2000年5月、歌舞伎座の團菊祭では市川新之助(海老蔵)による瀬戸内寂聴訳『源氏物語』が上演された。玉三郎をはじめとして「三之助」として売り出した菊之助、辰之助(松緑)ら考えられる最高の配役で上演されたのである。
翌年には続編となる須磨・明石・京の巻が上演されたにはだが、チケットは全席完売。僅かに発売される当日券や幕見席を求めて早朝から歌舞伎座に長蛇の列ができた。一番の魅力は、当時日本一やんちゃな歌舞伎役者だった新之助の「源氏物語って何すか?」的な自然体な姿勢と天性の美貌と華で、生きている光源氏を観客は観る事が出来たこと。
成田屋にとっては、祖父である十一代目團十郎が戦後に『源氏物語』を上演して大当たりをとったので、大事な演目ではある。しかし、多くの役者を必要とする本格上演は、團十郎襲名ならともかく、なかなか今の海老蔵の立場では実現するのが困難と言わざるを得ない。
海老蔵は、本興行以外にABKAIなど自主公演に積極的である。古典芸能を紹介するという名目で能楽師と共演する舞台を創り上げる中で、さらにバロックオペラのカウンターテナー歌手と共演する『源氏物語』の上演を果たした。何を演じてもチケットは完売するので冒険的な試みができたのだろう。
そして歌舞伎座での上演である。同じ古典芸能とはいえ、能楽師と歌舞伎役者が同じ舞台に立つ例はなかった訳ではないが、一カ月の本興行となると前例がないと思う。表だって言わないにしても、伝統を重んじる世界だけあって、双方ともに相当の反発があった事と想像できる。観客も歓迎する人もいれば、格好の攻撃材料を与えたと言ってもよい。
男性なのに、ソプラノやアルトの音域の声を出すカウンターテナーというバロックオペラに登場する歌手が登場ともなれば、その発想自体についていけない観客も出てくるだろう。
今でこそ、日本人でも『もののけ姫』で有名になった米良美一や、実音でソプラノの声を出すソプラニスタの岡本知高が知られている。古くはヨッヘン・コワルスキー、ジャヌカン・アンサンブルのドミニク・ヴィス。ウィーン国立歌劇場にカウンターテナーとして出演した藤木大地がいるが、クラシックファン、オペラファンの中でも実際の演奏に接した経験がある人は少ないはずである。
能楽や狂言だって、歌舞伎ファンの中に実際に能楽堂なりで観た事のある人は少ないと思う。それを全部知っている、観た事があるという観客は少ないのではないか。今回の『源氏物語』において、歌舞伎座の観客の前に提示してみせた海老蔵をはじめとする関係者に感謝したい。
カウンターテナーは、バロック音楽の生演奏に合わせてバロックオペラのアリアやテナー歌手とともに歌う。歌詞の意味はあまり重要ではなくて、光源氏の内面にある闇を感じさせる音楽選ばれたようで、モンテヴェルディ、パーセル、ヘンデル、ダウラントなどが演奏されたようだが、曲がなんだったのかを知る事などあまり意味がない。
能楽師は、薪能など野外の広い空間で上演することもあるが、能楽堂の狭い空間で舞うという印象がある。それも1回だけの上演に全てをかけているような感覚がある。それが交代制とはいえ毎日上演。スッポンや回り舞台など歌舞伎独自の舞台機構の中でどう表現するのか興味があった。
囃子方の緊迫した音に合わせて、歌舞伎座の大空間をもろともせず能楽の気で支配してみせた。能楽師という方々が表現者としても特異な人々なのだと実感させられた。しかも観客席の空気に微妙に反応する。緊張感のある客席には緊張感を持って、弛緩した空気を持った客席には緩めに演じているように感じられた。数百年生きた古典芸能は強く怖いものだと思った。受け身の観客は、弾き飛ばされてしまう。
華麗なる女性遍歴を繰り返す光源氏という従来のイメージから、父親である桐壺帝に幼くして捨てられ見放された事で心に深い傷を負った光源氏の魂が癒される物語にしたのは、苦肉の策とはいえ成功したと思う。歌舞伎座の上演という事で龍王の宙乗りをプロジェクションマッピングを背景にして加えたのも成功したと思う。
