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ハチは知っている

渋谷区について広く・浅く知識を深めよう♪
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しかけ絵本の歴史

2014年04月20日 | 文学

「Cookie Count」

著/Robert  Sabuda   出版社/Little  Simon

 

 

 

ページをめくるたびにクッキーが1枚ずつ増えていき、いろいろなクッキーが飛び出す絵本です。ページをめくるたびにしかけもダイナミックになっていきます。キラキラしていて色鮮やかなのでクッキーがとても美味しそうです。子どもには数の練習にもなるので、読み聞かせ、贈り物にもぴったりの本です。

しかけ絵本の歴史

 

綴じられた平面の本から二次元を超えた世界が広がるしかけ絵本は、14世紀初めのヨーロッパですでに作られていました。その誕生は、カラー印刷が登場するより以前にまでさかのぼり、当時は天文学や医学、地理学などの学問を視覚的にとらえるためにもっぱら大人向けに作られた実用書でした。

子どものための本として本格的にしかけ絵本が登場するのは、印刷技術が向上し、本が一般の人々の娯楽として普及するようになる18世紀後半のヨーロッパにおいてだと考えられます。

19世紀初頭にはロンドンのディーン社が、子どものためのおもちゃ絵本専門の出版社をつくり、動く絵本の新しい手法を生み出しました。

19世紀後半になると、ドイツでは多色刷り石版(リトグラフ)が普及し、しかけの面白さと美しい絵の魅力を合わせ持った作品が登場しました。

第一次世界大戦を境に、ヨーロッパでのしかけ絵本の出版は一時下火になりました。かわってしかけ絵本の制作は、国力を増したアメリカに舞台を移しました。1932年には、アメリカの出版社であるブルーリボンブックス社が、19世紀に開発された“舞台の本”を改良し、本のページを開くと自然に絵が立ち上がるようにしたしかけを開発し、そのしかけに“ポップアップ”と名付けました。

その後、しかけ絵本は1970年頃から再び世界中で出版が活発になりました。ページを開くと、三次元の世界に誘われるしかけ絵本は、時代を越えて長い間、大人も子どもも魅了してきました。

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参考資料 : 「POP-UP絵本ミュージアム」 ロバート・サブダ,マシュー・ラインハート著 大日本絵画 726.6/サ(臨川所蔵)

図書写真 : 「Cookie Count」著 Robert  Sabuda   出版社 Little  Simon (図書館所蔵なし) 【自主撮影】


渋谷と短歌

2014年03月30日 | 文学

渋谷と短歌

 

渋谷は、「自然と文化とやすらぎのまち」とよばれるように多くの文学者が住まい、作品を生んできた。そのなかで与謝野鉄幹・晶子の短歌について取り上げる。

 

・与謝野鉄幹

△ウィキペディア・コモンズより

 明治6年~昭和10年(1873~1935)

 京都府出身。明治32年「新詩社」を創設し、翌年(明治33年)雑誌『明星』を創刊。

明治34年に渋谷で晶子と結婚した。渋谷を「新詩社」の拠点とし、近代短歌形成の先駆者として多くの活動を展開した。

 渋谷に最初に居住したのは、明治34年渋谷村大字中渋谷272番地(現在の道玄坂2丁目)。『赤裸裸歌』や『夏草』はその頃を歌った作品である。同年渋谷村大字中渋谷382番地に転居。三度目の移転は37年渋谷村大字中渋谷341番地。この期間が東京新詩社の渋谷時代と呼ばれている。渋谷区内ではもう一度転居しており、千駄ヶ谷村大通549番地(現在の千駄ヶ谷4丁目)に37年から42年まで暮らしていた。

 

<作品>

 

赤裸裸歌

 

栗の花水に散る 渋谷の村の真昼 ひくき茅籠の下 鶏飼ふ家の東 

五月の森の闇き眺めて 友と此の詩を吟ず 如何に君おもへ 栗の花の寒きに 

栗の球の麁きに 人棄てて秋の実奪らずば 寧ろ其れ栗の幸か

 

*「明星」(明治34年5月)から

 

・与謝野晶子

 明治11年~昭和17年(1878~1942)

 

△「明星」(明治34年5月)から

堺市出身。「新詩社」の社友となり、「明星」で短歌を発表する。34年に上京し、与謝野鉄幹と結婚。同年に歌集『みだれ髪』を刊行した。奔放な空想と大胆な恋愛感情をうたい、明治浪漫主義の新世界を切り開いた。渋谷を歌っている作品では、明治期から大正期にかけての何度かの転居による苦しい生活の中で、日常の生活うや引っ越しの前後の様子が渋谷の街の姿に重ねられつづられている。

