日本人だけでなく様々な国の人々が引き込まれた愛と人生の物語であり、日本文学ではなくもはや世界文学となっていることがわかります。

語り出せばきりがありませんが…

例のしどけなくまねばむも なかなかにやとて こまかに書かず
(自分などがだらしなく書いていっては、立派なものをかえって壊してしまう結果になるのがこわいので、細かには書きません。)



引用・参考資料
『ウェイリー版 源氏物語』平凡社ライブラリ:N33/ム(中央所蔵)
『あさきゆめみし』大和和紀/講談社(他館所蔵)
『世界の源氏物語』ランダムハウス講談社:L/N33/ム(中央所蔵)
『病むことについて』ヴァージニア・ウルフ/みすず書房・2002(他館所蔵)
『紫式部物語―その恋と生涯』ライザ・ダルビー/光文社:933ダル(中央所蔵)
『東方綺譚』マルグリット・ユルスナール/白水社:953ユ(中央所蔵)
『面白くてよくわかる!源氏物語』根元浩/アスペクト:N33/ム(中央所蔵)
『世界文学としての源氏物語』笠間書院:N33/ム(中央所蔵)
『新編 日本古典文学全集 源氏物語③』小学館:N33/ム(中央所蔵)


!タイトルパロディ大研究!!!

2012年06月04日 | 文学

あれ?このタイトル、パクリじゃない?
私の大好きな本に似てるーー。
なんかクヤシイ…
 みなさんそんな目に遭ったことないですか?
 私は先日、予棚に『はぐれ雲は熱帯雨林の夢を見るか』篠田節子
を見かけ、また出たっ。と思いました。
 よく見る“○○は△△の夢を見るか”型 ‥‥これについては後述します。



 毎年12月に開催される「日本タイトルだけ大賞」で、
昨年は『ヘッテルとフエーテル』が大賞を受賞しました。
 このタイトルづけは、パロディ元を連想させて意味を持たせています。
効果的なタイトルパロディの手法です。

<Wiki> パロディの一覧 を見ると、同じようにわかりやす~いパロディが載っています。
(ひまなときにでも覗いてみてください。くだらなさ満載です)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AD%E3%83%87%E3%82%A3%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
 文学よりテレビ・漫画・音楽のほうが、より遊んでいる感があります。


 とにかくわかりやすければ、笑えるし相乗効果もあるし、いいと思うのです。

 けれども…
 たとえば、大ヒット作『世界の中心で、愛を叫ぶ』のタイトルが、それよりずっと知っている人の少ない
SF作品のパクリだったら、これはどうですか? そこが私の言いたいところです。
 まったく関係ない内容なのに、ただタイトルだけが似ている。おいしいとこだけとった、ズルイ手法です。

          『世界の中心でを叫んだ けもの』(1969)ハーラン・エリスンのSF小説
              The Beast that Shouted Love at the Heart of the World
                               ↓
                「世界の中心でアイを叫んだ けもの」(1996)
                『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話サブタイトル
                               ↓             
          エヴァのほうを編集者がパクった、孫パクリの可能性がいわれている。

 

 こういったタイトル引用の有名な例として、冒頭の“○○は△△の夢を見るか”があります。
 これは、フィリップ・K・ディックのSF小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1968)
Do Androids Dream of Electric Sheep?, アンドロイドはでんきひつじのゆめをみるか が基です。
  以下、ディックファンにより集められた引用例の表をテキストコピーします。でもこのページ、実際にアクセスしたほうが雰囲気楽しめます。 →→  http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/1460/data/what.html










         (表はすべてアンドロイドは電気羊の夢を見るか?のパロディ集HPより)

~読んだことないのばかりだけど、字ヅラだけでオモシロイの結構ありました。


表にも登場しました村上春樹について、突然ですが検証してみたいと思います。
中島梓の文芸時評のタイトルの中に、「ムラカミは電気ヒツジの夢を見るか」というものがあるようです。
村上春樹が好んでパロディをすることを示唆しているのかどうか、そこは想像でしかありませんが、
例えば筒井康隆のように、パロディを信条としている人に匹敵する量でやっていると思います。


小松左京 『日本沈没』            → 筒井康隆『日本以外全部沈没』 
大江健三郎『万延元年のフットボール』→ 筒井康隆『万延元年のラグビー』
大江健三郎『万延元年のフットボール』→ 村上春樹『1973年のピンボール』
安部公房『カンガルー・ノート』        → 村上春樹『カンガルー日和』
如何にパクって作品を面白おかしくするかに心血を注ぐ…それがSFの世界の一面でもあるし、筒井康隆は日本においてその代表といえます。
が、村上春樹はSF好きな純文学作家であろうことからして、パロディが中途半端です。
彼自身「あえてもじった」とかオマージュとか発言しているのでズルイとは言いませんが、面白おかしくはない。
私の中で、タイトルパロディかくあるべき!という路線から外れ、本の内容以前の段階で既に不思議ちゃんです。あくまで私の中でね!(^^)