そして上手の黒御簾で演奏されたバロック音楽。開幕前に少し流れるが驚くほど歌舞伎座の空間に似合うのである。指揮は弥勒忠史さん。自らカウンターテナーとして舞台に立つ他、演出や作曲もするマルチな才能の持ち主にしてバロックオペラのスペシャリスト。チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成。
『源氏物語』序幕。歌舞伎、オペラ、能楽の共演で際物かと思いきや本格的な取り組み。プロジェクションマッピングやカウンターテナーの歌唱など仕掛けは盛り沢山。最も感動したのは能楽師が出演した六条御息所の場面。単なる絵巻物芝居が別次元の劇空間に変貌。シンプルなだけに驚いた。
2回目『源氏物語』序幕。今回も能楽師が劇場の空気を一変させた六条御息所の場面に圧倒される。その他バロックオペラ演奏と鼓の合奏など音楽の聞き所も多い。勸玄君の光の君の演技も進歩していて子供の潜在能力に驚かされた。歌舞伎役者は海老蔵以外は腕のふるいどころが少なくて気の毒。生け花は微妙だった。
『源氏物語』二幕目。バロックオペラ歌手、能楽、海老蔵の共演がまさかの化学反応。何故龍王の宙乗りかはよく理解できないのだけれど、それぞれ見所があって面白い。誰も考えつかない破天荒な試みは大成功。勸玄君の登場だけが売りの安直な舞台ではなかった。海老蔵なのに芸術の香気溢れるとは驚いた。
2回目『源氏物語』二幕目。最後は山台の上に竹本、地謡、囃子方が並び海老蔵が隈取りをした龍王で宙乗りの下の花道で能楽師が舞うという画期的な場面が出現。勸玄君が春宮で再び登場。バロックオペラ歌手も客席から歌い上げるなど聴き逃せない。面白く何度でも体験したい世界を創り上げた事に感謝のみ。
『源氏物語』大詰。海老蔵流ダイジェスト版だと思えば凄く楽しめるレベル。最後の総踊りでとんでもなく上手い踊り手がいると思ったら富十郎の愛息の鷹之資だった。立派な成長ぶりを喜ぶ。
2回目『源氏物語』大詰。須磨明石に流され自分を捨てた父親の真の想いに気づく光源氏。傷ついた心が癒されたという感動があった。稀代の色好みの貴公子ではない点に着目した作劇が生きた。歌舞伎としては異色過ぎるけれど海老蔵以外に実現できない舞台だった事と親子共演を源氏で果たした意味は大きい。
光源氏といい、勸玄君といい、鷹之資といい、若くして最愛の親と別れているのかと思うと感慨も一入。
翌年には続編となる須磨・明石・京の巻が上演されたにはだが、チケットは全席完売。僅かに発売される当日券や幕見席を求めて早朝から歌舞伎座に長蛇の列ができた。一番の魅力は、当時日本一やんちゃな歌舞伎役者だった新之助の「源氏物語って何すか?」的な自然体な姿勢と天性の美貌と華で、生きている光源氏を観客は観る事が出来たこと。
成田屋にとっては、祖父である十一代目團十郎が戦後に『源氏物語』を上演して大当たりをとったので、大事な演目ではある。しかし、多くの役者を必要とする本格上演は、團十郎襲名ならともかく、なかなか今の海老蔵の立場では実現するのが困難と言わざるを得ない。
海老蔵は、本興行以外にABKAIなど自主公演に積極的である。古典芸能を紹介するという名目で能楽師と共演する舞台を創り上げる中で、さらにバロックオペラのカウンターテナー歌手と共演する『源氏物語』の上演を果たした。何を演じてもチケットは完売するので冒険的な試みができたのだろう。
そして歌舞伎座での上演である。同じ古典芸能とはいえ、能楽師と歌舞伎役者が同じ舞台に立つ例はなかった訳ではないが、一カ月の本興行となると前例がないと思う。表だって言わないにしても、伝統を重んじる世界だけあって、双方ともに相当の反発があった事と想像できる。観客も歓迎する人もいれば、格好の攻撃材料を与えたと言ってもよい。
男性なのに、ソプラノやアルトの音域の声を出すカウンターテナーというバロックオペラに登場する歌手が登場ともなれば、その発想自体についていけない観客も出てくるだろう。
今でこそ、日本人でも『もののけ姫』で有名になった米良美一や、実音でソプラノの声を出すソプラニスタの岡本知高が知られている。古くはヨッヘン・コワルスキー、ジャヌカン・アンサンブルのドミニク・ヴィス。ウィーン国立歌劇場にカウンターテナーとして出演した藤木大地がいるが、クラシックファン、オペラファンの中でも実際の演奏に接した経験がある人は少ないはずである。
