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アンネの日記

2013年08月17日 | 文学

アンネの日記

あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。

1942年6月12日

 

アンネの日記は、1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日から始まっています。

お父さんから日記帳をプレゼントされたアンネは、日記に‘キティー’と名前をつけて、架空の友達である彼女に手紙を送るようにして日記を書きました。(いつも親愛なるキティーへ、ではじまりアンネより、で終わっていました。)日記の1ページ目には自分の気持ちを日記になんでも打ち明けられそう、と書いています。

1944年8月1日まで2年と2か月の間日記は続きました。3日後の8月4日、ドイツ軍のユダヤ人狩りから身を隠していたアンネ達は密告によって発見され、アムステルダムの隠れ家から強制収容所に連行されてしまいます。この強制収容所から、生きて戻ってこれたのは、アンネのお父さんだけでした。

 

 

アンネは神様より知っている

幼い頃、アンネは病弱で、学校に行けない日もありましたが、性格は明るく活発な女の子でした。ときには周りの大人を困らせるほどのおしゃべりで“神様はなんでも知っておいでだけど、アンネはもっとなんでもよくしっている“と言われるほど。通っている学校では人気者で、いつも周りにはたくさんの友達がいました。アンネは自分が男の子から注目されていることも自覚していて、クラスのほとんどの男の子が自分に気があると思っていました。アンネは日記で、この頃の事をこのように回想しています。

 

そう、たしかに天国のような生活でした。どこに行ってもボーイフレンドが五人はいましたし、同年輩のお友達だの知り合いだのは二十人ぐらいもいました。

 

 

1942年の7月からアンネ・フランク一家(アンネのお父さん、お母さん、お姉さんのマルゴー、アンネ)は、お父さんの会社の中にひそかに造った‘隠れ家’に身を隠して生活するようになりました。お父さんの会社の協力者たちに食糧をはこんでもらい、自分たちは、一歩も外にでられない生活でした。アンネたち姉妹も学校に行けず、友だちと連絡をとることもできませんでした。

アンネ一家の他にファン・ダーン一家(ファン・ダーンのおじさん、おばさん夫婦と息子のペーター)も一緒の同居生活でした。すこし遅れた時期には歯医者さんのデュッセルさんが加わります。

はっきりとものをいう女の子だったアンネは、隠れ家の生活でも自分も意見をだまっていることはできません。お姉さんのマルゴーは、おしとやかな性格で、アンネは、よくお姉さんと比べられて怒られていました。

ファン・ダーンおばさんは、アンネのことをわがままで強情だとたびたび小言を言いましたし、アンネはおばさんは身勝手でうるさいと思っていました。他にも、食糧や家内でのルールをめぐって隠れ家の中はいざこざが絶えませんでした。隠れ家生活では、みんながつねに顔を合わさなければならず、アンネはこんな状況に疲れてしまいました。

 

うちじゅうが家鳴り震動するような、すごい喧嘩つづきです。・・・すてきな雰囲気でしょう?

 

しかし、アンネは、戦場の悪いニュースを聞いてみんなが落ち込むようなときでも、

(隠れ家)を(憂鬱の隠れ家にしてしまったところでいったいなにになるの・・・①?と明るく振る舞いました。

 

 

二人のアンネ

このころアンネは、自分をこども扱いするお母さんと衝突することが多くありました。

優等生であるお姉さんのマルゴーと比べられることにアンネはがまんできません。

 

毎日わたしは、私のことを理解してくれるほんとうのお母さんがいないのをさびしく思っています。ママはなにかとマルゴーの味方をします。(中略)・・・もちろんふたりのことは愛してますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず一個の人間としてはふたりともくたばれと言ってやりたい。パパについては、ぜんぜんちがいます。(中略)パパだけがわたしの尊敬できるひとです。

 

アンネは自分のことを日記の中で二重人格だと表現しています。たいていの人は、アンネのことをわがままででしゃばりだと感じているのだけれど、キティーにだけにみせるより良い、りっぱな一面もあると。いつもみんなにみせている明るい道化のアンネ、もうひとつは、傷つきやすい、繊細なアンネと。

 