!(^^)! いまだに予約がいっぱい →『1Q84』…ジョージ・オーウェル『1984』のオマージュとのこと。

(^.^ ジャズ好きだもんね →『意味がなければスイングはない』…デューク・エリントン『スイングがなければ意味はない』(It Don't Mean a Thing, If It Ain't Got That Swing)の、ThingSwingのひっくり返し。
村上氏本人によると、スイングが生まれるための「何か」-Something elseを追究したかったのでこうした、とのこと。
~まあわかりにくいですね。


みなさん、タイトルパロディについてはどう考えますか?


そもそも、タイトルに著作権なし!
しかし、定期刊行物(雑誌)タイトルには商標権あり。




雑誌はその名の下に、たとえば毎月出ます。
雑誌タイトルは看板ですから、ブランドですから、商標権が認められるのは理に適っています。

けれども、小説など単品で出る著作物のタイトルは「題号」と呼ばれ、著作権で守られる「著作物」の範囲から外れているのです。
(著作物=思想又は感情の創作的表現)<著作権法2条1項1号>

これをおかしい!と思うかどうか…

例えば、『PRADA ~その人気の秘密』という本が出てもOKだが、
月刊誌のタイトルに「PRADA」を入れたら商標としての使用となり、無断だと訴えられる!
 
 私自身は、これでいいのかとも思いました。さんざんくやしいだのおかしいだの並べてきましたが、みなさんはどうですか?


フレデリック・バック

2012年06月04日 | 文学
まだ図書館業務になれていない時期に、お客様から「大人が楽しめる絵本を探しているのですが、何かオススメはありますか?」と声をかけられました。この質問を受けた時、正直軽いパニックが起きました(汗)。何しろ、当時はろくに絵本を読んでなく、日々業務になれることで精一杯でした。その時は焦りながらもWのセクションにある数冊の資料を提供した記憶があります。今はようやく何冊か大人向け絵本を紹介できるようになりました。

私が今回ご紹介したい作家は、「木を植えた男」のイラストを手がけたフレデリック・バック氏についてです。渋谷区にも数冊資料がありますのでご紹介致します。また、東京都現代美術館では、「フレデリック・バック展」を夏の特別企画展として開催しております。1000点以上の作品が展示されており、原画、セルはもちろん、水彩画やたくさんの映像作品もあります。展覧会の雰囲気や展示品も独特で、ワクワクするような仕掛けがたくさんあります。バック氏だけの大規模な展覧会は世界で初ということもあり、とても貴重な作品ばかりです。また今回のために、ご高齢でありながらも緊急来日されました。


左からフレデリック・バック氏,高畑勲監督,竹下景子さん(女優)7月1日、内覧会にて

全ての展示品を見た後は、バック氏の人柄、そして人生そのものを感じとれることでしょう。


<ご紹介したい資料>



(あらすじ)
フランスの荒れた山岳地帯に一人とどまる羊飼い、エルゼア-ル・ブッフィエ。何十年もの間、一人で木の実を植え続ける。その不屈の精神と無償の行為が緑あふれる森を茂らせる感動の名作。
 第60回アカデミー賞短編映画アニメーション受賞
(コメント)
 去年まで、渋谷区でお薦め50に入っていた資料です。本町図書館には、映像も所蔵してあります。文章も長いので、小さな子供よりも中学生から大人が読むのに適当な量です。

 バック氏は、ジャン・ジオノの原作に感銘し、短編映画制作を決意したようです。5年半の歳月をかけ2万枚の原画を作成しました。映像は、まるで水が流れているようにスムーズで透明感があります。これぞまさしく、アートアニメーションです。一つ残念なお知らせとしては、主人公のエルゼア-ル・ブッフィエは実在の人物ではないと言うことです。バック氏自身も、このアニメーション制作中にこの事実を知って、途方に暮れて完成させるか迷ったそうです。それはブッフィエが実在しないことで、この物語が寓話になってしまう危険性があったからです。しかし、調べてみると、このブッフィエのような人物は世界中にいて、日本にもいたようだとバック氏はのち語っております(世界のアニメーション作家たちp.150)。私自身もこの事実を知った時はショックをうけました。しかし、この物語のメッセージは永遠なものであり、語り継がれるべきだと思います。

 著者のジオノは、ブッフィエを創りだした意図について、「人々に木を好きになってもらうこと、より正確には、木々を植えるのを好きになってもらうこと」だと語っております(木を植えた男を読むp.82)。



(あらすじ)
 舞台は北米を流れる大河セントローレンス川。自然に恵まれた美しい川が文明によって徐々に汚染されながらも力強く再生する姿がドキュメンタリー風に描かれています。

アカデミー賞短編アニメーション部門ノミネート作品 (受賞しなかったことが信じられない!)

