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渋谷区立中央図書館・本町図書館・笹塚図書館・笹塚こども図書館を受託しています(株)図書館流通センターによるブログです。
渋谷区地域・文学に関することを中心に記事をアップしています。
なお、このブログ内の画像・文章などの著作権はTRC図書館流通センターに帰属します。
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「Cookie Count」
著/Robert Sabuda 出版社/Little Simon
ページをめくるたびにクッキーが1枚ずつ増えていき、いろいろなクッキーが飛び出す絵本です。ページをめくるたびにしかけもダイナミックになっていきます。キラキラしていて色鮮やかなのでクッキーがとても美味しそうです。子どもには数の練習にもなるので、読み聞かせ、贈り物にもぴったりの本です。
しかけ絵本の歴史
綴じられた平面の本から二次元を超えた世界が広がるしかけ絵本は、14世紀初めのヨーロッパですでに作られていました。その誕生は、カラー印刷が登場するより以前にまでさかのぼり、当時は天文学や医学、地理学などの学問を視覚的にとらえるためにもっぱら大人向けに作られた実用書でした。
子どものための本として本格的にしかけ絵本が登場するのは、印刷技術が向上し、本が一般の人々の娯楽として普及するようになる18世紀後半のヨーロッパにおいてだと考えられます。
19世紀初頭にはロンドンのディーン社が、子どものためのおもちゃ絵本専門の出版社をつくり、動く絵本の新しい手法を生み出しました。
19世紀後半になると、ドイツでは多色刷り石版(リトグラフ)が普及し、しかけの面白さと美しい絵の魅力を合わせ持った作品が登場しました。
第一次世界大戦を境に、ヨーロッパでのしかけ絵本の出版は一時下火になりました。かわってしかけ絵本の制作は、国力を増したアメリカに舞台を移しました。1932年には、アメリカの出版社であるブルーリボンブックス社が、19世紀に開発された“舞台の本”を改良し、本のページを開くと自然に絵が立ち上がるようにしたしかけを開発し、そのしかけに“ポップアップ”と名付けました。
その後、しかけ絵本は1970年頃から再び世界中で出版が活発になりました。ページを開くと、三次元の世界に誘われるしかけ絵本は、時代を越えて長い間、大人も子どもも魅了してきました。
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参考資料 : 「POP-UP絵本ミュージアム」 ロバート・サブダ,マシュー・ラインハート著 大日本絵画 726.6/サ(臨川所蔵)
図書写真 : 「Cookie Count」著 Robert Sabuda 出版社 Little Simon (図書館所蔵なし) 【自主撮影】
渋谷と短歌
渋谷は、「自然と文化とやすらぎのまち」とよばれるように多くの文学者が住まい、作品を生んできた。そのなかで与謝野鉄幹・晶子の短歌について取り上げる。
・与謝野鉄幹
△ウィキペディア・コモンズより
明治6年~昭和10年(1873~1935)
京都府出身。明治32年「新詩社」を創設し、翌年(明治33年)雑誌『明星』を創刊。
明治34年に渋谷で晶子と結婚した。渋谷を「新詩社」の拠点とし、近代短歌形成の先駆者として多くの活動を展開した。
渋谷に最初に居住したのは、明治34年渋谷村大字中渋谷272番地(現在の道玄坂2丁目)。『赤裸裸歌』や『夏草』はその頃を歌った作品である。同年渋谷村大字中渋谷382番地に転居。三度目の移転は37年渋谷村大字中渋谷341番地。この期間が東京新詩社の渋谷時代と呼ばれている。渋谷区内ではもう一度転居しており、千駄ヶ谷村大通549番地(現在の千駄ヶ谷4丁目)に37年から42年まで暮らしていた。