ときどきわたしは自分に問いかけます。ユダヤ人とか、ユダヤ人でないとかにかかわらず、わたしがたんにひとりの少女であり、はしゃいだり、笑ったりすることを心の底から欲している、このことをわかってくれるだろうか?でもわたし自身には答えられませんし、このことをだれかに話すこともできません。話せばきっと泣いてしまうでしょうから・・・。

 

アンネは、いつ自分たちが自由になれるかわからない隠れ家での状態のなかで、つらい時期を過ごします。自分は孤立していて途方もなく大きな真空にかこまれている気分・・・② だと感じていました。戦争中の過酷で異常な環境でアンネの内面は実際の年よりも急激に成長してしまいます。

ですが、まわりは、アンネが大人へと成長していく過程で苦しんでいることに気がつきません。隠れ家の中で一番年下でいつも怒られ役だったアンネは、一人のりっぱな人間として扱われることを望んでいましたが、その気持ちは誰にも、大好きななお父さんにも理解してもらえませんでした。日記の中でだけ、アンネは、本当の自分になれたのかもしれません。

 

わたしはますます両親から離れて、一個の独立した人間になろうとしています。・・・

わたしがわたしとして生きることを許してほしい。

ときどきわたしは、神様がわたしをためそうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。・・・わたしはほかにお手本もなく、有益な助言も得られないまま、ただ、自分の努力だけでりっぱな人間にならなくてはなりません。

ここでキティーに約束しましょう、どんなことがあっても前向きに生きてみせると。涙をのんで困難のなかに道を見いだしてみせると。

 

アンネは、これまでの自分のことを反省し、両親へのなまいきな態度や嫌いだったファン・ダーンのおばさんにも理解を示すようになります。

勇気と信念とを持つひとは、けっして不幸におしつぶされたりはしない・・・③、アンネは強い気持ちをもって、また平和な世界になると信じていました。

 

つねに勇敢に、強く生き、あらゆる不自由を忍んで、けっして愚痴を言ってはなりません。

このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっとわたしたちがただの

ユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。

 

 

アンネの日記の出版

ユダヤ人にとって絶望的な環境下にあっても、アンネはあきらめませんでした。隠れ家生活を「危険でロマンティックな冒険」とし、ほかの少女とは異なった生きかたをし、おとなになったら、普通の主婦たちとは、異なる生きかたをしてみせる、と日記に書いています。

アンネはドイツのベルゲン・ブルゼン収容所で亡くなりました。ガス室はなかったものの衛生状態が悪く、ほとんどの人が飢えと病気で苦しみ亡くなりました。アンネとお姉さんのマルゴーもチフスに罹り亡くなっています。15歳の生涯でした。マルゴーがチフスで亡くなった3日後、アンネは、裸で毛布にくるまった状態で一人息を引き取っていました。

2人の死亡日時は、はっきりわかっていませんが、1945年の3月の初めごろといわれています。収容所が英軍によって解放され中の人たちが救出されたのは、4月12日でした。

 

生き残ったアンネのお父さんは、周りの薦めもあり、1947年にアンネの遺した日記を出版しました。

すると、世界中でベストセラーになります。

アンネの日記は、アンネが、戦争が終わったら公表するつもりで、書かれたものです。

オランダ政府は、ドイツ占領下の国民の苦しみの記録を募集すると発表していました。

アンネは、ラジオでそのことを聞きぜひ自分の日記を応募して出版してもらおう、と考えていたのです。もともと書いていた日記を清書し、登場人物を仮名にしたりと手を加えていました。

日記があまりにも良く書けていたため、本当に15歳の少女が書いたのか、信憑性を疑われたくらいでした。もちろん、今では、正真正銘アンネ自身が書いたものだと証明されています。

アンネは、将来作家かジャーナリストになりたいと考えていました。

アンネは特別な少女だったのでしょうか?

 

その他大勢の女性たちのように、毎日ただ家事をこなすだけで、やがて忘れられてゆくような生涯を送るなんて、わたしには考えられないことですから。周囲のみんなに役立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、わたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!