(コメント)
 これぞまさしく、大人の絵本!残念ながら渋谷図書館のみ所蔵。パステルや色鉛筆で彩られた原画は美しく、また優しさに溢れています。が、環境問題について強く訴えているメッセージ性の強い作品です。読み終わると、心に残り、そして考えさせられます。人間は地球によって生かされていることを、決して忘れてはならないと強く思いました。現在、渋谷区にこの映像を所蔵する館はありません。映像はまるでナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーを見ているように美しいです。特に海の中のシーンは脱帽です。




(あらすじ)
 あるロッキングチェアの一生と、失われるケベックの伝統や文化を一緒に盛り込んで描いた作品。バック氏らしい優しい色彩がみごとに表現されています。こちらの作品も、短編映画として制作されました。

第54回アカデミー賞短編アニメーション賞受賞

(コメント)
 この作品はバック氏の娘さんが小学生の時、ロッキングチェアについて書いた文章がきっかけになったようです。バック氏は家族や親戚からこの椅子についての歴史を聞き、そしてケベックの歴史、文化などの資料を集め、まとめたものが「クラック!」として誕生しました。この作品制作中にケベックの美しい自然や文化が失われていくことに気づいたようです。この作品の後、「大いなる河の流れ」を制作しました。
この資料を読むと、良いものを大切に末永く使いたいと思います。日本人は、新しいものを好むことが多いので、古くても大切なもの、伝統的なものを残す気持ちを忘れてはいけないと思います。
*「クラック」とは、木が折れる音を表現したものです。
 映像にはセリフがなくキャラクターの動きと愉快な音楽で構成されております。この作品をスタジオジブリの高畑勲監督はアメリカの映画館で初めて見て感動したようです。

 この三作品は、現代美術館に映像と共に原画も展示されております。本を読んでから行くと、かなり面白いと思います。原画を直接見る機会はとても珍しいことです。この機会を逃さないでください。また、バック氏が「私たちに伝えようとしているのは何か?」感じとってみて下さい。

<ジブリと作家の関係>
 「フレデリック・バック展」は、スタジオ ジブリの宮崎駿監督と高畑勲監督がバック氏を敬愛していることから、企画され、ジブリの協力のもと開催される運びになりました。高畑監督は以前からバック氏の作品に感銘を受け、1990年には「木を植えた男を読む」を出版し、バック氏とも友人関係を築いています。
 また、宮崎駿監督の場合は、色鉛筆で描かれるバック氏の独特な表現方法や制作方法に影響を受け、「崖の上のポニョ」では似たような表現方法が使われています。展覧会期間中は、高畑監督の講演や、たくさんのイベントが開催される模様です。ジブリの気合が感じられます。

<アクティヴィストとして>
 バック氏は、「木を植えた男」を世界に広めただけではなく、それと同時に沢山の木を植え、自然や動物の保護活動もしてきました。彼のアニメーションによって、カナダでは植樹運動が活発になり、90年代には伐採された木よりも植えた木のほうが多くなったようです。バック氏はこういった地道な活動やメッセージを今でも世界に発信しております。

<作家の素顔>
バック氏は、とてもチャーミングでユーモアあふれる愛すべき作家です。
(ジブリのディレクターがおしえてくれたエピソードその1)
 今回の展覧会を開催するためにカナダのアトリエを訪れた際、バック氏がアトリエから現れた姿に驚いたそうです。
 それはなんと!鼻に丸い赤いスポンジを付けて出て来たそうです。来客を喜ばせるために、ユーモア溢れるピエロのように現れたようです。

(来日中のエピソードその2)
 カナダでは、愛犬マリーといつも一緒なバック氏。今回の来日には、もちろん愛犬を連れて来られません。さびしくなるので、段ボール紙で作った愛犬マリー人形を持って日本へ。美術館へは人形を抱えて登場。バック氏は、とてもチャーミングで、嬉しそうに犬を紹介していました。段ボール紙のマリーはほぼ等身大で、2Dですが手と足が動きます。   首輪も付けていました。犬種で言うとテリア系かな?人形を連れている姿がなんとも可愛らしかったです。

バック氏は人を喜ばせるのが大好きなのです。
 作品も素晴らしいですが、自然保護活動の行動力と発信力、そして愛らしい人柄で、私もバック氏に魅了されました。人としても、見習いたいと強く思いました。

