ハーベスト・タイム『収穫の時』

毎月発行の月刊紙『収穫のとき』掲載の聖書のお話など。

「落し所」の法則

2006-10-26 | 魅力的な人になるためのレシピ


◆10月号◆魅力的な人になるためのレシピ(18) の法則


 広辞苑で「落し所」を調べると、こうなっています。「結着を付けるために最適な場面。用例『落し所を探る』『落し所を心得た人』」
 最近は、親や友人を殺傷する青少年犯罪が増えています。その理由として、「昔の子は実際に喧嘩をしながら、どこまでできるかを学んだものだが、最近は手加減の分からない子が増えてきたのだ」と主張する人もいます。確かにそういう面もあるでしょう。つまり、喧嘩の落し所が分からない時代になっているとも言えるのです。
 喧嘩だけでなく、人間関係においても、裁判においても、ビジネスにおいても、落し所を心得ておくことは極めて重要なことです。

一、自己評価の落し所
 他人から批判されたことのない人は、いないはずです。聖書には、「軽率なひと言が剣のように刺すこともある。知恵ある人の舌は癒す」(箴言12・18)とありますが、確かに私たちの人生には、言葉が剣のように心に突き刺さることがあります。批判の言葉を浴びた場合、普通二つの反応が考えられます。一つは、その批判によって打ちひしがれ、立ち上がれないほど落ち込むというものです。当を得た発言であればあるほど、痛みも強烈です。もう一つの反応は、心に鎧をまとって、批判の言葉をはね返すというものです。鎧をまとえばまとうほど、その人は感受性をなくし、友人をなくしていくことでしょう。
 どのような局面でも言えることですが、極端な反応は、決してよい結果を生みません。大事なことは、バランスを保った反応をすることです。それができる人は、「落し所を心得た人」です。旧約聖書の伝道者の書の著者は、こう助言しています。「あなたは正しすぎてはならない。知恵がありすぎてはならない」(伝道7・16)。つまり、人間には分からないことがたくさんあるのだから、神のように振る舞ってはならないということです。また、こういう教えもあります。「高ぶりが来れば、恥もまた来る。知恵はへりくだる者とともにある」(箴言11・2)。最高の反応は、批判の言葉が当たっているなら直ちに悔い改め、それまでよりもさらに知恵ある者となって立ち上がることです。

二、ビジネスの落し所
 ビジネスにおいても、落し所があります。毎日が落し所を探る作業の連続であると言っても、過言ではありません。かつてのセールスマン教育では、物を売るための技法の伝授に強調点が置かれていました。その当時は、「エスキモーにでも冷蔵庫を売れるようなセールスマン」が、優秀なセールスマンであるとされていました。つまり、相手が必要としていなくても、テクニックで売りつけるのがセールスマンの仕事だというのです。しかし、このような考え方は、すでに時代遅れです。永続性のあるビジネスを築くためには、落し所をわきまえる必要があります。それが、「ウイン・ウインの関係」です。つまり、両者がともに勝ち組になれるような関係を模索するということです。日本では、このような商道徳は昔から存在していました。石田梅岩(江戸時代中期の思想家)は、「実の商人とは、先も立ち、我も立つことを思うなり」という言葉を残しています。また、近江商人の商売哲学は、「三方よし(買い手よし、売り手よし、世間よし)」というものです。これは、他国での商売を通じて生まれた考え方ですが、今でも通用する普遍的な概念です。

三、人生の落し所
 人生において冒険しようと思うなら、「落し所」をわきまえることが大切です。具体的には、失敗した場合のことを考えて行動するということです。最悪の状況を想定し、その範囲内に収まるなら冒険をしてもいいとの判断が成り立つなら、かなり大胆に行動することができるようになるでしょう。

 このところ、北欧のハイテク産業は驚くほど発展していますが、このことと社会福祉制度の充実とは無関係ではありません。ベンチャー企業を起こすことには相当なリスクが伴いますが、北欧の人たちは、たとえ失敗しても生活できなくなる不安がないため、果敢に新しいことにチャレンジできます。その結果、ハイテク関係の新発見が続出しているのです。日本は小さな政府を目指していますが、それが貧弱な福祉政策をもたらす結果となるなら、国民は冒険をしなくなるでしょう。日本社会の活力が消えうせることを危惧します。
 ここ数年、団塊の世代の定年問題が頻繁に論じられています。退職して年金生活に入る人たちは、自己所有の資金を少しでも増やすために、投資の勉強を始めているようです。金融商品のパンフレットには、「年○○パーセントの収益」といったうたい文句が躍っています。しかし、失敗した場合のことを想定しないままで、このようなうたい文句に乗ってはなりません。これから投資をしようと考えている人は、失敗した場合の許容範囲(落し所)はどこなのかを熟慮し、生活そのものを脅かすような投資をしてはなりません。
 「死ぬ気になれば、なんでもできる」という言葉があります。確かにそうでしょう。私たちはみな、最後は死にます。それが、最悪の状況を想定するということです。もしその状況が許容範囲だと言えるようになるなら、人生観は百八十度変わることでしょう。

 1999年12月6日号の『USAトゥデイ』誌に、記者のキャシー・ハイナーが次のような一文を寄稿しています。彼女は、ガンで闘病生活を送っていましたが、この頃は死期が近づいていました。

 夜中に目覚めて、ベッドの上に座ったまま、三歳児のように泣くことがあります。長い夜が恐ろしくて仕方がないのです。それとは逆に、心が平安で満たされる時もあります。自分は正しい場所にいる、死後の命はある、と確信しているからです。
 一人の友人が最近教えてくれたたとえが、私にとって慰めになっています。これは、デイビッド・マーカスという大佐が死んだ時に身につけていたものです。彼は、ユダヤ系アメリカ人で、イスラエル国防軍の設立のために尽力した人です。そのたとえを紹介します。
 「私は今、海岸に立っている。目の前を、白い帆を一杯に張った船が朝風に吹かれて進んでいく。その船は、美と力の極地である。やがて船は、水平線に浮かぶ小さな白いリボンのようになった。すると、そばに立っている人が、『ああ、船がいなくなった』と叫んだ。
 いなくなった?一体どこへ行ったのか?私の目から消えただけのことだ。その船の大きさや美しさは、先ほど目の前を通過した時となんの違いもない。誰かが『ああ、船がいなくなった』と叫んだ瞬間、向こう側では、別の誰かが『見えたぞ。船がやって来た』と叫んでいるのだ。死ぬとは、そのようなことなのだ」