 

 

アンネの日記本文はすべて「アンネの日記 増補新訂版」深町眞理子訳 2003年文藝春秋 949/フ (中央・西原・笹塚・代々木所蔵)

から引用した。

また、①、②、③の文章、写真の引用も同書を使用した。

参考文献

「写真集 アンネフランク 訳編」 木島和子 小学館 289/フラ (中央保存庫所蔵)

「新版 悲劇の少女アンネ」 シュナーベル著 偕成社 28/フ (中央・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川・笹塚こども所蔵)

「アンネ・フランク最後の七カ月」 ウィリーリントヴェル著 徳間書店  289/フ(渋谷所蔵) 316/リ(笹塚所蔵)

「この人を見よ歴史をつくった人々伝7」 アンネフランク ポプラ社 28/コ(中央・笹塚所蔵) 28/フ(笹塚こども所蔵)

 


エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話 その2

2013年08月01日 | 地域

エディンバラの忠犬ボビーと犬にまつわるこぼれ話

その2

 

 ボビーが7歳になった頃、エディンバラでは結核やチフスに加え狂犬病が蔓延し、首輪をしていない犬は野犬狩で処分され始めていました。ボビーを可愛がっていた人々が心配して飼育許可料を出し合おうと決めると、この話を聞いたエディンバラ市長はボビーの忠犬ぶりに心打たれ、自身が許可料を支払い、野犬でないことの証明に首輪をボビーに贈ったそうです。首輪はMuseum of Edinburgh(エディンバラ郷土資料館)に展示されています

グレーのお墓を守り始めてから14年という長い歳月がたち、16歳になったボビーは、体力も落ち、夜はもっぱらトレイル夫人の家で過ごしていました。トレイル夫人というのは、ボビーとグレーがよく通ったレストランの4代目の夫人です。そして1872年1月14日、ボビーは夫人のひざの上で静かに息をひきとりました。

        

④ボビーの銅像と台座   台座の装飾も美しかったです。                        

銅像の銘板には、“グレイフライアーズ・ボビーの愛情ある忠誠を褒め称える。1858年、この忠犬はグレイフライアーズの墓地の亡き主人に付き添い、1872年に死ぬまでその場を離れようとはしなかった。許可を得て、バーデット・コウツ公爵夫人により建てられた”と記されている。

 

⑤ボビーの銅像を囲む人々 ハチ公を思い出しました。

 

⑥スカイテリア エディンバラでは犬を連れている人を多く見かけました。通りは犬の落し物?等で汚れることもなく、清潔でしたよ。

スカイテリアの性格は、警戒心が強く頑固者。体高♂26cm前後、♀24cm前後。体重8.5~10.5kg。好奇心が人(犬)一倍強く、興奮すると誰にも止められなくなくなる程根っからの狩猟犬。家族にはとても愛想が良く明るく無邪気。

 

ボビーが、人間で言えばおよそ80歳で天寿をまっとうするまでの14年間、厳冬の空の下、病気が蔓延する不衛生なエディンバラで、大きな病気もせずに戸外の生活を続けられたのは驚異的でした。グレーへの強い思慕や、周りの人々からの愛情、生まれつきの頑強な体が彼の生活を支えたとも考えられる一方、スコットランド産のテリアの特徴によるところも大きいのかもしれません。受けた好意や恩を忘れることなく、一途に報いようとする性質があり、スカイテリアは特にこの傾向が著しいそうです。また居心地の良いバスケットの寝床よりも、土に掘った穴を好むという意外な性質も、スカイテリアの特徴の一つなんですって。 

 

 

 ⑦ボビーの記念碑 “彼の献身と忠誠心をわれら人類の教訓に”と刻まれています。

 

                        

⑧ボビーとジョン・グレーが眠っているグレイフライアーズ教会ボビーの銅像の裏手にあります。(観光客がボビーの記念碑を囲んでいます)

 

   

 ⑨この高さ50cm程のテーブル石の下にボビーは毎晩うずくまっていました。テーブル石の右にある赤石がグレーの墓石です。

 

参考文献

『公認ガイドが語るスコットランドこぼれ話』LuathPressLtd.、日本人ブルーバッジガイド共著 

『エディンバラのボビー』KTC中央出版、鷲塚貞長著、祖父江博史画 

『日本と世界の愛犬図鑑2011』辰巳出版株式会社、645.ニ(西原図書館所蔵)

 

 ④~⑨(⑥以外) 西原図書館スタッフ撮影(2012年9月)

 ⑥ 『日本と世界の愛犬図鑑2011』辰巳出版株式会社645.ニ(西原図書館所蔵)より引用