 

<作品>

 

渋谷なるまづしき家に君むかへ見ぬ四年をば泣きて語りし

 

*「トキハギ」(明治42年5月)

 

渋谷にて

 

濃きむらさきのかきつばた 採ろとみぎはにつくばんで 濡れた袂をしぼる身は

ふと小娘の気にかへる 男の机に倚りかかり 男の使うペンを執り 

男のするやうに字を書けば また初恋の気にかへる

 

千駄ヶ谷に住みて

 

場末の寄席の寂しさは 夏の夜ながら秋げしき 枯れた蓬の細茎を

風の吹くよな三味線に 曲弾きの音のはらはらと 螇斯の雨が降り掛かる

寄席の手前の枳穀垣 わたしは独り、灯の暗い 狭い湯殿で湯をつかひ

髪を洗へば夜が更ける

 

*『与謝野晶子全集』1・7・8巻(昭和47年10月 文泉堂刊)から

 

渋谷の街は、数多くの文学者たちが作品に取り上げている。近代以降文学者たちの連なりが受け継がれており、それは渋谷独特の文学風土と言えるだろう。

 

【参考資料】

・『渋谷と文学』 渋谷区教育委員会 S33 (中央・臨川所蔵)

・『新 渋谷の文学』 渋谷区教育委員会 S33 (全館所蔵)

・『与謝野寛・晶子年譜』 新川一男著 S33 (中央・西原・渋谷・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川所蔵)

【画像】

①ウィキベディア・コモンズ(2014.2/23最終閲覧)

http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tekkan_Yosano.jpg?uselang=ja#

②「明星(明治34年5月)」東京新詩社(区内所蔵なし)


すらすら読める風姿花伝

2013年11月14日 | 文学

「秘すれば花」 (世阿弥)

 今から600年前の芸能論です。芸能論としての枠にとどまらず、芸術論、人としての生き方まで考えさせられる奥深い書です。もともと秘伝書として、これを伝えることのできたのは、一家に一人。たとえ実子であっても、才能や志のないものには一見することすら許されなかった秘伝書を今日、見たい者が誰でも手にとることができるというのは なんとすばらしいことなのでしょうか? 能というパフォーミングアートはその時、その場でしか存在することのできない、一瞬のもの。その一瞬で、演じる側が見るものを魅了し、感動を呼び覚ますことが「花」という言葉で表わされています。少しでも芸事に関わった人なら、見るものをはっとさせたり、その心に深くしみ入ることの喜びがおわかりになるかと思います。

 実は「風姿花伝」は はるか昔大学の授業で課題図書でした。随所に印象が深い部分があったのですが、その時には原文だったので苦労して読んだ思い出がありました。しかしこの本は、本当にすらすら読める! 最初に口語訳を読んでおけば、原文も味わい深く読めます♩ 日本の素晴らしい古典を気軽に鑑賞できるという点で、本当におすすめです。

 「風姿花伝」は七篇にわたり、いかに花を体得するかを、能に命をかけた「世阿弥」が言葉を尽くし、情熱をかけて語っています。美しい姿や声、若々しくしなやかな肉体、しなやかな動きには「花」が咲きます。しかしこれらは「時分の花」であり、時とともに失せてしまう「花」でもあります。「花」を咲かせるために、厳しく正しい稽古を積み、柔軟な思考で貪欲に芸に邁進すること。芸の技を学び、錬磨し、幅広い芸域と熟練した演技力、多くの得意曲を持つこと。さらにその蓄積したもののすべてをいつでも表現できるように保つことが「まことの花」につながると言っています。またそうした努力や鍛錬を見るものに感じさせることなく、意外なところで見せることで、観客に驚きと感動を与えるというのが「秘すれば花」の極意だと世阿弥は語っています。

 六世紀以上も前に書かれた本ですが、これって芸能論という枠を超えて、今でも生き方として充分に通用しませんか?

