友人のAさんからメールが届きました。
今月歌舞伎座に出掛けられるのが昨日だけだったので駄目元で虎視眈々とチケットweb松竹のサイトを覗いていたら2日程前の深夜に突然戻り券が出たらしく、花道外ですが12列●番という悪くない席が手に入りました。
昨夜は勧進帳の2回目。安倍総理がSP引き連れて来てましたが、白鸚が自慢げに口上で来ていただいてと披露しちゃったのでその後の幕間は写真と握手責めで大変そうでした。幸四郎が長足の進歩でビックリでした。
友人のAさんは初日を観ているので、幸四郎の弁慶の成長ぶりに驚いたとのこと。あの吉右衛門の富樫を相手役に得て、日々成長していけないなら歌舞伎役者としては嘘でしょう。それほど吉右衛門は素晴らしかった。一体何が良かったのか自分なりに整理してみようと思い立ちました。
頼朝と義経。兄弟でありながら頼朝に疎まれ、義経は陸奥へ弁慶らを引き連れ山伏に変装して逃げる最中に富樫が守る安宅の関に到着。さて、どのような展開になるのか。毎年、配役を替えながら上演され続けている歌舞伎屈指の名狂言。物語の展開が変わるはずもなく、誰がどの役をどのように演じるかが興味の対象となる。でも、新幸四郎の弁慶は、白鸚、吉右衛門という立役の頂点に君臨する役者に富樫をつきあってもらえるので幸運の反面、どちらも生半可な演技では吹き飛ばされてしまうことだろう。
『勧進帳』を観るたびに「さても 頼朝、義経 おん仲不和と、ならせ給ふに、より、判官殿主従、作り山伏となり、奥秀衡を頼み、下向ある由、 鎌倉殿、きこしめし及ばれ、 国々へ、かく新関を、立てられ、厳しく、詮議せよとの、厳命によって、それがし、この関を、うけたまわる」の台詞を聞くたびに、白鸚と吉右衛門兄弟が不仲だということを思い出してしまう。そう二人は芸の上ではライバル同士。人気では染五郎時代から白鸚が先行した。ミュージカルでも現代劇でも代表作がいくつもある。吉右衛門は、映像の世界での活躍もあって知名度では負けてはいない。そして吉右衛門は兄をも凌ぐ名優になった。このとおろ何を演じても素晴らしい、記憶に残る舞台をいくつも演じている。
さて、今回の富樫。鎌倉にいる頼朝の命令を第一に考え、冷徹な仕事ぶりであることを「なおも、山伏来たりなば、はかりごとをもって、虜となし、 鎌倉殿の御心を、安んじ、申すべし」の台詞で見事に表現した。不機嫌なのかと思うくらい、吉右衛門が頼朝と一体化したように思えた瞬間もあった。上手に座っているだけなのに、そんな愚直なまでの富樫の「気」が満ちたような本舞台。一方の弁慶一行を観ていると、ひょとしたら関を通ることができないかもと不安な気持ちがわいてきた。もちろん芝居の結末が変わるはずもなく、物語は進んでいくのだが、そんな不安を抱かせるほど吉右衛門の富樫を巨大な壁となって幸四郎の弁慶の前に立ちはだかっていた。
何の遠慮もなく。主役の弁慶が同じクラスの役者なら、少しは手加減するのかもしれないが、情け容赦なく向かってくるのだから、幸四郎はたまったものではない。それでも、弁慶として二重の意味で最大の敵に挑んみ、目に見える成果があがっているというのだから、これほどの襲名へお祝いはないのではないだろうか。
「勧進帳の読み上げ」、「山伏問答」は観客の注意をすべて言葉に向かわせたこと、そしてその意味を考えさせたことが吉右衛門の芸の力だと思った。観客の誰一人として集中力を切らさずに舞台での出来事を見守っていたと思う。だから、安易に拍手などできる雰囲気ではなくなっていた。尾上梅幸の著書に『拍手は幕が下りてから』というのがある。
六代目菊五郎は、梅幸に「途中でお客様の手を叩かすな。幕が下りて”ああ、よかった”とハーッとため息が出るような芸を心掛けよ」と言っていたという。途中で手を叩かれると役を忘れて自分が表面に出てしまう。お客様を最後の最後まで引っ張っておいて、幕が下りた瞬間に割れんばかりの拍手が起こるのが理想。スタンドプレー的な、媚びた芸をすると、その瞬間は、拍手してくださるが、後に、印象に残らない。
