ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

「がん哲学」を提唱する ー新渡戸稲造ら先人に学ぶことー

2004-06-18 | 番組ゲストのお話
◆6月号◆医学博士 樋野興夫氏(5月4週、6月2週放映)

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ひの・おきお 1954年生まれ。
順天堂大学医学部教授。 専門は病理学、がんの遺伝学。日本病理学会理事。
著書『がん哲学』『われ21世紀の新渡戸とならん』、『われOrigin of fireたらん』、『がん哲学から人生を読み解く』(対談本)
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 いまやゲノム時代である。ヒトゲノムは約30億の塩基対から成っており、一個の塩基の変異によっても、正常細胞ががん化することは、厳然たる生命現象である。「地球」を一個の細胞に例えれば、「染色体」は国の大きさ、「遺伝子」は町の大きさ、遺伝子をコードする「塩基」は、一人の人間の大きさに例えられる。
 それは、一人の人間によって地球はがん化することを意味する。逆に、もし遺伝子治療が一個の塩基を修正することによって細胞を治すことであるとすれば、小さな一人の人間の存在によって地球が救えることになる。「がん哲学」は一人の人間の力をあなどるな、というメッセージを孕んでいる。

 私の青春期の起点となった南原繁(戦後最初の東大総長)は、「理念をもって現実に向かい、現実の中に理念を問う知性のあり方」として「政治哲学」を提唱した。私は「がん学に哲学的な考え方を取り入れていく領域がある」との立場にたって、「がん哲学」を一生の業として求めていくことを決意した。
 私は昨年、がんの本態解明に道を開いたがん病理学者、吉田富三の『生誕百年記念事業』に明け暮れた。吉田はがんの「個性と多様性」を説き、「がん細胞に共通な、あるいは最も本質的な特徴を見出すことが大切である」と述べた。吉田は世界に誇るがん病理学者であるとともに、「がん学の理念、人生観を分かりやすく語る思想家」でもあった。


 がんの発生には必ず原因がある。自然にできるものではなく、ボタンの掛け違いによって長い年月をかけて大きくなっていく。がんにプロセスがあり、時間がかかることを考えると、大きくなるのは「境遇」が大切ということが分かる。これを「がん性化境遇」という。
 『武士道』などの著書で知られる新渡戸稲造は「人生はすべて小さく始まって着実に広がっていく。人生は開いた扇のよう。出発点では小さくて、絶えず大きくなっていくのである」と語っている。この着実に広がっていくプロセスは、まさにがん細胞の成長過程に通じる。がん細胞で起こることは人間社会でも起こるのである。
 また、新渡戸は「禍の起こるは起こる時に起こるにあらず、由って来るところ遠し」と説き、真の国際人を「賢明な寛容さ。行動より大切な静思。紛争や勝利より大切な理念」と定義した。それぞれが確実な足場「アルキメデス点(てこの支点)」を定めることが、閉塞感のただよう現代において最も大切といえよう。
 国際社会における日本のあり方が盛んに論議される中、いまこそ「平和外交のステーツマン・新渡戸稲造」と「がん哲学者・吉田富三」の出番である。
 最近の大学入試をはじめ、面接試験では、「尊敬する人物」を問うてはならないようである。なんとも奇妙な時代である。自分の人生の「恩師」を語ることすらはばかられる時代的様相である。


 ゲノム時代だ、IT時代だ、と言っても、人間の心情の動きは、今も昔も変わっていない。歴史の先達に謙虚に学ぶ理由がここにある。
 これこそ、まさに「教育の本質」ではないだろうか。私が「時を友」として、新渡戸稲造、南原繁、吉田富三の事業を「時代の要請」として推進する根拠がここにある。3人は、深く、鋭く、強く、私の肺腑を突く人物といえる。彼らの命題は、今日の命題であり、将来のそれでもあろう。
 大いなる人物とは、存命中に実を結んだものだけではない。後世に生まれた我々が、これを『温故』することによって現代に貢献できるのである。
 今年は南原繁の没後30年にあたる。また、五千円札の顔「新渡戸稲造のさようなら会」が六月に東京で、7月には札幌で企画されている。
 世の中はいま、イラク問題をはじめ騒然としている。一見「理解不能モード」である複雑な現代の世界、社会の状況にあって、混沌の中に一筋の光を「がん哲学」で示すことができればと思っている。[産経新聞文化面2004/5/1付]