 誰も想像し得なかったことを、さらりとできるということは、その人の、新しさ、意外さを演出でき、新鮮な感じでその人の引き出しの多さや奥深さを感じさせます。

 父観阿弥の築いた能の世界を芸術にまで高めた世阿弥。彼の能への情熱が時を超えてひしひしと伝わってきて、私に最初に立ち返るやる気と勇気をくれた本です。

初心忘れるべからず(世阿弥)

 

「すらすら読める風姿花伝」 林 望 著 講談社 ISBN 978-4062117959 

773/ハ 中央・西原・富ヶ谷・臨川 所蔵


緑川 聖司 「晴れた日は図書館へいこう」

2013年10月02日 | 文学

緑川 聖司 「晴れた日は図書館へいこう」

 

 皆さんが図書館を題材とした文学作品と聞いて、すぐに思い浮かべることができる作品といえば何でしょうか。やはり最近映画化もされた有川浩の「図書館戦争」を思い浮かべる方が多いでしょうか。図書館を題材とした作品は「図書館戦争」以外にも、もちろんたくさんあります。今回は図書館を題材とした児

童文学作品の一つである「晴れた日は図書館へいこう」について紹介していきたいと思います。

 

 

「晴れた日は図書館へいこう」 (文学の森)

著者名:緑川 聖司 出版社:小峰書店

所蔵館:中央、西原、富ヶ谷、笹塚、大和田、臨川、笹子図書館所蔵

(あらすじ)

本と図書館が大好きな女の子が図書館で出会ういろいろな人々との交流や、図書館で起きるちょっとした事件をミステリアスタッチに描く。

第1回日本児童文学者協会長編児童文学新人賞佳作受賞作品。

 

あらすじにもあるように主人公は、本と図書館が大好きな小学校5年生の女の子「茅野しおり」ちゃん。物語の舞台となるのは、しおりちゃんのいとこでもある美弥子さんが司書をしている「雲峰市立図書館」です。雲峰市立図書館での日常や図書館の本と利用者に関する謎を、図書館利用の案内人である司書の美弥子さん、良識ある利用者の代表ともいえるしおりちゃんを通して物語は描かれています。図書館で働いている者としてこの本を読んで驚かされたのは、図書館の日常や問題をとても詳しく描いているという点です。例えば図書館での子どもたちによる追いかけっこやブックポストへのいたずら、水濡れ本や不明本など、図書館で働いた経験がある方が読めば思わず「あ~、あるある」と頷いてしまう事柄です。またそれと同時に図書館のよくある日常と問題をちょっとしたミステリーとして物語に昇華しているところもすごい。また作中には架空の本が多数登場し、どれも魅力的なタイトルかつ内容で作者のセンスが光ります。

 

個人的にこの本は図書館利用のマナーブックとして、小学校高学年を対象とした「図書館利用案内」のブックトークなどで紹介するのに適している本だと思います。この本を読むことによって、図書館利用のマナーや図書館で働いている司書のこと、図書館の歴史についてなど、物語を通して触れることができて理解を深めることができます。また児童書ですので読みやすく、図書館をみんなで気持ち良く利用するには、図書館のルールやマナーを守って利用することが何よりも大切であることを教えてくれています。図書館をよく利用する子はもちろん、図書館をあまり利用しない子や図書館をご利用される大人の利用者の方にもぜひお薦めしたい一冊です。

 ちなみにこの物語には続編がございます。

 

「ちょっとした奇跡 晴れた日は図書館へいこう2」 (文学の散歩道)

著者名:緑川 聖司 出版社:小峰書店

所蔵館:中央、西原、富ヶ谷、笹塚、大和田、笹子図書館所蔵

 

(あらすじ)

図書館は奇跡にみちている!図書館で起きる、本に関するミステリーを、主人公のしおりと友達の安岡君が、いろいろな人の力を借りながら解き明かします。

 

今回紹介した「晴れた日は図書館へいこう」にご興味を持たれた方にはこちらもセットでお読みいただければきっと楽しめると思います。2冊とも渋谷区立図書館に所蔵がございますので、この機会にぜひ図書館へいってみませんか。

 

参考文献:

・『晴れた日は図書館へいこう・(文学の森)』 緑川 聖司/小峰書店/913ミ(中央所蔵)

・『ちょっとした奇跡 晴れた日は図書館へいこう2・(文学の散歩道)』 緑川 聖司/小峰書店/913ミ(中央所蔵)

 


アンネの日記

2013年08月17日 | 文学

アンネの日記

あなたになら、これまでだれにも打ち明けられなかったことを、なにもかもお話できそうです。どうかわたしのために、大きな心の支えと慰めになってくださいね。

1942年6月12日

 

アンネの日記は、1942年6月12日、アンネの13歳の誕生日から始まっています。

お父さんから日記帳をプレゼントされたアンネは、日記に‘キティー’と名前をつけて、架空の友達である彼女に手紙を送るようにして日記を書きました。(いつも親愛なるキティーへ、ではじまりアンネより、で終わっていました。)日記の1ページ目には自分の気持ちを日記になんでも打ち明けられそう、と書いています。