<作品>
赤裸裸歌
栗の花水に散る 渋谷の村の真昼 ひくき茅籠の下 鶏飼ふ家の東
五月の森の闇き眺めて 友と此の詩を吟ず 如何に君おもへ 栗の花の寒きに
栗の球の麁きに 人棄てて秋の実奪らずば 寧ろ其れ栗の幸か
*「明星」(明治34年5月)から
・与謝野晶子
明治11年~昭和17年(1878~1942)
△「明星」(明治34年5月)から
堺市出身。「新詩社」の社友となり、「明星」で短歌を発表する。34年に上京し、与謝野鉄幹と結婚。同年に歌集『みだれ髪』を刊行した。奔放な空想と大胆な恋愛感情をうたい、明治浪漫主義の新世界を切り開いた。渋谷を歌っている作品では、明治期から大正期にかけての何度かの転居による苦しい生活の中で、日常の生活うや引っ越しの前後の様子が渋谷の街の姿に重ねられつづられている。
<作品>
渋谷なるまづしき家に君むかへ見ぬ四年をば泣きて語りし
*「トキハギ」(明治42年5月)
渋谷にて
濃きむらさきのかきつばた 採ろとみぎはにつくばんで 濡れた袂をしぼる身は
ふと小娘の気にかへる 男の机に倚りかかり 男の使うペンを執り
男のするやうに字を書けば また初恋の気にかへる
千駄ヶ谷に住みて
場末の寄席の寂しさは 夏の夜ながら秋げしき 枯れた蓬の細茎を
風の吹くよな三味線に 曲弾きの音のはらはらと 螇斯の雨が降り掛かる
寄席の手前の枳穀垣 わたしは独り、灯の暗い 狭い湯殿で湯をつかひ
髪を洗へば夜が更ける
*『与謝野晶子全集』1・7・8巻(昭和47年10月 文泉堂刊)から
渋谷の街は、数多くの文学者たちが作品に取り上げている。近代以降文学者たちの連なりが受け継がれており、それは渋谷独特の文学風土と言えるだろう。
【参考資料】
・『渋谷と文学』 渋谷区教育委員会 S33 (中央・臨川所蔵)
・『新 渋谷の文学』 渋谷区教育委員会 S33 (全館所蔵)
・『与謝野寛・晶子年譜』 新川一男著 S33 (中央・西原・渋谷・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川所蔵)
【画像】
①ウィキベディア・コモンズ(2014.2/23最終閲覧)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tekkan_Yosano.jpg?uselang=ja#
②「明星(明治34年5月)」東京新詩社(区内所蔵なし)
幡ヶ谷地蔵 ( 幡ヶ谷1-1)
江戸時代の貞享3年(1686)に建立されたもので、子供の安全を守って身代わりになってくれるという言い伝えがある。甲州街道の道幅を広げたときに、現在の不思議な形のお堂が建築された様。
内部は暗くてよく見えないが石仏がいくつもあり、子育て地蔵は、丸彫立像で蓮座にたっている。台座蓮弁には尼僧をはじめ多数の人名がある。高さは136センチ。
牛窪地蔵(幡ヶ谷1―10)
牛窪地蔵は正徳元年(1711)に建立されたものである。
正面の三角形をしたお堂にまつられていて、今もなお土地に人々に信仰されている。
左手に宝珠、右手に錫杖をもつ丸彫立像の石仏であり、左端にあるのが牛窪地蔵である。
境内の右側には供養塔が一列に並んでいるが、ここは、もとは中野通り(鎌倉道ともいう)との交差点あたりに建てられていて、鎌倉道を往来する人々の道中安全を願って建立されたものと考えられている。全国でも珍しい道そのものの供養塔であるらしい。
なおここは江戸時代の頃から牛窪と呼ばれていたらしいが、窪地である為と、牛を使って極刑である牛裂きの刑場跡という言い伝えがあるらしい。
酒呑み地蔵(本町5-2-13 →幡ヶ谷2-36-1(清岸寺内))
元は本町5丁目にあったが、清岸寺境内へ移転し、新たなお堂が立つとのこと。
宝永5年(1708)に建てられた。当初は路傍の石仏であったがいつの頃からか酒呑地蔵といわれるようになったらしい。