フレデリック・バック
1924年、ザールブリュッケン(現ドイツ領)生まれ。
      ブルターニュ地方レンヌの美術学校で画家マテュラン・メウに師事した後、カナダのモントリオールに移住。
1952年 カナダの国営放送 ラジオカナダでグラフィック アート部門に就職する。
1968年 アニメーション部門に異動。以来、色鉛筆を使用した独特な映像作品を制作。
1982年、「クラック!」と88年、「木を植えた男」でアカデミー賞短編アニメーション賞を受賞。現在もモントリオール在住。創
      作活動を行いながら、自然保護団体の活動にも参加している。
オフィシャルホームページ:http:// www.fredericback.com


参考資料
「クラック!」(著)フレデリック・バック あすなろ書房 1987年 
「木を植えた男」(著)ジャン・ジオノ あすなろ書房 1989年
「大いなる河の流れ」(著)フレデリック・バック あすなろ書房 1996年
「木を植えた男を読む」(著)高畑勲 徳間書店 1990年
「世界のアニメーション作家たち」(著)小野耕世 人文書院 2006年





國學院大學と折口信夫

2012年05月31日 | 文学

折口信夫って?
折口信夫は、國學院大學文学部教授として国文学を、また民俗学者・柳田國男の高弟として、民俗学の基礎を築いた、というのが一般的に知られているが、その研究はそれだけにとどまらず、芸能史、歴史学・神学(霊学・天皇)、およびそれに関連する小説を上梓するなど、非常に幅広く多岐に渡り、またそれらは境界を越えて研究され、称して「折口学」と呼ばれる学問として成立している。また歌人としても名高く、「釈迢空」の名で正岡子規の「根岸短歌会」や「アララギ」に参加して作歌や選歌をしたが、やがて自己の作風と乖離して「アララギ」を退会し、のちに北原白秋・小泉千樫らと共に反アララギ派を結成して『日光』を創刊した。
実在のものから研究を進めるというよりも、主に思考を軸とした研究を進めた人でもある。

「折口信夫生誕の地」の碑と文学碑(大阪市浪速区敷津西1丁目) ウィキペディアより

「折口信夫」ができるまで
「折口信夫所縁の地」より(Google)

1887(明治20)年、大阪府西成郡(現在の大阪市浪速区)の商家に生まれる。
大阪の下町という場所柄、さまざまな芸事が存在する環境に育ったことが、のちの「折口学」を形成するうえで大きな基板となる。
医者であった父親が家の中で母親、母の妹、出入りの芸子と同居し関係を持つという複雑な環境で育つ。また色白で虚弱体質のうえ、右眉毛付近に青痣があったため、身体的劣等感も強かった。それらの事情からか、非常にストイックな性格で、学生時代には自殺未遂を繰り返し、赤面症で、ゲイで同性愛者(相手には必ず眼鏡と坊主頭を要求した)であり、コカイン中毒で、自分の本当の母親が他にいるのではないかという妄想(=来歴否認または孤児妄想といわれる)にとりつかれていた。そしてその妄想が「折口学」に多大な影響を及ぼすことになる。
1899(明治32)年、12歳の時に奈良県飛鳥にある飛鳥坐神社をひとりで訪れた際に9歳年上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家の藤無染(ふじむぜん)と出会って初恋をする。
1902(明治35)年、15歳で『文庫』『新小説』に投稿した短歌が入選する。
1905(明治38)年、國學院大學の予科に入学し、藤無染と同居。約500首の短歌を詠む。
1907(明治40)年、國學院大學国文科に進む。
1916(大正5)年、30歳のとき、大学内に郷土研究会を創設。『万葉集』全20巻(4516首)の口語訳上・中・下巻を刊行する。
1917(大正6)年、「アララギ」同人となる。
1919(大正8)年、國學院大學臨時代行講師となる。万葉辞典を刊行。
1921(大正10)年、柳田國男から薦められ沖縄・壱岐に旅行し、それ以来沖縄がフィールドワークとなる。
1922(大正11)年、雑誌『白鳥』を刊行。國學院大學教授となる。
1923(大正12)年、慶應義塾大学文学部講師となる。
1925(大正14)年、処女歌集「海やまのあひだ」を刊行。
1928(昭和3)年、慶應義塾大学文学部教授となり、芸能史を開講。また、「アララギ」を去り、北原白秋らと歌誌『日光』を刊行。また、20歳年下の国文学者である藤井春洋(國學院大學出身で教授。後に折口の養子となる)と同性愛の愛人関係(というよりも配偶者)として同居を始める。
1932(昭和7)年、文学博士となる。日本民族協会の設立に関わり、幹事となる。
1940(昭和15)年、國學院大學学部講座に「民俗学」を新設する。
1948(昭和23)年、『古代感愛集』により芸術院賞受賞し、第一回日本学術会議会員に選ばれる。
1953(昭和28)年、宮中御歌会選者となる。
     〃    9月3日、胃ガンのため永眠。


