歌舞伎の舞台でキリスト教が取り上げられる事は珍しい。新作では『細川ガラシャ夫人』といった事例はあるが、そのものズバリのイエス・キリストが舞台に登場した事はないのではないだろうか。
幸四郎と猿之助の顔合わせによる『東海道膝栗毛』は、第1作は伊勢どころかラスベガスまで行ってしまう奇想天外さ。第2作は歌舞伎座で弥次さんと喜多さんが大道具方のアルバイトをするうちに殺人事件に巻き込まれてしまうという展開。
共通しているのは、主役のクライマックスの宙乗りと御曹司である染五郎と團子が出演している事。
今回は昨年の猿之助の事故をネタにしたのか、大阪で『女殺油地獄』の大道具のアルバイトに精を出していた喜多八が油で滑って死んでしまうという楽屋オチ入りのブラックな趣向。いきなり猿之助の遺影がデカデカと飾られ葬式が始まる。
しかも、物語とはあまり関係なく獅童、七之助、中車が早替りで色々な人物になって花道から弔問に訪れるという奇想天外さ。大道具に歌舞伎ではあり得ないようなピクトグラムがあったりして、歌舞伎の調和を乱す工夫が全編にあるという具合。
芝居全体も、歌舞伎の調和を乱しているように見えてギリギリのところで踏み止まるような工夫が随所にある。若手による「だんまり」は、よく歌舞伎の評論家の先生方の標的になる。それを逆手にとってか舞台上に立錐の余地もないほど役者を登場させて「だんまり」を演じさせたりする、かなりアナーキーな舞台。
コントのような場面が続くかと思えば、地獄の鬼に扮した御曹司達の踊り合戦のようになったりと若手に活躍の場を与えることにもぬかりはない。『ワンピース』以来、そうした事に関心があるようで、新悟はサディちゃんのムチを持って登場した。分かる人にしかわからないのである。宙乗りでは、染五郎と團子はスーパータンバリンを持っていたりする。
極め付けは、神無月で出雲へ行ってしまった日本の神々に代わり、イエス・キリストが弥次さん喜多さんを天国に昇天させるというクライマックス。いささかイエス様は戯画化されてはいるが、その表現しようとしている事は、クリスチャンにとっては理想とも言える姿なのである。
罪人(つみびと)ともいえる弥次さん喜多さんが、天使とともに天国に歓喜とともに凱旋するという趣向の宙乗りは、クリスチャンも納得の「空中再臨」や「携挙」を表現していると言えるものだからである。ヘンデルの「メサイア」から「ハレルヤコーラス」が流れるのも意味のない事ではないのである。観客の拍手と喜びの笑顔で見送られるという事こそ理想的な姿だと思った。
幸四郎、猿之助、中車らは暁星高校の出身だし、青山学院高校らミッションスクールの出身者も少なくない歌舞伎役者であるから、こうした場面を生み出せたのだろうと思う。笑いの衣は纏っているが、実は福音を伝える伝道的な歌舞伎になっていたのである。
『雨乞其角』は所作舞台を敷かずに本舞台で踊られた舞踊劇だった。船や回り舞台、大せりなどを使っての大仕掛けだけれど、俳人の其角が雨乞いをするという地味な内容。扇雀以下総踊りでも目立っていたのはやっぱり鷹之資だった。前半に登場した歌昇の船頭も好演していた。遠見に描かれた芝居小屋があって興味深かった。
幸四郎と猿之助の顔合わせによる『東海道膝栗毛』は、第1作は伊勢どころかラスベガスまで行ってしまう奇想天外さ。第2作は歌舞伎座で弥次さんと喜多さんが大道具方のアルバイトをするうちに殺人事件に巻き込まれてしまうという展開。
共通しているのは、主役のクライマックスの宙乗りと御曹司である染五郎と團子が出演している事。
今回は昨年の猿之助の事故をネタにしたのか、大阪で『女殺油地獄』の大道具のアルバイトに精を出していた喜多八が油で滑って死んでしまうという楽屋オチ入りのブラックな趣向。いきなり猿之助の遺影がデカデカと飾られ葬式が始まる。
しかも、物語とはあまり関係なく獅童、七之助、中車が早替りで色々な人物になって花道から弔問に訪れるという奇想天外さ。大道具に歌舞伎ではあり得ないようなピクトグラムがあったりして、歌舞伎の調和を乱す工夫が全編にあるという具合。
芝居全体も、歌舞伎の調和を乱しているように見えてギリギリのところで踏み止まるような工夫が随所にある。若手による「だんまり」は、よく歌舞伎の評論家の先生方の標的になる。それを逆手にとってか舞台上に立錐の余地もないほど役者を登場させて「だんまり」を演じさせたりする、かなりアナーキーな舞台。
コントのような場面が続くかと思えば、地獄の鬼に扮した御曹司達の踊り合戦のようになったりと若手に活躍の場を与えることにもぬかりはない。『ワンピース』以来、そうした事に関心があるようで、新悟はサディちゃんのムチを持って登場した。分かる人にしかわからないのである。宙乗りでは、染五郎と團子はスーパータンバリンを持っていたりする。
極め付けは、神無月で出雲へ行ってしまった日本の神々に代わり、イエス・キリストが弥次さん喜多さんを天国に昇天させるというクライマックス。いささかイエス様は戯画化されてはいるが、その表現しようとしている事は、クリスチャンにとっては理想とも言える姿なのである。
罪人(つみびと)ともいえる弥次さん喜多さんが、天使とともに天国に歓喜とともに凱旋するという趣向の宙乗りは、クリスチャンも納得の「空中再臨」や「携挙」を表現していると言えるものだからである。ヘンデルの「メサイア」から「ハレルヤコーラス」が流れるのも意味のない事ではないのである。観客の拍手と喜びの笑顔で見送られるという事こそ理想的な姿だと思った。
幸四郎、猿之助、中車らは暁星高校の出身だし、青山学院高校らミッションスクールの出身者も少なくない歌舞伎役者であるから、こうした場面を生み出せたのだろうと思う。笑いの衣は纏っているが、実は福音を伝える伝道的な歌舞伎になっていたのである。
『雨乞其角』は所作舞台を敷かずに本舞台で踊られた舞踊劇だった。船や回り舞台、大せりなどを使っての大仕掛けだけれど、俳人の其角が雨乞いをするという地味な内容。扇雀以下総踊りでも目立っていたのはやっぱり鷹之資だった。前半に登場した歌昇の船頭も好演していた。遠見に描かれた芝居小屋があって興味深かった。