詩はここにある(櫻井洋司の観劇日記)

日々、観た舞台の感想。ときにはエッセイなども。

七月大歌舞伎 夜の部 『源氏物語』2018年7月7日・14日

2018-07-09 10:21:18 | 日記
2000年5月、歌舞伎座の團菊祭では市川新之助(海老蔵)による瀬戸内寂聴訳『源氏物語』が上演された。玉三郎をはじめとして「三之助」として売り出した菊之助、辰之助(松緑)ら考えられる最高の配役で上演されたのである。

翌年には続編となる須磨・明石・京の巻が上演されたにはだが、チケットは全席完売。僅かに発売される当日券や幕見席を求めて早朝から歌舞伎座に長蛇の列ができた。一番の魅力は、当時日本一やんちゃな歌舞伎役者だった新之助の「源氏物語って何すか?」的な自然体な姿勢と天性の美貌と華で、生きている光源氏を観客は観る事が出来たこと。

成田屋にとっては、祖父である十一代目團十郎が戦後に『源氏物語』を上演して大当たりをとったので、大事な演目ではある。しかし、多くの役者を必要とする本格上演は、團十郎襲名ならともかく、なかなか今の海老蔵の立場では実現するのが困難と言わざるを得ない。

海老蔵は、本興行以外にABKAIなど自主公演に積極的である。古典芸能を紹介するという名目で能楽師と共演する舞台を創り上げる中で、さらにバロックオペラのカウンターテナー歌手と共演する『源氏物語』の上演を果たした。何を演じてもチケットは完売するので冒険的な試みができたのだろう。

そして歌舞伎座での上演である。同じ古典芸能とはいえ、能楽師と歌舞伎役者が同じ舞台に立つ例はなかった訳ではないが、一カ月の本興行となると前例がないと思う。表だって言わないにしても、伝統を重んじる世界だけあって、双方ともに相当の反発があった事と想像できる。観客も歓迎する人もいれば、格好の攻撃材料を与えたと言ってもよい。

男性なのに、ソプラノやアルトの音域の声を出すカウンターテナーというバロックオペラに登場する歌手が登場ともなれば、その発想自体についていけない観客も出てくるだろう。

今でこそ、日本人でも『もののけ姫』で有名になった米良美一や、実音でソプラノの声を出すソプラニスタの岡本知高が知られている。古くはヨッヘン・コワルスキー、ジャヌカン・アンサンブルのドミニク・ヴィス。ウィーン国立歌劇場にカウンターテナーとして出演した藤木大地がいるが、クラシックファン、オペラファンの中でも実際の演奏に接した経験がある人は少ないはずである。

能楽や狂言だって、歌舞伎ファンの中に実際に能楽堂なりで観た事のある人は少ないと思う。それを全部知っている、観た事があるという観客は少ないのではないか。今回の『源氏物語』において、歌舞伎座の観客の前に提示してみせた海老蔵をはじめとする関係者に感謝したい。

カウンターテナーは、バロック音楽の生演奏に合わせてバロックオペラのアリアやテナー歌手とともに歌う。歌詞の意味はあまり重要ではなくて、光源氏の内面にある闇を感じさせる音楽選ばれたようで、モンテヴェルディ、パーセル、ヘンデル、ダウラントなどが演奏されたようだが、曲がなんだったのかを知る事などあまり意味がない。

能楽師は、薪能など野外の広い空間で上演することもあるが、能楽堂の狭い空間で舞うという印象がある。それも1回だけの上演に全てをかけているような感覚がある。それが交代制とはいえ毎日上演。スッポンや回り舞台など歌舞伎独自の舞台機構の中でどう表現するのか興味があった。

囃子方の緊迫した音に合わせて、歌舞伎座の大空間をもろともせず能楽の気で支配してみせた。能楽師という方々が表現者としても特異な人々なのだと実感させられた。しかも観客席の空気に微妙に反応する。緊張感のある客席には緊張感を持って、弛緩した空気を持った客席には緩めに演じているように感じられた。数百年生きた古典芸能は強く怖いものだと思った。受け身の観客は、弾き飛ばされてしまう。

華麗なる女性遍歴を繰り返す光源氏という従来のイメージから、父親である桐壺帝に幼くして捨てられ見放された事で心に深い傷を負った光源氏の魂が癒される物語にしたのは、苦肉の策とはいえ成功したと思う。歌舞伎座の上演という事で龍王の宙乗りをプロジェクションマッピングを背景にして加えたのも成功したと思う。

そして上手の黒御簾で演奏されたバロック音楽。開幕前に少し流れるが驚くほど歌舞伎座の空間に似合うのである。指揮は弥勒忠史さん。自らカウンターテナーとして舞台に立つ他、演出や作曲もするマルチな才能の持ち主にしてバロックオペラのスペシャリスト。チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成。

『源氏物語』序幕。歌舞伎、オペラ、能楽の共演で際物かと思いきや本格的な取り組み。プロジェクションマッピングやカウンターテナーの歌唱など仕掛けは盛り沢山。最も感動したのは能楽師が出演した六条御息所の場面。単なる絵巻物芝居が別次元の劇空間に変貌。シンプルなだけに驚いた。

