「ハーベスト・タイム」番組アシスタント、ナレーター 中村啓子
明治四二年二月二八日。北海道宗谷本線塩狩峠で、連結器がはずれ、急勾配を逆走する列車を、自らの身を投じることで停止させた一人の鉄道員がいました。長野政雄さん、当時二九歳。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛をだれも持っていません」(ヨハネの福音書15章13節)
まさにその愛を実践した人でした。
この事実に基づいて書き上げられたのが、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』です。
長野政雄さんの殉職事故からちょうど百年を迎えた今、その『塩狩峠』が、私の声によるCDになりました。
ひととき、自らの朗読に耳を傾けながら、これまでの不思議な流れを振り返ってみたいと思います。
中村啓子朗読の夕べ/塩狩峠
昨年一〇月、私のふるさと富山県立山町の一角にあるログハウスに、約三〇名の地元の人たちが集いました。
富山は、浄土真宗が根強い地です。でも、『塩狩峠』における「真実の愛」は、きっと伝わるはず、いえ、伝えたいとの思いで企画したこの朗読会でしたが、準備中に、会場提供者である友人から電話が入りました。「最初からあんまりキリスト教色出さん方がいいよ。この辺の人は、警戒するからね」。私は、もう一度抜粋個所を見直しました。しかし、キリスト教を伝えずして、『塩狩峠』は成り立ちません。彼女の忠告に逆らうかのように、私は、主人公、永野信夫の信仰告白文全文を読むことに決めました。
いよいよ開演・・・「朗読会ちゃ何するが?」と言いながら集った人たちの怪訝そうな面持ちは、私が富山弁で冗談を言ってみても、一向にほぐれません。そんな
空気の中、読み始めた『塩狩峠』は、やがて永野信夫が、病で寝たきりのふじ子にプロポーズするシーンに入りました。と、そのとき、会場のあちらこちらから、すすり泣く声が聞こえはじめたのです。私は、内心、驚いてしまいました。(まだクライマックスでもないのに!) でも、その涙によって、私もまた朗読への集中力を募らせ、聴衆と心をひとつに、一気にエピローグまで突き進むことができたのです。
何というひとときだったのでしょう!信仰告白文に聞き入る人たちの表情に、拒否感など、みじんも見受けられませんでした。そして、終演後もまだ泣きじゃくりながら「感動しました」と述べる観客の姿を、地元のテレビニュースが放映し、新聞は「テーマは自己犠牲の愛」と報じたのです。
「音の匠」顕彰と、その潮流
翌日、同じ富山の黒部市で『塩狩峠』を朗読しようとしていた矢先、私のもとに一本の電話が入りました。それは、日本オーディオ協会からの第一三回「音の匠」顕彰内定の知らせでした。
神様が、この朗読を祝福してくださっている! このとき、私は、そう確信しました。『塩狩峠』朗読CD制作を、との思いを得たのは、その翌朝のことです。
それからの展開には、目を見張るものがありました。素晴らしい助け手が次々に与えられたのです。
まず制作全般を、私の信仰の導き手でもある根本正道氏が、朗読をつなぐ筋書きを三浦綾子記念文学館特別研究員(元福岡女学院大学准教授)の森下辰衛先生がお引き受けくださり、さらに、ジャケット表紙の絵を『塩狩峠』が日本基督教団月刊誌に連載されていた際、挿絵を担当なさっていた中西清治画伯から、また、三浦綾子さん自筆の題字を、三浦綾子記念文学館から、帯に掲載の言葉を三浦光世さんからご提供いただくことができました。
そして、ハーベスト・タイムがその発売をお引き受けくださったのです。
「音の匠」の顕彰が、このCDの出版に及ぼす影響も、私の思いを越えていました。
新聞、雑誌、ラジオなど、押し寄せる取材の申し込みは、今も絶えることがありません。そして、その焦点は、いつしか私の人生観に当てられるようになってきたのです。
「この声、神様がくれた」(朝日新聞富山版1/5)、「人のためにできることを」(東京新聞1/31)など、一般紙とは思えない見出しの記事に必ず添えられる「塩狩峠朗読CD」の紹介。もし、これを広告費に換算したら、一体どれほどになるのかと思うと、神の御業の偉大さに目がくらむ思いです。
祈り
神は、私に思いを与えられ、助け手を与えられ、さらに思いもかけない潮流を作り出してくださいました。
今はただ、その大いなる力に対する感謝で、胸がいっぱいです。
「一粒の麦、地に落ちて死なずば、ただひとつにてあらん。もし死なば、多くの実を結ぶべし」(新約聖書ヨハネ伝12章24節)
『塩狩峠』冒頭の聖句です。
百年前、一粒の麦となられた長野政雄さんの自己犠牲の愛は、今も、三浦綾子作『塩狩峠』を通して、人々に生きるとは何か、愛とは何かを問いかけ、多くの実を結び続けています。
このCDもまた、天からの潮流に乗って、今を生きる人々の心の入り江に届きますようにと祈るばかりです。