吉右衛門の富樫はまさにこれだった。だから、富樫の「気」が残っている舞台では、花道に弁慶がかかっても拍手が起きなかった。最初はイヤホンガイドで拍手はしないものですと解説しているのかと思った。『勧進帳』では珍しいことである。弁慶の飛び六方にあわせて手拍子などという珍現象も起こるわけがなく、近頃の歌舞伎座では最もよい観劇環境だったといってよい。
それは、何よりも吉右衛門の覚悟の賜物なのだと思う。高齢になって身体が10年前のように自由にならない。1回1回の舞台の疲労度も以前より増していることだろう。それでも、70年近い役者人生でようやく掴みかけた歌舞伎の神髄を次世代の役者と観客に伝えなければならないという強い使命感を感じて舞台に立っているのだと思う。亡くなった父親である初代白鸚がそうだったし、歌右衛門、十七代目の勘三郎もそうだった。そうした大先輩の役者の背中を見てきた吉右衛門も、そうあるべきと思っているに違いないのである。
40年前、初めて歌舞伎座で歌舞伎を観た日。仮名手本忠臣蔵の『九段目』が出た。空前絶後の配役で、歌右衛門、当時の幸四郎、勘三郎、芝翫、雀右衛門、延若らが出演した。何しろ初めての歌舞伎である。舞台で起きていることの半分も理解できなかったけれど、歌右衛門はすごい役者だということだけはわかった。玉三郎のように、若くもなく、美しくもない歌右衛門にどうして心惹かれたのか、その答えを見つけるために40年間歌舞伎を観てきたような気がする。
その答えは、いまだに見つからない。役者も観客も40年、50年の年月を経なければ何もわからないということだけはわかった。吉右衛門が覚悟と使命感を持って演じるならば、観客も覚悟と使命感を持つべきではないだろうか。そして演劇評論家のお歴々。役者の名前を変えれば誰にでも通用するような批評を書くな。借り物ではない自分の言葉で語れ。観客も評論家の受け売りのような使い古されたような言葉で語るな。自分で考えて、自分の言葉で語ろう。最近の吉右衛門を観て思う。同時代の誰もが到達したことのない境地に吉右衛門はいる。見逃すな。心に刻め。そうした思いにかられる。観客の心を動かないでおかない役者なのだ。
今月歌舞伎座に出掛けられるのが昨日だけだったので駄目元で虎視眈々とチケットweb松竹のサイトを覗いていたら2日程前の深夜に突然戻り券が出たらしく、花道外ですが12列●番という悪くない席が手に入りました。
昨夜は勧進帳の2回目。安倍総理がSP引き連れて来てましたが、白鸚が自慢げに口上で来ていただいてと披露しちゃったのでその後の幕間は写真と握手責めで大変そうでした。幸四郎が長足の進歩でビックリでした。
友人のAさんは初日を観ているので、幸四郎の弁慶の成長ぶりに驚いたとのこと。あの吉右衛門の富樫を相手役に得て、日々成長していけないなら歌舞伎役者としては嘘でしょう。それほど吉右衛門は素晴らしかった。一体何が良かったのか自分なりに整理してみようと思い立ちました。
頼朝と義経。兄弟でありながら頼朝に疎まれ、義経は陸奥へ弁慶らを引き連れ山伏に変装して逃げる最中に富樫が守る安宅の関に到着。さて、どのような展開になるのか。毎年、配役を替えながら上演され続けている歌舞伎屈指の名狂言。物語の展開が変わるはずもなく、誰がどの役をどのように演じるかが興味の対象となる。でも、新幸四郎の弁慶は、白鸚、吉右衛門という立役の頂点に君臨する役者に富樫をつきあってもらえるので幸運の反面、どちらも生半可な演技では吹き飛ばされてしまうことだろう。
『勧進帳』を観るたびに「さても 頼朝、義経 おん仲不和と、ならせ給ふに、より、判官殿主従、作り山伏となり、奥秀衡を頼み、下向ある由、 鎌倉殿、きこしめし及ばれ、 国々へ、かく新関を、立てられ、厳しく、詮議せよとの、厳命によって、それがし、この関を、うけたまわる」の台詞を聞くたびに、白鸚と吉右衛門兄弟が不仲だということを思い出してしまう。そう二人は芸の上ではライバル同士。人気では染五郎時代から白鸚が先行した。ミュージカルでも現代劇でも代表作がいくつもある。吉右衛門は、映像の世界での活躍もあって知名度では負けてはいない。そして吉右衛門は兄をも凌ぐ名優になった。このとおろ何を演じても素晴らしい、記憶に残る舞台をいくつも演じている。