2回目『源氏物語』序幕。今回も能楽師が劇場の空気を一変させた六条御息所の場面に圧倒される。その他バロックオペラ演奏と鼓の合奏など音楽の聞き所も多い。勸玄君の光の君の演技も進歩していて子供の潜在能力に驚かされた。歌舞伎役者は海老蔵以外は腕のふるいどころが少なくて気の毒。生け花は微妙だった。

『源氏物語』二幕目。バロックオペラ歌手、能楽、海老蔵の共演がまさかの化学反応。何故龍王の宙乗りかはよく理解できないのだけれど、それぞれ見所があって面白い。誰も考えつかない破天荒な試みは大成功。勸玄君の登場だけが売りの安直な舞台ではなかった。海老蔵なのに芸術の香気溢れるとは驚いた。

2回目『源氏物語』二幕目。最後は山台の上に竹本、地謡、囃子方が並び海老蔵が隈取りをした龍王で宙乗りの下の花道で能楽師が舞うという画期的な場面が出現。勸玄君が春宮で再び登場。バロックオペラ歌手も客席から歌い上げるなど聴き逃せない。面白く何度でも体験したい世界を創り上げた事に感謝のみ。

『源氏物語』大詰。海老蔵流ダイジェスト版だと思えば凄く楽しめるレベル。最後の総踊りでとんでもなく上手い踊り手がいると思ったら富十郎の愛息の鷹之資だった。立派な成長ぶりを喜ぶ。

2回目『源氏物語』大詰。須磨明石に流され自分を捨てた父親の真の想いに気づく光源氏。傷ついた心が癒されたという感動があった。稀代の色好みの貴公子ではない点に着目した作劇が生きた。歌舞伎としては異色過ぎるけれど海老蔵以外に実現できない舞台だった事と親子共演を源氏で果たした意味は大きい。

光源氏といい、勸玄君といい、鷹之資といい、若くして最愛の親と別れているのかと思うと感慨も一入。

劇団四季 『恋におちたシェイクスピア』自由劇場 2018年7月7日

2018-07-07 22:40:59 | 日記
浜松町にある劇団四季の自由劇場は、ストレートプレイのために作られた500人収容の小劇場。ストレートプレイのほかに、「ジーザス・クライスト・スーパースター」、「コーラスライン」など比較的小規模なミュージカルや子供の為のミュージカルなどが上演されてきた。決して採算が取れるスペースではないと思うが、新劇からスタートした劇団の矜持を失わないという心意気があったから維持してきたのだろう。

劇団から、浅利慶太が追放?されて、もうストレートプレイも上演される作品が限られてしまった。ミュージカルが主力商品なので、ストレートプレイに出演する機会のない役者も多いことだろう。三島由紀夫の『鹿鳴館』以来、12年ぶりの新作は20年ほど前の映画『恋におちたシェイクスピア』の舞台版である。確かに観た記憶があるのだが、最後にクセのある少年がジョン・ウエブスターと名乗ったのが記憶に残るくらい。

『ロミオとジュリエット』の初演時のバックステージもので、演劇好きな上流階級の娘 ヴァイオラ!とシェイクスピアの恋物語。『十二夜』の誕生秘話なども絡ませて知的な好奇心を刺激してくれる作品。シェイクスピア作品をいくらかでも知っていないと面白さは半減。

『恋におちたシェイクスピア』第1幕。12年ぶりの新作ストレートプレイ。上演が途絶えていた訳ではないが役者には荷が重かったか。エリザベス朝の劇場を模したシンプルな舞台装置。台詞だけではイメージが広がっていかない舞台だった。経験豊富な芝居屋浅利慶太の存在は劇団に必要だったのだと改めて思い知る。台詞が明瞭だけでは作品の良さは伝わらって聞いてない。ここで踊り歌い出せばと思う瞬間が何度も訪れた。俳優とはいえ専門分野が一番なのかも。

『恋におちたシェイクスピア』第2幕。カーテンコールを含め予定通り16時に終演。何とも行儀が良い舞台という印象。「ロミオとジュリエット」や「十二夜」をうまく取り入れた物語は秀逸。役者は生真面目で破綻がないので四季らしいけれど、もっと羽目を外した方が面白くなるだろうと思う。役者全員姿勢は良く美しいのが、選ばれた人々なのだけれど個性に乏しいとも感じる。


【今さらだけど】大江戸りびんぐでっど ネタバレ大会 総集編

2018-07-02 21:10:41 | 日記
初日にグダグダだった歌舞伎座の『大江戸りびんぐでっど』…。さすがに百戦錬磨の歌舞伎役者揃いだけあって、どんな酷い本であっても、それなるに見せてしまう技術があるらしく、公演も後半となると多少は観られる芝居に進化したように思う。やはり初日は公開有料舞台稽古だったようだ。あえて、この芝居のテーマらしいものを探してみると、平凡な日常に慣れきってしまって、文字通り「生きる屍」となってしまっている人間に対し、自己批判を求めているといったところだろうか。