柳田國男との関係
柳田國男は折口より12歳年上で、立場的には師と弟子という関係だったが、民俗学を学問として成立させるに至って、お互いに理論をぶつけ合うライバル的関係でもあった。
柳田が、起こっている現象を重視し、実証を積み重ね、そこに合理的説明をつけて客観的に理論を打ち立てていったのに対し、折口は、あらかじめマレビトやヨリシロという独創的概念に本文化の起源があると想定するという、直感的かつ主観的に大胆な仮説を打ち立てていくという、まったく正反対な研究スタイルであった。
研究の一環として舞などを見学しているときでも、柳田や他の学者たちが演者にさかんに質問をするのに対し、折口はなにひとつ質問することなく、じっと見つめているか、下を向いて考え込んでいることが多かった。折口のそのような姿は、他の学者たちの目にはなにもしていないと映り、非難を受けたり、学者と認めない同僚もいた。
しかしそれは折口の研究スタイルであり、現実の向こう側に隠されているものを直感によって掴み取ろうとしていたのである。学者は一般的に自分の専門分野にのみ研究を深めていくが、折口の思考は、あらゆる境界線を越えて突き抜けていくものだった。
民俗学を構築するうえで基盤となる「神」に対しても、柳田と折口は正反対の考え方を持っていた。柳田が「神とは共同体の同質性や一体感を支えるもの=先祖の霊」ととらえていたのに対し、折口は「共同体の『外』からやってきて共同体になにか強烈に異質な体験をもたらす精霊の活動」と考えていた。そして折口はその考えを「マレビト」という概念として位置づけた。
私生活においても、柳田は、折口の同性愛という性的嗜好を完全否定していて、そのことで折口を人前で糾弾することもたびたびあった。それに対して折口は、同性愛は男女の間の愛情よりも純粋であり、変態と考えるのは常識論にすぎない、と反論し、そのことも対立的関係に影響していた。
ちなみに折口には、『口ぶえ』という、男子中学生同士の恋を叙情的に描いた若い頃の小説がある。


「折口学」とは?
折口の研究は、国文学・芸能史・民俗学が主な研究分野とされているが、既存の学問の範疇に収まりきらないほど広範囲にわたっている。また、それらを総体的に論ずる折口独特の用語が数多く存在する。そのような折口の研究および思想をひとつの学問体系とみなしたものを「折口学」と総称している。

折口学で使われる用語
マレビト、ヨリシロ、常世、貴種流離譚、宮中歌人(宮廷歌人)などがあり、それらは概念として互いに関連を持ちながら、折口の思想を形作っている。

マレビトとは?
他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在のこと。「折口学」の思想体系を考える上でもっとも重要な鍵概念の一つであり、日本人の信仰・他界観念・芸能の発達を探るための手がかりとして民俗学上重視される──折口は定義している。
 簡単に言ってしまえば、
 マレビト=外(異界)からまれにやってくる人=神、客(人)
であり、大昔(神話のころから)によそからやってきたマレビトに食事や宿泊場所を提供し、踊りなどでもてなしていたことが、後に祭りや能や狂言など芸能に発展する起源であるとしている。
祭りのときに櫓(やぐら)を建てたり、神輿を担いだり山車を出したりするが、それは異界(天)から神が降りてきやすいようにしたもので、それをヨリシロという概念と結び付けている。
また今日の盆行事も、常世から祖先たちがやってくるのをもてなしたのが始まりとされている。
ただ、マレビトの定義は非常に曖昧で、外から来るもの(ほかいびと)は旅行者なども含めすべてマレビトであるとされ、よそからやってきた浮浪者や乞食なども含まれており、乞食が紙であるわけがないといする他の学者たちからの批判もあり、それを正当化するために貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)という概念を打ち出した。

貴種流離譚とは?
貴種流離譚とは、折口学において、日本における物語文学の原型であるとされている。基本的には、「高貴な生まれの英雄(もしくは神)が、遠い地をさすらい、苦悩を経験し、それを克服していく」、「高貴の血脈に生まれ、本来ならば王子や王弟などの高い身分にあるべき者が、『忌子として捨てられた双子の弟』『王位継承を望まれない(あるいはできない)王子』などといった不幸の境遇に置かれ、しかし、その恵まれない境遇の中で旅や冒険をしたり巷間で正義を発揮する」というパターンである。
そのような高貴な者(マレビト)が、なぜ遠い地を彷徨わなければならないのかというと、人間の根底に根付く「原罪意識」によるものであるとしている。過去、もしくは前世において犯した罪(原罪)を購うための罰であり、これは文学・歴史・宗教をまたがった折口学の思想の特徴でもある。
折口は自らの来歴否認(母親が本当の親ではないという妄想)を貴種流離譚と結び付けていたと考えられる。自らの前世の罪により、違う母親に育てられるという不幸に見舞われるのだという妄想が、貴種流離譚という概念によって正当化されたのである。


