幡ヶ谷地蔵 ( 幡ヶ谷1-1)
江戸時代の貞享3年(1686)に建立されたもので、子供の安全を守って身代わりになってくれるという言い伝えがある。甲州街道の道幅を広げたときに、現在の不思議な形のお堂が建築された様。
内部は暗くてよく見えないが石仏がいくつもあり、子育て地蔵は、丸彫立像で蓮座にたっている。台座蓮弁には尼僧をはじめ多数の人名がある。高さは136センチ。
牛窪地蔵(幡ヶ谷1―10)
牛窪地蔵は正徳元年(1711)に建立されたものである。
正面の三角形をしたお堂にまつられていて、今もなお土地に人々に信仰されている。
左手に宝珠、右手に錫杖をもつ丸彫立像の石仏であり、左端にあるのが牛窪地蔵である。
境内の右側には供養塔が一列に並んでいるが、ここは、もとは中野通り(鎌倉道ともいう)との交差点あたりに建てられていて、鎌倉道を往来する人々の道中安全を願って建立されたものと考えられている。全国でも珍しい道そのものの供養塔であるらしい。
なおここは江戸時代の頃から牛窪と呼ばれていたらしいが、窪地である為と、牛を使って極刑である牛裂きの刑場跡という言い伝えがあるらしい。
酒呑み地蔵(本町5-2-13 →幡ヶ谷2-36-1(清岸寺内))
元は本町5丁目にあったが、清岸寺境内へ移転し、新たなお堂が立つとのこと。
宝永5年(1708)に建てられた。当初は路傍の石仏であったがいつの頃からか酒呑地蔵といわれるようになったらしい。
新旧2基の像があり、古いほうは江戸時代宝永5年に建立、もう一体の地蔵は対大正12年の造立で寄付者15名の名が刻まれている。
酒呑み地蔵の名の由来は、現在記録類が残されていないので不詳であるようだが、土地の古老から伝え聞いた由来があるらしい。
江戸時代、四谷伝馬町に中村瀬平という若者がいたが、事情があって家を出て幡ヶ谷村までやってきた。ある農家に奉公し、子守や野良仕事に精を出していた。
彼は非常に勤勉であり、感心な若者だと村人たちに可愛がられていた。
ある日、村人から招かれてご馳走になり、生まれてはじめて呑んだ酒に酔い、帰り道橋を渡りかけたとき、足を滑らせて川に転落し、溺死した。
その後ある晩のこと、彼が村人の夢枕に立ち、「地蔵を建立してくれれば、この村から大酒のみをなくす」と告げたという。
参考資料
『渋谷区史跡散歩』 学生社 S13(笹こ以外全館所蔵)
『渋谷のむかし話』 渋谷区教育委員会 S13(全館所蔵 他)
『しぶやNo.1~15』 渋谷区企画室 S02(中央・西原所蔵)
『図説渋谷区史』 渋谷区 S12(全館所蔵 他)
写真 : 自主撮影