 「生ける屍」=ゾンビは、実は観客なのかもしれないとも思った。問題意識を持って観ないと、この芝居は単なる悪ふざけのレベルである。賛辞を寄せるにせよ、不満を表明するにせよ、最も問題なのは何も感じないことである。それは現代日本の色々な場面に現れているのだが、最も身近な例では歌舞伎座の客席ではないだろうか。きっとクドカンは、高い入場料を払いながら、寝てしまう数多の観客の姿を驚きをもって眺めたに違いない。お隣に座ったお嬢様は、それこそ椅子の背もたれに頭をつけ、天井を向いて口をあけ堂々と寝ていた。しかも全部の演目で、ここぞと思う場面で寝ているのだからがっかりである。う~ん、歌舞伎座の客席は、まさしくゾンビだらけなのかも…。

 さて、宮藤官九郎と勘三郎の顔合わせということで敬遠された方や途中退席された方、最後まで見たけれど何がなんだか…という方のために「大ネタバレ大会」です。まだ、ご覧になっていない方は、くれぐれもお読みになりませんように。

 
オープニング 芝の浜

主な配役

半助 くさや兄…染五郎
くさや弟…亀蔵
くさや売りの娘 お葉・・・七之助

 定式幕が引かれ、柝の音、浪音など純歌舞伎様式での幕開きかと思ったら、スピーカーから三味線と笛の新曲?が流れてきた。くさや売りのお葉は懸命に新島名物くさやを売るものの、くさすぎて相手にされない。下手にはくさや汁の入ったツボ。上手には網に干された?くさやの干物。何故か等身大の着ぐるみで染五郎と亀蔵。言葉遊びの小ネタ満載。

「さむいよ」「くさいよ」
「ていうかくさすぎ」
「私、きれい」
「もう少し評価されても」
「くさや! そんな屋号ないし」
などなど、瞬間的には面白いのだが、歌舞伎座から出て5分歩くと忘れるレベルのものばかり。

くさや汁は、お葉の死んだ亭主の形見ということがわかる。

亀蔵のくさや弟は「泣いてなんかいないやい」と、くさやの半身から、イルカに変身。「もう少し生きてみたくなった」とかなんとか捨て台詞で海に飛び込みイルカの遠見のジャンプなど。

染五郎のくさや兄は、カメレオンに変身。ここでも、すぐに忘れてしまう言葉遊びがいろいろ。

「はで始まる男」「「半助」「呼び捨てか」

「南国の爬虫類にのって追ってきました」「ゲッ、まじで」とか・・・。

実はくさや兄は、お葉に片思いしていたくさや職人の半助だったことが判明。一方的な片思いらしく、お葉はうんざりの態。なぜ半助がくさやになったり、カメレオンになれるのかは、後半のドンデン返しの伏線?だったのかもしれない。そのこと自体、あまり意味がないので、ここは目くじら立てずにスルーするのが正解。かくして舞台は回って・・・。

たぶん、この場面に作者は一番力を入れて演出したのではないかと思う。近頃、怪談を上演すると必ず劇場内が爆笑に包まれるのだが、今回はゾンビの初登場場面で場内が悲鳴というか驚きの声が上がった。ここは成功だったし効果的。ここだけは誉めてあげたい。それだけというのが辛いが…。

 問題なのはそれ以降である。歌舞伎の語法といえば、どんなに陰惨な殺人場面でも洗練があることである。生理的に生々しい場面は御法度である。それは男女の性愛についても同様。そのものズバリの表現は絶対になしである。そして今回のゾンビ達の造型は、いくらなんでも凝りすぎである。役者魂が高じて勘太郎のように、ゾンビになってから、金色?のコンタクトレンズを入れてゾンビになりきるくらいならいいのだけれど…。

 映画のゾンビものなら観ないという選択肢もあるが、舞台は観るまでは何がでてくるか判らないのである。ゾンビファン?である亀蔵の与兵衛の頭部は脳みそが露出。ある者は目玉が時計の振り子のようにブランブラン。アゴが溶けていたり…。ゾンビと「マイケル・ジャクソンのスリラー」は違うというかもしれないが、映画「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」に登場したモンスター達には自己規制があって、洗練があった。だからダンスも美しい。それを完全にパクッた今回の「大江戸りびんぐでっど音頭」やら「はけん節」はゲテ物以外の何ものでもない。

 ある場面では、ゾンビの額を金槌で打ち、血がドクドク。もう生理的に血が嫌いなので受け入れがたい。別の場面では赤い布を使っていたりするのに、何故ここだけ?後の場面では内臓もでてくるし…。生理用品やトイレ洗剤のテレビCMでは、当たり前のようにそのものズバリをださずに、食事時でも視聴可能なように洗練があり、配慮がある。今回のゾンビの造型は生理用品やトイレ洗剤以下だった。

 さらにゾンビ達の演技も問題である。あまりに身体障害者や精神薄弱者への配慮を欠いていて不愉快な思いを何度もさせられた。これが普通にスルー出来る人の精神構造って、どこかのブログ市長と変わらない。