能楽や狂言だって、歌舞伎ファンの中に実際に能楽堂なりで観た事のある人は少ないと思う。それを全部知っている、観た事があるという観客は少ないのではないか。今回の『源氏物語』において、歌舞伎座の観客の前に提示してみせた海老蔵をはじめとする関係者に感謝したい。
カウンターテナーは、バロック音楽の生演奏に合わせてバロックオペラのアリアやテナー歌手とともに歌う。歌詞の意味はあまり重要ではなくて、光源氏の内面にある闇を感じさせる音楽選ばれたようで、モンテヴェルディ、パーセル、ヘンデル、ダウラントなどが演奏されたようだが、曲がなんだったのかを知る事などあまり意味がない。
能楽師は、薪能など野外の広い空間で上演することもあるが、能楽堂の狭い空間で舞うという印象がある。それも1回だけの上演に全てをかけているような感覚がある。それが交代制とはいえ毎日上演。スッポンや回り舞台など歌舞伎独自の舞台機構の中でどう表現するのか興味があった。
囃子方の緊迫した音に合わせて、歌舞伎座の大空間をもろともせず能楽の気で支配してみせた。能楽師という方々が表現者としても特異な人々なのだと実感させられた。しかも観客席の空気に微妙に反応する。緊張感のある客席には緊張感を持って、弛緩した空気を持った客席には緩めに演じているように感じられた。数百年生きた古典芸能は強く怖いものだと思った。受け身の観客は、弾き飛ばされてしまう。
華麗なる女性遍歴を繰り返す光源氏という従来のイメージから、父親である桐壺帝に幼くして捨てられ見放された事で心に深い傷を負った光源氏の魂が癒される物語にしたのは、苦肉の策とはいえ成功したと思う。歌舞伎座の上演という事で龍王の宙乗りをプロジェクションマッピングを背景にして加えたのも成功したと思う。
そして上手の黒御簾で演奏されたバロック音楽。開幕前に少し流れるが驚くほど歌舞伎座の空間に似合うのである。指揮は弥勒忠史さん。自らカウンターテナーとして舞台に立つ他、演出や作曲もするマルチな才能の持ち主にしてバロックオペラのスペシャリスト。チェンバロ、バロック・ヴァイオリン、ヴィオラ・ダ・ガンバ、バロック・チェロ、リコーダーという編成。
『源氏物語』序幕。歌舞伎、オペラ、能楽の共演で際物かと思いきや本格的な取り組み。プロジェクションマッピングやカウンターテナーの歌唱など仕掛けは盛り沢山。最も感動したのは能楽師が出演した六条御息所の場面。単なる絵巻物芝居が別次元の劇空間に変貌。シンプルなだけに驚いた。
2回目『源氏物語』序幕。今回も能楽師が劇場の空気を一変させた六条御息所の場面に圧倒される。その他バロックオペラ演奏と鼓の合奏など音楽の聞き所も多い。勸玄君の光の君の演技も進歩していて子供の潜在能力に驚かされた。歌舞伎役者は海老蔵以外は腕のふるいどころが少なくて気の毒。生け花は微妙だった。
『源氏物語』二幕目。バロックオペラ歌手、能楽、海老蔵の共演がまさかの化学反応。何故龍王の宙乗りかはよく理解できないのだけれど、それぞれ見所があって面白い。誰も考えつかない破天荒な試みは大成功。勸玄君の登場だけが売りの安直な舞台ではなかった。海老蔵なのに芸術の香気溢れるとは驚いた。
2回目『源氏物語』二幕目。最後は山台の上に竹本、地謡、囃子方が並び海老蔵が隈取りをした龍王で宙乗りの下の花道で能楽師が舞うという画期的な場面が出現。勸玄君が春宮で再び登場。バロックオペラ歌手も客席から歌い上げるなど聴き逃せない。面白く何度でも体験したい世界を創り上げた事に感謝のみ。
『源氏物語』大詰。海老蔵流ダイジェスト版だと思えば凄く楽しめるレベル。最後の総踊りでとんでもなく上手い踊り手がいると思ったら富十郎の愛息の鷹之資だった。立派な成長ぶりを喜ぶ。
2回目『源氏物語』大詰。須磨明石に流され自分を捨てた父親の真の想いに気づく光源氏。傷ついた心が癒されたという感動があった。稀代の色好みの貴公子ではない点に着目した作劇が生きた。歌舞伎としては異色過ぎるけれど海老蔵以外に実現できない舞台だった事と親子共演を源氏で果たした意味は大きい。
光源氏といい、勸玄君といい、鷹之資といい、若くして最愛の親と別れているのかと思うと感慨も一入。