新旧2基の像があり、古いほうは江戸時代宝永5年に建立、もう一体の地蔵は対大正12年の造立で寄付者15名の名が刻まれている。
酒呑み地蔵の名の由来は、現在記録類が残されていないので不詳であるようだが、土地の古老から伝え聞いた由来があるらしい。
江戸時代、四谷伝馬町に中村瀬平という若者がいたが、事情があって家を出て幡ヶ谷村までやってきた。ある農家に奉公し、子守や野良仕事に精を出していた。
彼は非常に勤勉であり、感心な若者だと村人たちに可愛がられていた。
ある日、村人から招かれてご馳走になり、生まれてはじめて呑んだ酒に酔い、帰り道橋を渡りかけたとき、足を滑らせて川に転落し、溺死した。
その後ある晩のこと、彼が村人の夢枕に立ち、「地蔵を建立してくれれば、この村から大酒のみをなくす」と告げたという。
参考資料
『渋谷区史跡散歩』 学生社 S13(笹こ以外全館所蔵)
『渋谷のむかし話』 渋谷区教育委員会 S13(全館所蔵 他)
『しぶやNo.1~15』 渋谷区企画室 S02(中央・西原所蔵)
『図説渋谷区史』 渋谷区 S12(全館所蔵 他)
写真 : 自主撮影
「秘すれば花」 (世阿弥)
今から600年前の芸能論です。芸能論としての枠にとどまらず、芸術論、人としての生き方まで考えさせられる奥深い書です。もともと秘伝書として、これを伝えることのできたのは、一家に一人。たとえ実子であっても、才能や志のないものには一見することすら許されなかった秘伝書を今日、見たい者が誰でも手にとることができるというのは なんとすばらしいことなのでしょうか? 能というパフォーミングアートはその時、その場でしか存在することのできない、一瞬のもの。その一瞬で、演じる側が見るものを魅了し、感動を呼び覚ますことが「花」という言葉で表わされています。少しでも芸事に関わった人なら、見るものをはっとさせたり、その心に深くしみ入ることの喜びがおわかりになるかと思います。
実は「風姿花伝」は はるか昔大学の授業で課題図書でした。随所に印象が深い部分があったのですが、その時には原文だったので苦労して読んだ思い出がありました。しかしこの本は、本当にすらすら読める! 最初に口語訳を読んでおけば、原文も味わい深く読めます♩ 日本の素晴らしい古典を気軽に鑑賞できるという点で、本当におすすめです。
「風姿花伝」は七篇にわたり、いかに花を体得するかを、能に命をかけた「世阿弥」が言葉を尽くし、情熱をかけて語っています。美しい姿や声、若々しくしなやかな肉体、しなやかな動きには「花」が咲きます。しかしこれらは「時分の花」であり、時とともに失せてしまう「花」でもあります。「花」を咲かせるために、厳しく正しい稽古を積み、柔軟な思考で貪欲に芸に邁進すること。芸の技を学び、錬磨し、幅広い芸域と熟練した演技力、多くの得意曲を持つこと。さらにその蓄積したもののすべてをいつでも表現できるように保つことが「まことの花」につながると言っています。またそうした努力や鍛錬を見るものに感じさせることなく、意外なところで見せることで、観客に驚きと感動を与えるというのが「秘すれば花」の極意だと世阿弥は語っています。
六世紀以上も前に書かれた本ですが、これって芸能論という枠を超えて、今でも生き方として充分に通用しませんか?
誰も想像し得なかったことを、さらりとできるということは、その人の、新しさ、意外さを演出でき、新鮮な感じでその人の引き出しの多さや奥深さを感じさせます。
父観阿弥の築いた能の世界を芸術にまで高めた世阿弥。彼の能への情熱が時を超えてひしひしと伝わってきて、私に最初に立ち返るやる気と勇気をくれた本です。
初心忘れるべからず(世阿弥)
「すらすら読める風姿花伝」 林 望 著 講談社 ISBN 978-4062117959
773/ハ 中央・西原・富ヶ谷・臨川 所蔵