一場 品川の遊郭「相模屋」

主な配役

剣客四十郎…三津五郎
女郎 お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
遣手 お菊…萬次郎
女郎 喜瀬川…福助

 二入がくさや汁をもって花道へいく前場から続いて舞台転換。基本的には花道で演技している間に場面が変わっていくという形式が続く。品川の遊郭「相模屋」の賑やかな場面の描写があって、勘太郎の扮する大工の辰のいる部屋に変わる。4年に一度の廓遊びということで張り切っているらしく、左手だけの腕立て伏せ状態で、自分の尻を打っているという、好感度?がどんどん下がっていく珍妙な演技。

 そこへ元カクスコの井之上隆志が演じる佐平次が登場。次々に相方を変える辰との会話。
「どうも決め手にかけるんだよね」
「チェンジ。チェンジで丑みつどき」

「お染(扇雀)はおふくろと同い年」 ←野崎村を上演しているときに何故お染?

佐平次「めんどくせいな、あんた」
辰 こけしを手にして「うぃ~ん」
佐平次「好感度さがったし」

 早くしないとらくだ衆がでてくりぞと辰を脅す?佐平次。らくだ衆の説明で辰の恐怖を盛り上げる。背後の障子にシルエット。歌舞伎ではお馴染み?の場面で、お染がネコをくわえてでてくる。お染は屈伸運動?

お染「チェンジですね」

 辰はらくだ衆の恐怖でお染で妥協するが、もちろん、これはお染と佐平次との計略であることが判明。
ここからはお染と辰の濡れ場?なのだが、あまりにナマナマしい騎乗位の体位を披露。扇雀の女形生命が危ぶまれるほど下品すぎ…。夜の部の「引窓」では女房お早を演じているのだが、前身が遊女だったという設定なので、どうしても、この痴態が浮かんでしまって困ったくらい。

「あっは~ん」
「熱いわ」
「年増をなめんなよ。年増の性欲なめんなよ」などと絶叫。

 そこへうめき声。背後の障子にゾンビ達の手が一斉に出て場内に悲鳴が…。ソンビ登場し、逃げまどう辰とお染、舞台が回って「相模屋」の玄関へ。そこで踊られる「大江戸りびんぐでっど音頭」なる総踊り。スピーカーよりショボイ音で流れ、振付も盆踊り並みのゆるさで脱力。

 そこへ福助の喜瀬川が登場。お染がらくだ衆=ゾンビに捕まり噛みつかれ、お染自身もらくだ衆になってしまう。らくだ衆は生きた人間を食らい、喰われた人間はらくだ衆になるというのが説明される。御札がらくだ衆の額に張られるが、らくだ衆はそれを食べてしまう。そこへ橘太郎が扮する陰陽師が登場。祈祷めいたことをするが、全く効かずにらくだ衆の一人に指を舐められて、あっという間にらくだ衆に。さらに何故か歌舞伎の押し戻しの扮装をした歌舞伎役者が青竹を持って花道から登場。これもアッという間にらくだ衆に捕まって、こちらは手足がバラバラにされてしまう。

 「先生」と呼ばれて三津五郎扮する剣客四十郎が登場。
「とぅーす!」(原典はオードリーの春日?)

ここで喜瀬川を意識して都々逸「三千世界の鴉を殺し 主と添寝がしてみたい」を披露。
四十郎は首をずっと傾げているが、この角度が一番いいとかなんとか。

らくだ衆を全員あっという間に切り捨てるが再び起きあがるらくだ衆たち。
そのくり返し。
「先生、今日はちょっと疲れているから」と弱気な発言。
起き始めたらくだ衆がふり返るとガバッと死んだふりをする。出来の悪いコントみたい。
結局、四十郎もゾンビに仲間入りで片腕をもがれる。
「丹下左膳みたい。腕が違うけどね」といったような台詞があり。

生きる屍は、金槌で眉間を打つしばらくは大人しくなるのが判明して、次の南町奉行所の場面へ。

さて舞台は、ここからが観客の神経を逆撫でする様々な差別意識が見え隠れしている場面の連続。たぶん作者は、受ければいいとか、笑いがとれればいいとか、とっても安易な気持で筆をすすめたと思うのだが、無意識なだけに余計に罪は重いと思う。

二場の1 南町奉行所二場の2 新島・くさや小屋(回想)二場の3 南町奉行所二場の4 街道

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
根岸肥前守鎮衛…彌十郎
辰の女房 お静…芝のぶ
町娘…小山三
佐平次…井之上隆志
与兵衛…亀蔵
大工の辰…勘太郎
お菊…萬次郎
四十郎…三津五郎
新吉…勘三郎

 舞台は回って南町奉行所の場。背後の大きな襖が動いて多場面を構成。ここではゾンビが誕生した理由が述べられる。いわく「ゾンビ」とは、あまりの臭さに鼻の存続が危ぶまれるから「存鼻」=ゾンビなのだとか…。
彌十郎は「ああ、いいよ。楽にして」が口癖のC調な南町奉行。ゾンビの反省のポーズに「そんなもの猿でもできる」に答えて「かわいいかも」とか…妙に軽い。ゾンビに喰われそうになって「めちゃめちゃ、びっくりした」とか。