さて、今回の富樫。鎌倉にいる頼朝の命令を第一に考え、冷徹な仕事ぶりであることを「なおも、山伏来たりなば、はかりごとをもって、虜となし、 鎌倉殿の御心を、安んじ、申すべし」の台詞で見事に表現した。不機嫌なのかと思うくらい、吉右衛門が頼朝と一体化したように思えた瞬間もあった。上手に座っているだけなのに、そんな愚直なまでの富樫の「気」が満ちたような本舞台。一方の弁慶一行を観ていると、ひょとしたら関を通ることができないかもと不安な気持ちがわいてきた。もちろん芝居の結末が変わるはずもなく、物語は進んでいくのだが、そんな不安を抱かせるほど吉右衛門の富樫を巨大な壁となって幸四郎の弁慶の前に立ちはだかっていた。
何の遠慮もなく。主役の弁慶が同じクラスの役者なら、少しは手加減するのかもしれないが、情け容赦なく向かってくるのだから、幸四郎はたまったものではない。それでも、弁慶として二重の意味で最大の敵に挑んみ、目に見える成果があがっているというのだから、これほどの襲名へお祝いはないのではないだろうか。
「勧進帳の読み上げ」、「山伏問答」は観客の注意をすべて言葉に向かわせたこと、そしてその意味を考えさせたことが吉右衛門の芸の力だと思った。観客の誰一人として集中力を切らさずに舞台での出来事を見守っていたと思う。だから、安易に拍手などできる雰囲気ではなくなっていた。尾上梅幸の著書に『拍手は幕が下りてから』というのがある。
六代目菊五郎は、梅幸に「途中でお客様の手を叩かすな。幕が下りて”ああ、よかった”とハーッとため息が出るような芸を心掛けよ」と言っていたという。途中で手を叩かれると役を忘れて自分が表面に出てしまう。お客様を最後の最後まで引っ張っておいて、幕が下りた瞬間に割れんばかりの拍手が起こるのが理想。スタンドプレー的な、媚びた芸をすると、その瞬間は、拍手してくださるが、後に、印象に残らない。
吉右衛門の富樫はまさにこれだった。だから、富樫の「気」が残っている舞台では、花道に弁慶がかかっても拍手が起きなかった。最初はイヤホンガイドで拍手はしないものですと解説しているのかと思った。『勧進帳』では珍しいことである。弁慶の飛び六方にあわせて手拍子などという珍現象も起こるわけがなく、近頃の歌舞伎座では最もよい観劇環境だったといってよい。
それは、何よりも吉右衛門の覚悟の賜物なのだと思う。高齢になって身体が10年前のように自由にならない。1回1回の舞台の疲労度も以前より増していることだろう。それでも、70年近い役者人生でようやく掴みかけた歌舞伎の神髄を次世代の役者と観客に伝えなければならないという強い使命感を感じて舞台に立っているのだと思う。亡くなった父親である初代白鸚がそうだったし、歌右衛門、十七代目の勘三郎もそうだった。そうした大先輩の役者の背中を見てきた吉右衛門も、そうあるべきと思っているに違いないのである。
40年前、初めて歌舞伎座で歌舞伎を観た日。仮名手本忠臣蔵の『九段目』が出た。空前絶後の配役で、歌右衛門、当時の幸四郎、勘三郎、芝翫、雀右衛門、延若らが出演した。何しろ初めての歌舞伎である。舞台で起きていることの半分も理解できなかったけれど、歌右衛門はすごい役者だということだけはわかった。玉三郎のように、若くもなく、美しくもない歌右衛門にどうして心惹かれたのか、その答えを見つけるために40年間歌舞伎を観てきたような気がする。
その答えは、いまだに見つからない。役者も観客も40年、50年の年月を経なければ何もわからないということだけはわかった。吉右衛門が覚悟と使命感を持って演じるならば、観客も覚悟と使命感を持つべきではないだろうか。そして演劇評論家のお歴々。役者の名前を変えれば誰にでも通用するような批評を書くな。借り物ではない自分の言葉で語れ。観客も評論家の受け売りのような使い古されたような言葉で語るな。自分で考えて、自分の言葉で語ろう。最近の吉右衛門を観て思う。同時代の誰もが到達したことのない境地に吉右衛門はいる。見逃すな。心に刻め。そうした思いにかられる。観客の心を動かないでおかない役者なのだ。