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中島 敦 「李陵・山月記」

2012年05月31日 | 文学
今回、私が取り上げるのは中島 敦の短編集「李陵・山月記」です。中学生の頃に読み、中国の歴史などに興味を持つきっかけになった本であったと思います。今回は表題作2編についてご紹介いたします。
「李陵」は漢の武将、李陵が少数の兵できょうど匈奴の大軍と戦い、捕虜となったことから、長安の宮廷内で佞臣により皇帝に売国奴と讒言され、それを擁護したしばせん司馬遷は宮刑に処されてしまいます。李陵は匈奴の王を打ち、脱出する機会を狙いつつ匈奴の地に留まっていたが、更なる誤報により家族を処刑され、また帰国しても佞臣による辱めを受けることを拒み、また匈奴を別種の文化を持つ自分達と同じ人間と認め、匈奴の地で遊牧民として一生を終えることとなります。司馬遷は宮刑に対するふんまん憤懣などに悩むが、男でも女でもない書写機械として「史記」130巻を完成させます。李陵の友人そ蘇ぶ武は李陵より19年前に匈奴の捕虜となったが、頑として降伏を受け入れず、
帰国を果たします。「李陵」は人間関係の醜さ・美しさを李陵・司馬遷の姿から描いています。


「李陵」の舞台となったモンゴルの平原

もう1編の「山月記」は高校の国語教科書にも掲載されているとの事でご存知の方も多いと思われます。李徴という男が科挙に合格し、下級官吏となるが詩人として名を残そうと官吏を辞め詩作に励むが文名は揚がらず、生活の為に再び官吏となるが公用の旅行中に発狂して失踪し、虎に変身してしまう。1年後、虎となった李徴は親友袁傪と再会し(虎として襲いかかり、親友と気づく)、人であった頃の自分が人と交わろうとせず、人に教を乞わないゆえに人から尊大であると言われたが、それは鬼才といわれた自分の才能から来る自尊心と自分の才能が不足していてそれを人に知られることを危惧する羞恥心から来るものであったと語り、袁傪に自分の詩の伝録と妻子の面倒を依頼し、虎となった自分の姿を見せて別れる。中島 敦の妻は「山月記」を読む度にあの虎の叫びが主人の叫びに聞こえてなりませんと言っています。喘息により思う様に作家活動ができない自分の姿・思いを李徴に重ねて書いた小説なのです。


「山月記」の舞台となった中国・河南省の山岳地帯

「李陵・山月記」は各社より出版されていますが、角川文庫版ではこの2編の原典である中国の古典「李陵伝」 はんこ班固著及び「人虎伝」 李景亮著も収録されています。中島 敦の「山月記」では「人虎伝」には無い「夢」という言葉で李徴の苦悩を浮上させようとしたといわれており、両者を読み比べても良いかもしれません。


中島敦(ウィキペディアより)

中島 敦は明治42年に東京市四谷区に生まれ、東京帝国大学を卒業後、横浜高女の教師となる。昭和9年「虎狩」を中央公論社の公募に応募し、選外佳作となる。11年「狼疾記」「かめれおん日記」を書く。一高時代より喘息の持病を持ち、転地療養を目的に16年休職、南洋庁の国語教科書編集書記としてパラオに赴任する。17年「山月記」「文字禍」の2編が「古譚」の総題で「文学界」に発表されて評価される。以後、南洋庁を退職し作家活動に専念するが同年12月に喘息による心臓衰弱により33歳で死去します。没後の23~24年にかけて「中島 敦全集」(全3巻、筑摩書房)が刊行され、毎日出版文化賞が与えられました。この全集が好評であったことから、中島 敦の学生時代からの親友で全集の編集委員を務めた文部官僚釘本久春の尽力により「山月記」は高校2・3年生用国語教科書の教材として採択され、今日、高校国語教科書の定番教材となっています。「広辞苑」 第六版によると中島 敦は漢学の素養を生かした端正な文章で人間の存在のあり方を描いたとされていますが、中島 敦にとっての「人間の存在のあり方」とは、一人の人間の心の中に矛盾し対立する要素が共存し、人間が誰しも多面的で多重人格的な側面を抱えていることを意味しているようです。

引用・参考資料
『李陵・山月記・弟子・名人伝』中島敦/角川文庫:Xナカ 文庫(中央所蔵有)
『中島敦「山月記伝説」の真実』島内景二/文春新書:N02 ナ(中央所蔵有)
『中島敦 生誕100年、永遠に越境する文学』河出書房新社:N02 ナ(中央所蔵有)
『作家・小説家人名事典』日外アソシエーツ:(参考図書)281 サ(中央所蔵有)
『広辞苑』第六版/岩波書店:(参考図書)813 コ(中央所蔵有)


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