 ゾンビの説明で、水桶に入った水を柄杓でゾンビの手にかけ指文字で「水」「水」とやり、ゾンビが「うぉ~」じゃなかった「み、ず」と答える場面。これはウイリアム・ギブソン作の「奇跡の人」の最も感動的なヘレン・ケラーが物には全て名前があるということを理解する有名な場面である。初日は多くの人が理解できなかったからか、二度目に観たときには「奇跡、奇跡の人だ」と染五郎がフォロー。三重苦を克服した偉人であるヘレン・ケラーとサリバン先生の有名な場面をパロディにもならないような程度の低いコントへのパクリで、しかもほとんど笑いがとれない最悪の結果。さらにゾンビ=障害者というイメージだけを植え付けた最も不愉快な場面となる。

 ゾンビがこの世に出現した原因は「くさや汁」にあるという珍妙な説を説明するために再現ドラマが挿入される。

「ばりばり女房っす」とか「現金書留です」とか「どうかオメコ、オメコぼしを」とか、全然笑えないギャグで脱力させられた。結局、半助が新吉を殺したのだが、死んだはずの新吉はくさや汁を浴びてゾンビ第一号として蘇る。すなわち「くさや汁が死んだ人間を蘇らせたという訳である。

 ゾンビは生きた人間しか食べないし、食べられた人間はゾンビになるので、どんどんゾンビが増えていくのである。新島はゾンビだらけになるが、船で逃げる途中に、飼い犬のコロに噛まれた与兵衛はゾンビになってしまう。

 ゾンビ=死にぞこないの図式が成立。生命についての定義らしき青臭い台詞あり。

奉行とゾンビは心を通わせ?E.Tのように指と指をくっつけるギャグあり。「これいいかも」
火あぶりにされかかったゾンビ達だが、結局は死人の人材派遣が決定。ゾンビ=らくだ衆=ハケンと呼ぶことに。

いくらなんでも、死にぞこない=ゾンビ=らくだ衆=派遣社員という図式の成立は不穏当である。そこに何の痛みも感じないでスルーできたとしたら、社会的弱者に対する思いやりに欠け、作者や役者同様に、精神構造に大いに問題ありである。少なくとも、非常に不愉快に感じた人がいたことは忘れない方がよい。

 駱駝の馬太郎、手斧目の半次、紙屑屋 久六という歌舞伎の「らくだ」でお馴染みの面々が何故か死人にカンカンノウを踊らせにくるが、あえなくゾンビの餌食に…。勘太郎がマイケル・ジャクソンの真似をして踊る。なかなかファンキーな感じがでていて良いのだが、完全に浮いていて滑ったギャクだった。女郎買いが、4年に一度の自分へのご褒美だとかなんとか。

 新吉の勘三郎が「情けねえ」と花道へ進む。そこへ町娘に扮した89歳の小山三が登場。「わたし恐いわ。わたし、まだ死にたくないわ」勘三郎「お前の方がこわいよ」と軽く笑わせて消える。


さて、ここまでのおさらい。新島の「くさやうり」のお葉は、江戸の芝の浜でくさやを売っている。お葉の亭主・新吉が何者にかに殺されてしまったからである。同じ職人仲間だった半助(何をやっても中途半端で半人前の職人だったらしい)が新島からお葉を追ってやってきて、一緒になろうと誘うが、お葉は拒絶する。

 大工の辰が四年に一度遊ぼうと品川の遊郭にあがると、そこへ「ぞんび」が出現。「ぞんび」は「らくだ衆」とも呼ばれ、「ぞんび」は生きている人間を喰らう。喰われた人間は「ぞんび」として蘇る。おかげで、江戸には「ぞんび」がどんどん増えていく。

 「ぞんび」は「くさや汁」を死人にかけたことで出現したことを半助が語る。どうやら、殺された新吉がくさや汁を浴びたことで最初に蘇ったらしい。「ぞんび」は殺しても死なないが、額が弱点で金槌でなぐると大人しくなったり、人間が「くさや汁」を身体に塗ると、その臭いから同じ仲間だと思って襲わない。

 「ぞんび」達は火焙りになりかけるが、半助は「ぞんび」を「はけん」と名づけ、南町奉行公認の人材派遣業を始めることになる。

 とここまでが、これまでの筋書。この程度なら別に問題ないと思うかもしれないが、歌舞伎の舞台としては生々しすぎる表現と、下品さが舞台を支配して不愉快極まりない。特に「ぞんび」の造型と、言語や動きなど障害者を侮辱するような演技の数々に配慮がなさすぎる。それなのに「大江戸りびんぐでっど音頭」を踊るときには、全員元気いっぱいで普通に踊る神経って…。理解できない。あれに何か意味ある?理解したくもないけれど。

 何が不愉快かって、舞台なので本物のくさやの臭いはしないけれど、「ぞんび」はくさや汁から生まれたので強烈な臭いがしているはずである。「ぞんび」=「はけん」=「臭い」っていう構図に何度も嫌悪感が走った。「臭い、臭い」と言われるたびに、さまざまな感情が浮かんできた。これに鈍感でいられる人は、ある意味、幸福なのかもしれない。