1944年8月1日まで2年と2か月の間日記は続きました。3日後の8月4日、ドイツ軍のユダヤ人狩りから身を隠していたアンネ達は密告によって発見され、アムステルダムの隠れ家から強制収容所に連行されてしまいます。この強制収容所から、生きて戻ってこれたのは、アンネのお父さんだけでした。

 

 

アンネは神様より知っている

幼い頃、アンネは病弱で、学校に行けない日もありましたが、性格は明るく活発な女の子でした。ときには周りの大人を困らせるほどのおしゃべりで“神様はなんでも知っておいでだけど、アンネはもっとなんでもよくしっている“と言われるほど。通っている学校では人気者で、いつも周りにはたくさんの友達がいました。アンネは自分が男の子から注目されていることも自覚していて、クラスのほとんどの男の子が自分に気があると思っていました。アンネは日記で、この頃の事をこのように回想しています。

 

そう、たしかに天国のような生活でした。どこに行ってもボーイフレンドが五人はいましたし、同年輩のお友達だの知り合いだのは二十人ぐらいもいました。

 

 

1942年の7月からアンネ・フランク一家(アンネのお父さん、お母さん、お姉さんのマルゴー、アンネ)は、お父さんの会社の中にひそかに造った‘隠れ家’に身を隠して生活するようになりました。お父さんの会社の協力者たちに食糧をはこんでもらい、自分たちは、一歩も外にでられない生活でした。アンネたち姉妹も学校に行けず、友だちと連絡をとることもできませんでした。

アンネ一家の他にファン・ダーン一家(ファン・ダーンのおじさん、おばさん夫婦と息子のペーター)も一緒の同居生活でした。すこし遅れた時期には歯医者さんのデュッセルさんが加わります。

はっきりとものをいう女の子だったアンネは、隠れ家の生活でも自分も意見をだまっていることはできません。お姉さんのマルゴーは、おしとやかな性格で、アンネは、よくお姉さんと比べられて怒られていました。

ファン・ダーンおばさんは、アンネのことをわがままで強情だとたびたび小言を言いましたし、アンネはおばさんは身勝手でうるさいと思っていました。他にも、食糧や家内でのルールをめぐって隠れ家の中はいざこざが絶えませんでした。隠れ家生活では、みんながつねに顔を合わさなければならず、アンネはこんな状況に疲れてしまいました。

 

うちじゅうが家鳴り震動するような、すごい喧嘩つづきです。・・・すてきな雰囲気でしょう?

 

しかし、アンネは、戦場の悪いニュースを聞いてみんなが落ち込むようなときでも、

(隠れ家)を(憂鬱の隠れ家にしてしまったところでいったいなにになるの・・・①?と明るく振る舞いました。

 

 

二人のアンネ

このころアンネは、自分をこども扱いするお母さんと衝突することが多くありました。

優等生であるお姉さんのマルゴーと比べられることにアンネはがまんできません。

 

毎日わたしは、私のことを理解してくれるほんとうのお母さんがいないのをさびしく思っています。ママはなにかとマルゴーの味方をします。(中略)・・・もちろんふたりのことは愛してますけど、それはふたりがわたしのおかあさんであり、お姉さんであるからにすぎず一個の人間としてはふたりともくたばれと言ってやりたい。パパについては、ぜんぜんちがいます。(中略)パパだけがわたしの尊敬できるひとです。

 

アンネは自分のことを日記の中で二重人格だと表現しています。たいていの人は、アンネのことをわがままででしゃばりだと感じているのだけれど、キティーにだけにみせるより良い、りっぱな一面もあると。いつもみんなにみせている明るい道化のアンネ、もうひとつは、傷つきやすい、繊細なアンネと。

 

ときどきわたしは自分に問いかけます。ユダヤ人とか、ユダヤ人でないとかにかかわらず、わたしがたんにひとりの少女であり、はしゃいだり、笑ったりすることを心の底から欲している、このことをわかってくれるだろうか?でもわたし自身には答えられませんし、このことをだれかに話すこともできません。話せばきっと泣いてしまうでしょうから・・・。

 

アンネは、いつ自分たちが自由になれるかわからない隠れ家での状態のなかで、つらい時期を過ごします。自分は孤立していて途方もなく大きな真空にかこまれている気分・・・② だと感じていました。戦争中の過酷で異常な環境でアンネの内面は実際の年よりも急激に成長してしまいます。