☆折口が貴種流離譚を基盤としていると挙げている代表的な物語には、以下のものがある。
日本神話──スサノオ神話、ヤマトタケル神話
日本古典──源氏物語(光源氏が須磨に配流となる)、伊勢物語(業平が都を去り東国に下る、浄瑠璃一二段草子(義経が追ってから逃げ、奥州下りの途中、美しい姫と出会い恋に落ちる)、山椒大夫、竹取物語、源平盛衰記、一休さん(一休宗純は後小松天皇の落胤であるという風説)、水戸黄門(家督相続問題で贖罪があり、隠居後に各地を放浪する)、御伽草子の鉢かづき姫、
中国古典──西遊記(一行の全員が仏教的な因縁を持っており、そこから解脱する修行として難事に遭わされる)
古代ギリシャの叙事詩──オデュッセイア(主人公オデュッセイアはトロイア戦争の英雄であり、イタカの王だが、ポセイドンの恨みを買ったため、地中海世界のあちこちを彷徨い続けることになる)
古代メソポタミアの叙事詩──ギルガメシュ叙事詩
ギリシャ神話──ヘラクレス神話
児童文学──小公子

  
☆折口自身は挙げていないが、現代の物語にも貴種流離譚的要素が含まれているものもある。
 アニメーション──機動戦士ガンダム(シャア・アズナブル)
 SF小説──グインサーガ
 時代小説──桃太郎侍、長七郎江戸日記、吉原御免状
           ・・・などなど他にもたくさんあるので皆さんも探してみては?


ヨリシロとは?
依り代、依代、憑り代、憑代と表記され、神霊が依り憑く(よりつく)対象物のことで、神体や神域を示す。シャーマンや巫女という存在だけでなく、神社の社や塔、祭りの山車や神輿などもその対象とされる。


常世(とこよ)とは?
常世とは、因果も無く、時間軸も無く、永久に変わらない世界のことで、神域ともいわれる。また死後の世界という解釈もされている。これは日本神話や古神道や神道の二律する世界観の一方といわれていて、もう一方は現世(うつしよ)。
折口は狭義的には、海の彼方・または海中にあるとされる理想郷であり、マレビトの来訪によって富や知識、命や長寿や不老不死がもたらされる『異郷』であると定義した。
また常夜とも記され、この場合は常に夜の状態の世界で、死者の国や黄泉の国と同一視されることもある。
沖縄神話には、これと類似する異界概念としてニライカナイがある。
折口は常世という別界からマレビトが時を定めて俗世にやってきて祝いなどを行う、という思想に日本の古代信仰の根源を認めるという独創的概念を打ちたてた。


木島日記
『木島日記』は、大塚英志原作、森美夏作画による小説、及び漫画。民俗学者・折口信夫と仮面の男・木島平八郎が主人公のオカルト伝奇ミステリーで、2.26事件から右傾化し戦争へと向かいながら、オカルトや猟奇事件が跋扈する昭和初頭の複雑な世相が描かれている。
民俗学者折口信夫が偶然迷い込んだ古書店「八坂堂」で自分の名前が無断で借用された偽書を発見する。その偽書には仮面を付けた「八坂堂」の店主・木島平八郎の信じられないような過去が書かれていた。それを読んで以来、折口博士は現実と幻想の入り混じった世界で奇妙な事件に巻き込まれていく、という奇想天外なストーリー。
そもそもわたしが折口信夫に興味を持ったのは、この小説を読んだからである。ちなみに大塚英志は「サイコ」などの漫画の原作もしている人で、他にも柳田國男や泉鏡花を主人公とした小説や漫画 の原作を書いている。大塚英志は筑波大学で民俗学を学んでいて(柳田國男の弟子が教授だった)、他にも民俗学や歴史・科学・雑学などの膨大な知識を駆使した小説や漫画原作やエッセイを出しているので、ぜひ読んでみてほしい(怪しいことが大好きな方にオススメ)。