 三場 深川はけん長屋「はけん問屋」 

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
石坂段右衛門…橋之助
女郎 喜瀬川…福助
四十郎…三津五郎

 半助とお葉は所帯を持って「ぞんび」の人材派遣を営み大繁盛である。危険な作業もいとわないし、口数も少なくもくもくと働くので重宝されている。永代橋の架け替えにも「はけん」が使われている模様である。そこへ女郎・喜瀬川がくる。実は心中して海に飛びこんだのだが、昔は海女をしていた喜瀬川は溺れなかったのである。

打ち掛けには、採取した海産物が…・サザエを渡し「サザエでございま~す」

 お染に土左衛門の代役を頼みに来たのである。

「替わってくれって、遅番、早番じゃないんだから」と言いながらも、お染は頭から水をかぶって、代役に派遣されていく。

 そこへ橋之助演じる武士・石坂段右衛門が鶴松の若様を連れてくる。敵討ちの助太刀を頼みにきたのである。ここで、若様は小便を漏らす。歌舞伎座の舞台を仕掛けとはいえ、小便で濡らしてしまうのは…。これって趣味の問題?理解不能である。実は四十郎が敵なのだが、それは明らかにならないまま、三人は去る。まるまるカットでいいような話なのだが、半助とお葉を二人きりにさせるためのエピソードだとわかる。くだらない。

 ここから、半助とお葉のラブ・シーン?島へ帰りたくないと語る半助。島では怠惰な生活で「生きる屍」同然だったと…。これが後半の伏線?らしい。お葉は、「来る日も来る日もあかぎれつくって…」なんて殊勝なことを言いつつも、「島に帰るならお土産が、私、子供が欲しいの」「帰るときは三人で」とか、甘い場面になるはずなのだが、全然雰囲気がでていない。この作者は女を描くのが苦手のようである。

さて、ここからは初日には滑りまくりで、何コレ?状態だった場面。二度目観たときには可笑しくはないけれど、なんとか崩壊を免れていたように思う。途中から稽古に参加だったらしいが、獅童の強烈な個性も活かされずに無残な結果に…。オペラの新演出でも、どこかにひとつは落とし穴になってしまう場面が発生するものだが、今回は、ここだったようである。俳優祭でもないのに、コント以下の芝居で、沈黙の客席となった初日の光景は、歌舞伎座さよなら公演の中でも、長く語り継がれることになるだろうと思う。

四場の1 杢蓮寺のお堂
四場の2 新島・くさや小屋の中(回想)
四場の3 杢蓮寺のお堂

主な配役

半助…染五郎
お葉…七之助
中海和尚実は死神…
与兵衛…亀蔵
お染…扇雀
新吉…勘三郎

死にそうな人間がいるということで、ソンビ達は杢蓮寺のお堂に大集合。獅童が扮する中海和尚が蓆がかけられた瀕死の病人?の前にいる。

「ハゲはいいすぎだろう」
「バッテラか!」

とか妙にテンションの高い獅童なのだが、ギャグがすべて滑ってしまって客席が凍りつく。和尚が実は死神ということで骨が描かれた全身前タイツ姿に変身。

「死神よ~ん」
背中に書かれた文字で「シ・ニ・ガ・ミ」
「すわるぞ、この野郎」

たぶんヤンキー・ネタなんだろうが、全て滑りまくって客席はドン引き。死神が死にかけている病人の頭の方に座ると死に、足元にすわると生き返るというので、ゾンビ達は布団を動かしたりと軽いネタ。そこへ半助が登場し、ゾンビ達は死神を食べようと追って全員が退場。死にかけていたのは新吉だった。実はゾンビだと思っていた新吉は生きていたのである。

半助は新吉の頭を岩で砕こうとする。

新島の殺人シーンを再現ドラマ風に

くさや汁を持ち出す半助。ストロボで新島の殺人場面を再現。

半助「新吉を殺したのは俺だ」とお葉に告白。
お葉「知っていました。知っていて一緒になったんです」
半助「許してくれるかい」
お葉「生きていくには、忘れるしかないじゃありませんか」

ところが、死んだと思っていた新吉が傷が浅くて実は生きていて、半助は滑って頭を打ち死んだといことが判明。そこへ、くさや汁を浴びて「ぞんび」に最初に半助がなったのである。確かに半助には子供ができない。新吉は半助を噛むが何も変化が起こらない。半助は死んでいるのを忘れていたのだとか…。新吉は切腹し、内臓が腹から飛び出す。半助はそれをむさぼり喰らう。「うめえ~っ」

 死んだと思っていた人が実は生きていて、生きていると思っている人間が、実は死んでいたなど、どこかで観たようなアイディアだが、死んだ人間がなぜくさや汁で生き返るのか、あるいはくさや汁で生まれ変わるのはでまかせなのか、なんだか判ったような判らないような…。これから勘三郎が、勘平を演じるようなことがあれば、必ず内蔵を引きだして果てる場面を思い出してしまいそうである。