ですが、まわりは、アンネが大人へと成長していく過程で苦しんでいることに気がつきません。隠れ家の中で一番年下でいつも怒られ役だったアンネは、一人のりっぱな人間として扱われることを望んでいましたが、その気持ちは誰にも、大好きななお父さんにも理解してもらえませんでした。日記の中でだけ、アンネは、本当の自分になれたのかもしれません。

 

わたしはますます両親から離れて、一個の独立した人間になろうとしています。・・・

わたしがわたしとして生きることを許してほしい。

ときどきわたしは、神様がわたしをためそうとしていらっしゃる、そう考えることがあります。・・・わたしはほかにお手本もなく、有益な助言も得られないまま、ただ、自分の努力だけでりっぱな人間にならなくてはなりません。

ここでキティーに約束しましょう、どんなことがあっても前向きに生きてみせると。涙をのんで困難のなかに道を見いだしてみせると。

 

アンネは、これまでの自分のことを反省し、両親へのなまいきな態度や嫌いだったファン・ダーンのおばさんにも理解を示すようになります。

勇気と信念とを持つひとは、けっして不幸におしつぶされたりはしない・・・③、アンネは強い気持ちをもって、また平和な世界になると信じていました。

 

つねに勇敢に、強く生き、あらゆる不自由を忍んで、けっして愚痴を言ってはなりません。

このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかはきっとわたしたちがただの

ユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。

 

 

アンネの日記の出版

ユダヤ人にとって絶望的な環境下にあっても、アンネはあきらめませんでした。隠れ家生活を「危険でロマンティックな冒険」とし、ほかの少女とは異なった生きかたをし、おとなになったら、普通の主婦たちとは、異なる生きかたをしてみせる、と日記に書いています。

アンネはドイツのベルゲン・ブルゼン収容所で亡くなりました。ガス室はなかったものの衛生状態が悪く、ほとんどの人が飢えと病気で苦しみ亡くなりました。アンネとお姉さんのマルゴーもチフスに罹り亡くなっています。15歳の生涯でした。マルゴーがチフスで亡くなった3日後、アンネは、裸で毛布にくるまった状態で一人息を引き取っていました。

2人の死亡日時は、はっきりわかっていませんが、1945年の3月の初めごろといわれています。収容所が英軍によって解放され中の人たちが救出されたのは、4月12日でした。

 

生き残ったアンネのお父さんは、周りの薦めもあり、1947年にアンネの遺した日記を出版しました。

すると、世界中でベストセラーになります。

アンネの日記は、アンネが、戦争が終わったら公表するつもりで、書かれたものです。

オランダ政府は、ドイツ占領下の国民の苦しみの記録を募集すると発表していました。

アンネは、ラジオでそのことを聞きぜひ自分の日記を応募して出版してもらおう、と考えていたのです。もともと書いていた日記を清書し、登場人物を仮名にしたりと手を加えていました。

日記があまりにも良く書けていたため、本当に15歳の少女が書いたのか、信憑性を疑われたくらいでした。もちろん、今では、正真正銘アンネ自身が書いたものだと証明されています。

アンネは、将来作家かジャーナリストになりたいと考えていました。

アンネは特別な少女だったのでしょうか?

 

その他大勢の女性たちのように、毎日ただ家事をこなすだけで、やがて忘れられてゆくような生涯を送るなんて、わたしには考えられないことですから。周囲のみんなに役立つ、あるいはみんなに喜びを与える存在でありたいのです。わたしの周囲にいながら、わたしを知らない人たちにたいしても。わたしの望みは、死んでからもなお生きつづけること!

 

 

アンネの日記本文はすべて「アンネの日記 増補新訂版」深町眞理子訳 2003年文藝春秋 949/フ (中央・西原・笹塚・代々木所蔵)

から引用した。

また、①、②、③の文章、写真の引用も同書を使用した。

参考文献

「写真集 アンネフランク 訳編」 木島和子 小学館 289/フラ (中央保存庫所蔵)

「新版 悲劇の少女アンネ」 シュナーベル著 偕成社 28/フ (中央・富ヶ谷・笹塚・本町・臨川・笹塚こども所蔵)

「アンネ・フランク最後の七カ月」 ウィリーリントヴェル著 徳間書店  289/フ(渋谷所蔵) 316/リ(笹塚所蔵)

「この人を見よ歴史をつくった人々伝7」 アンネフランク ポプラ社 28/コ(中央・笹塚所蔵) 28/フ(笹塚こども所蔵)