結局、折口の研究とはなんだったのか?
折口の研究(折口学)は一般的に、非常に主観的で漠然としていてわかりにくい、ととらえられている(今回の場合は、わたしの書き方が悪いせいもある)。マレビトという折口学の中心的概念でさえ、神であるか人であるか、また天皇なのかもはっきりさせていない。折口は晩年、マレビトというのは遠くから神のメッセージを届けにやってくる存在であると述べている。そしてそのメッセージを届けた存在が神になることもある、としている。折口いわく、「神は人であり、人は神であり、天皇は人であり、時に神でもある」。折口は、人と神を厳密に分けること、すなわち対立するものと考えることは、「一神教的世界観」であり、多神教である日本人の霊魂感や他界観念の本質を見失うことになる、と危惧している。
マレビトという概念を打ち立てたのも、日本の芸術(芸道=和歌、茶道、華道、香道など)は、すべて客を(マレビト)をもてなすものであり、客にくつろいでもらうために発展したものという自らの説を証明するためである。実証をもたない折口は、マレビトやヨリシロなどという概念を作ることによって、自らの説を学問として(無理やり)仕立て上げたとも考えられている。
折口の研究は、常に否定も肯定もせずに、巨大な仮説を出し続けるだけであって、すべてが解決していない(=未完)。常に問いかける人、というスタンスだが、それが他の研究者から、「主観的に問いを発するだけなら学問ではない」という批判を受ける結果となっている。
また、個人の感覚を重要視して実感をもとに巨大な仮説を立てて学問を進めていくという折口の姿勢は、実証性を重要視する近代科学と相反するものとして、時代遅れという印象をもたれていたが、仮説を立てての学問と、近代科学を同じ土俵で考えるのは間違っていると思う。
その当時の学者は、自分の専門分野のみを研究するというスタイルが主流であったが、現在では学部や専門分野など境界に捕われずに、あらゆるジャンルの壁を越えて研究をするのが新しい波となってきている。これは折口の時代には考えられなかったことであるが、折口の研究はまさしく時代の最先端をいっていたといえる。
折口は、コカインで五感を研ぎ澄ましていたからだけでなく、もともと鋭い感性と超感覚とずば抜けた知性で問い続けることによって、自らの「問いかけ」を折口学という学問として成立させていったのだと思う。実際、仮説のみで学説を立てても通用するほどの力を持っているのが折口であり、それはその当時の学者というも存在から考えると(実際の記録から研究を進めていくのが一般的な学者)、奇跡的ですらあるといえる。折口は、「現実や文字記録の余白から、古代人の心の動きを洞察した人」といえると思う。
天才は、往々にしてその時代の人から理解されず、それゆえに批判も浴びやすく、亡くなってからやっとその才能を理解されることも多い。それはその時代に生きる人々には、先をいく天才の思考が理解できないからなのではないかと思う。折口も天才なのだろうと・・・思う。


國學院大學について
 國學院大學は1882年に創立(大学としては1920年から)した伝統的な大学である。



              【渋谷キャンパス正門 (渋谷区東4-10-28)】(ウィキペディアより)

折口信夫は国文科卒でそのまま大学に残って教授になるが、國學院大學は日本で唯二の神道系学部のある大学として有名で(もうひとつは三重県の皇學館大學だが、そこは神道系学部ができてから新しく、規模も小さい)国内で宮司や神主などの神職につくほとんどの人が國學院で学んでいる(かの江原啓之さんも卒業生)。
また史学部(特に考古学と古代史)も研究が盛ん(日本の大学ではトップクラス)で、折口信夫が国文学のみならず、神学(神道)、民俗学、古代史等、ジャンルを超えての多岐にわたる研究活動をしていた背景には、國學院大學という環境があったということが大きく影響している(もしくは真逆で、折口信夫の研究に関わった学部が栄えた)のではないかと(わたしは)思う。


【國學院大學内にある神社】(Google 画像「国学院大学」より)

國學院大學の正門を入ってすぐのところにある神社の、特に神殿周辺が都内最強といわれるほどのパワースポットということで、女性誌などに特集としてたびたび取り上げられるほど有名。
神殿そのものは関係者以外立ち入り禁止だが、その手前にある拝殿には参拝することができる。
鳥居をくぐって拝殿に向かって進んでいくと、木々がしげり、都会の真ん中にあるとは思えないほど静かな空間が広がっていて、ゆったりと時を過ごすことができる。都会の癒し空間として、訪れてみてはいかが?
参詣してお願い事をすると、叶う・・・かもしれません。

【國學院大學へのアクセス】
 

                   「国学院大学ウェブサイト・大学案内アクセスマップ」より 


参考資料:
「折口信夫とその人生」 桜楓社 N02/オ(中央所蔵)
「折口信夫 霊性の思索者」 平凡社 N02/オ(中央所蔵)
「魂の古代学」 新潮社 N02/オ (中央所蔵)
「折口信夫─いきどほる心」 講談社 N02/オ (中央所蔵)
「折口信夫の世界─その 文学と学問」 白根記念渋谷区郷土博物館・文学館 S33 (中央所蔵)
「死者の書・くちぶえ」 岩波書店 ×/オリ (大和田所蔵)
「文豪怪談傑作選 折口信夫集 神の嫁」 筑摩書房 ×/オリ (代々木所蔵)
「古代から来た未来人 折口信夫」 筑摩書房 ヤング/380.1/ナ (中央所蔵)