ここで幕が振り落とされ、次の「富岡八幡宮」の場となる。

なんとかたどり着いた大詰?ここも初日はグダグダで、何がなんだがわからない幕切れになってしまって大失敗だったように思う。二度目に観たときには、一応、筋を通した感じになって、観客に何も考えさせないようにしようという策略なのか、ぞんび達の総踊りになって、上手、下手、中央にご挨拶という、宝塚形式?の簡略なカーテンコールに突入して幕という、さらに締まらない終わり方。本当にこれでいいの?強烈な毒が消え去って、クドカンも結局は歌舞伎に屈した形となった。歌舞伎チャンネルに収録していたから?いくらなんでも甘過ぎで、困難な運命を背負ったはずの半助と七之助の結末が、「よかった、よかった。めでたし、めでたしって…」

 さて、最も信頼する友人からメールが届いた。

クドカンは映画でもなんでも毎度てんこ盛りが流儀の様ですが
得意の人情話と笑いに絞って攻めてくれればいいものを変に「時代」というか
時事ネタを取り入れようとして張り切りすぎの失敗作という気がします。
才能のある人なのでもっと年を取ってからでもまた別のアプローチで?
歌舞伎に挑戦してほしいと思いました。

 なるほど大人の反応である。世間様の評価はこういうものなのかもしれない。
「クドカンは二度と歌舞伎座に来るな!すっこんでいろ、このボケッ!」


五場の1 富岡八幡宮
五場の2 永代橋のたもと

主な配役
半助…染五郎
お葉…七之助
お染…扇雀
大工の辰…勘太郎
与兵衛…亀蔵
佐平次…井之上隆志
お静…芝のぶ
お菊…萬次郎
喜瀬川…福助
四十郎後に渡辺小兵衛…三津五郎

 幕前での芝居がつづいて、幕の背後では舞台転換の気配。ゾンビの派遣の活躍で大工の辰は職を失ってあれぎみ。永代橋の工事もゾンビ達が請け負ったようである。夫を弁護するために、芝のぶは女形にあるまじき胴間声で、福助に食ってかかるなど、ある意味面白く、驚きの演技があって、当方の頭は真っ白に…。

 そこへ永代橋が落ちたという知らせがあって、幕が飛ぶと上手と下手に永代橋があって、真ん中が落ちている態。橋の上には人が右往左往している中にゾンビ達も。とうとう大工の辰もゾンビの仲間入り。橋のこちらには半助、あちら側にはお葉。後ろから押されて人々はどんどん川に落ちていく。

 半助はお葉を助けるために、川に落ちた人間をゾンビ達に襲わせ、川中をゾンビだらけにする。そして戸板にお葉をのせ、上手から下手へゾンビの頭の上を伝わせて下手の半助のもとへ。とんだ「因幡の白ウサギ」で、下手に到着する前にお葉もゾンビになるオチかと思ったら…。「だまされた!」と怒るゾンビ達。

 結局、ゾンビの半助と人間のお葉は固く結ばれるのでした…。主要な登場人物がすべてゾンビになってしまったなか、半助も新吉もゾンビなのに、何故にお葉は人間でいられるのか?そもそも最愛の人を殺したはずの半助を愛せるのか?この結末の意味は?謎だらけで初日の幕は閉じたが、歌舞伎チャンネルの収録日には、のんきにゾンビ達の総踊りになって、笑顔でご挨拶って…。初日との落差に椅子からずり落ちそうになった。やっぱり、初日は公開有料舞台稽古だったらしい。

初日雑感

『大江戸りびんぐでっど』は、筋書で作者が「ど-うもすいません」とあやまっている通りなので、「ごらっ~」ともいえない感じ。前半は笑いのツボにはまって大笑いしていたのだが、なぜか周囲の高齢の観客はついてこれないようだった。勘太郎のマイケル・ジャクソンの踊りはファンキーな感じがあってよかったのに…。確かに「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」を観にいってないお客には受けるはずがない。27日の最終日に日本中の映画館で深夜まで盛り上がっていたことなど知らない人たちなのだ。クドカンらしい、小ネタ、ゆるさ、下品さ、飛躍が満載なのだが、多くの観客は置いていかれてしまった感じ。

 世話物ならぬゾンビ物とはいうものの、ゾンビ映画を観たことがない観客が大半では辛い。マイケル・ジャクソンのスリラー風の群舞?も振付・音楽ともにゆるすぎて…。前半は飛ばして、後半失速はクドカンの芸風なのかぁ?「ゾンビ=はけん」という危険なメタファーで地雷を踏みそうになったのに、巧みによける弱腰ぶり。ストーリーはあってもドラマはないという典型的な芝居になっていたというか、公開舞台稽古だったというか完成度は超低空飛行だった。終演が16時17分予定だったが、16時30分頃になってしまってカーテンコールはなし。アレでは当然だが…。今夜も徹夜で稽古かも。千秋楽には全く別の芝居になっていたりして…。

劇評

さて問題作の宮藤官九郎の『大江戸りびんぐでっど』については、筋書に「あらすじ」が書かれていないのでネタバレは避け、後日に書くことにしたい。筋書では「ぞんび物」と作者が語っているように、蘇った死者、なかなか死なない死者、いわゆるゾンビが数多く登場する。

 七之助演じるくさや屋のお葉と、お葉に片思いしていた染五郎のくさや職人半助の恋愛を縦糸に、生きる屍のそんび=らくだ衆=はけん衆を横糸に物語は進んでいく。幕開きから奇想天外ともいえる物語の展開に、完全に置き去りにされてしまった観客が多数発生した模様である。出来の悪いコントのような場面の連続で、ソンビが集団で踊るという既視感、悪く言えば「マイケル・ジャクソンのスリラー」のパクリの場面があって、観客を脱力させる。もう悪夢のような冴えないギャグの連続で苦笑するしかないのが辛いというか笑えるというか。芝居が進むに従って客席が凍りついていったようだった。何しろほとんどのギャグが理解できなかったとしたら、2時間近くの上演時間は拷問でしかないだろう。

 ひとつネタバレになるが、ある外国の芝居の有名な場面をもじったギャグがある。原点の芝居が、今はポピュラーとは言い難く、全然通じていなかったのが作者としてはショックだったのではないだろうか。もっとも元の芝居の主人公が、障害をいくつも背負いながらも、立派な人間として生き、人類に夢と希望を与えた偉人だけに、意味が理解できてしまったら、大きな地雷を踏んだことになって大騒ぎだろうが、多くの観客はスルーしてくれたので、助かった感じである。

 何が観ていて辛いかというと、芝居のため、笑いのためとはいえ、女形にあるまじき演技、その多くは下ネタなのだけれど、歌舞伎座で演じるべきではない演技があって、多くの歌舞伎ファンには受け入れ難い物があったと思う。少なくとも歌舞伎の舞台では、夢をみさてくれるもの、美しいものであふれさせるべきである。そして何よりも人間の美しい心が表現されなければならない。可愛い女方で好感を持っていた芝のぶに、あの演技はないのではないだろうか。

 そんび達の造型もリアルでグロテスクで気持ち悪い。何よりも許せないのは作者の腰の据わり方である。ぞんびとは何か?それは芝居では説明されない存在である。それが何を意味するか観客にゆだねられているような面もあるのだが、作者はその批判精神をどこへ向けようとしているのか明確ではない。むしろ逃げている。その腰の据わっていないのを、低俗な言葉遊びでごまかしているように思えた。

 ぞんび達をある手段によって自由にコントロールできるようになり、彼らを人間に変わる「はけん衆」に仕立て上げ金儲けをするという場面では、あまりに「はけん衆」=派遣社員をおとしめるような場面の連続で不愉快きわまりないものだった。歌舞伎は昔から差別には鈍感なのだが、いくら何でも酷すぎる。この冬も日比谷公園に派遣村が出現するかもしれない時期に、それはないだろうと思った。だから幕切れにかけてもどんでん返しはあるものの、結末がうまくつけられないで、一大スペクタクルも不発に終わってしまった。前半のアナーキーなテンションの高さに比べ、あまりに締まりがなく理解不能な幕切れはなんだったのだろう。夜の部が開けられなくなるので無理矢理幕を閉めたようにしか思えなかった。

 単純に考えてはいけないだろうが、派遣社員として派遣切りにあい、路頭に迷う人々をゾンビになぞらえる劇手法は禁じ手だと思う。ゾンビとは何か?何故、この世に出現することになったのか作者は明解に表現するべきだと思う。少なくとも作者が派遣社員に対して共感しているというよりも、 単なる笑いの道具としか考えていないか、何も考えていないようにしか見えてこないのである。ぞんびの姿を通して社会的弱者ら(身体障害者、精神薄弱者)に対する差別意識を隠そうともしない作者の人間性はいったいなんなのか、あらためて怒りを覚える。

 禁じ手といえば、歌舞伎座であんな下品な場面が出てくるとは想像もしなかった。歌舞伎座の客席は幕間には食事をする場所でもある。クドカンは人の排泄行為を見ながら食事のできる鈍感な人間なのかと呆れ果てた。昨年の『愛陀姫』が一番最低な芝居だと思ったが、『大江戸りびんぐでっど』はそれ以上だった。時間とお金と役者の大浪費である。クドカンの芝居なら、ある程度想像できたことだし、仕方ないのだが、切符が売れれば何をしてもいいと考えているのが松竹という会社なら、『野崎村』の仮花道を省略したのも納得できるし、今の歌舞伎座を取り壊してビルにしてしまうのも理解できる。そんびは派遣なのではなく、松竹という会社なのですというのが作者の主張なのかと深読みもしてみたりした。

追記

 これからご覧になる方におすすめの観劇方法は、これ以上観るに耐えないと思ったら、遠慮なく退場した方がいいでしょう。ストーリーはあってもドラマはありません。それ以降の芝居を見逃しても決して損はしないでしょうし、貴方自身のダメージも少ないと思います。恐いもの見たさと好奇心の強い方は、是非最後までご覧下さい。役者の奮闘ぶりに涙が出そうになります。主役をふられた染五郎が本当に気の毒です。