中島 敦 「李陵・山月記」

2012年05月31日 | 文学
今回、私が取り上げるのは中島 敦の短編集「李陵・山月記」です。中学生の頃に読み、中国の歴史などに興味を持つきっかけになった本であったと思います。今回は表題作2編についてご紹介いたします。
「李陵」は漢の武将、李陵が少数の兵できょうど匈奴の大軍と戦い、捕虜となったことから、長安の宮廷内で佞臣により皇帝に売国奴と讒言され、それを擁護したしばせん司馬遷は宮刑に処されてしまいます。李陵は匈奴の王を打ち、脱出する機会を狙いつつ匈奴の地に留まっていたが、更なる誤報により家族を処刑され、また帰国しても佞臣による辱めを受けることを拒み、また匈奴を別種の文化を持つ自分達と同じ人間と認め、匈奴の地で遊牧民として一生を終えることとなります。司馬遷は宮刑に対するふんまん憤懣などに悩むが、男でも女でもない書写機械として「史記」130巻を完成させます。李陵の友人そ蘇ぶ武は李陵より19年前に匈奴の捕虜となったが、頑として降伏を受け入れず、
帰国を果たします。「李陵」は人間関係の醜さ・美しさを李陵・司馬遷の姿から描いています。


「李陵」の舞台となったモンゴルの平原

もう1編の「山月記」は高校の国語教科書にも掲載されているとの事でご存知の方も多いと思われます。李徴という男が科挙に合格し、下級官吏となるが詩人として名を残そうと官吏を辞め詩作に励むが文名は揚がらず、生活の為に再び官吏となるが公用の旅行中に発狂して失踪し、虎に変身してしまう。1年後、虎となった李徴は親友袁傪と再会し(虎として襲いかかり、親友と気づく)、人であった頃の自分が人と交わろうとせず、人に教を乞わないゆえに人から尊大であると言われたが、それは鬼才といわれた自分の才能から来る自尊心と自分の才能が不足していてそれを人に知られることを危惧する羞恥心から来るものであったと語り、袁傪に自分の詩の伝録と妻子の面倒を依頼し、虎となった自分の姿を見せて別れる。中島 敦の妻は「山月記」を読む度にあの虎の叫びが主人の叫びに聞こえてなりませんと言っています。喘息により思う様に作家活動ができない自分の姿・思いを李徴に重ねて書いた小説なのです。


「山月記」の舞台となった中国・河南省の山岳地帯

「李陵・山月記」は各社より出版されていますが、角川文庫版ではこの2編の原典である中国の古典「李陵伝」 はんこ班固著及び「人虎伝」 李景亮著も収録されています。中島 敦の「山月記」では「人虎伝」には無い「夢」という言葉で李徴の苦悩を浮上させようとしたといわれており、両者を読み比べても良いかもしれません。


中島敦(ウィキペディアより)

中島 敦は明治42年に東京市四谷区に生まれ、東京帝国大学を卒業後、横浜高女の教師となる。昭和9年「虎狩」を中央公論社の公募に応募し、選外佳作となる。11年「狼疾記」「かめれおん日記」を書く。一高時代より喘息の持病を持ち、転地療養を目的に16年休職、南洋庁の国語教科書編集書記としてパラオに赴任する。17年「山月記」「文字禍」の2編が「古譚」の総題で「文学界」に発表されて評価される。以後、南洋庁を退職し作家活動に専念するが同年12月に喘息による心臓衰弱により33歳で死去します。没後の23~24年にかけて「中島 敦全集」(全3巻、筑摩書房)が刊行され、毎日出版文化賞が与えられました。この全集が好評であったことから、中島 敦の学生時代からの親友で全集の編集委員を務めた文部官僚釘本久春の尽力により「山月記」は高校2・3年生用国語教科書の教材として採択され、今日、高校国語教科書の定番教材となっています。「広辞苑」 第六版によると中島 敦は漢学の素養を生かした端正な文章で人間の存在のあり方を描いたとされていますが、中島 敦にとっての「人間の存在のあり方」とは、一人の人間の心の中に矛盾し対立する要素が共存し、人間が誰しも多面的で多重人格的な側面を抱えていることを意味しているようです。

引用・参考資料
『李陵・山月記・弟子・名人伝』中島敦/角川文庫:Xナカ 文庫(中央所蔵有)
『中島敦「山月記伝説」の真実』島内景二/文春新書:N02 ナ(中央所蔵有)
『中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』河出書房新社:N02 ナ(中央所蔵有)
『作家・小説家人名事典』日外アソシエーツ:(参考図書)281 サ(中央所蔵有)
『広辞苑』第六版/岩波書店:(参考図書)813 コ(中央所蔵有)