2016年10月18日、17日道後温泉の八千代に宿泊し翌日、伊佐爾波神社にお参りしました。道後温泉駅から東側の小高い山の上に鎮座しています。
伊佐爾波神社
説明書より「延喜式内社で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。伊佐爾波(いさにわ)という社名は諸説あるが『古事記』に「建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。是に大后、歸神して・・・」、『日本書紀』に「建内宿禰に命せて琴撫かしめ、中臣烏賊津使主を喚して審神者と為す」とあり、これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。現在の社殿は、松山藩松平第3代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。」
愛媛県松山市桜谷町173
map
正面に鳥居が見えます。
参道の133段の階段
燈籠
説明書
手水鉢
狛犬
境内より
手水舎
楼門(重要文化財)
「江戸中期の寛文7年(1667)に建立、一間一戸楼門、入母屋造、向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」
重要文化財などの説明
廻廊(重要文化財)
「桁行延長五十七間、梁間一間、一重、入母屋造、南門及び北門部 向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」
本殿(重要文化財)
「内陣 桁行九間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺。外陣 桁行九間、梁間二間、向拝三所、一重、流造、檜皮葺。」
申殿及び廊下(重要文化財)
「申殿 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺。」
寶厳寺
「寶厳寺は寺伝によると天智天皇7年(668)斉明天皇の勅願で国司越智守興が創建したという。当初は法相宗であったが、平安時代中期に天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応5年(1292)寺は再建され時宗に改められたとある。時宗の開祖一遍は河野通広の第ニ子として延応元年(1239)に生まれた。幼くして僧門に入り文永11年(1274)時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した佛札の賦算を始めた。弘安2年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所住捨遊行上人と尊崇された。」
山門
一遍上人の誕生地(愛媛県指定記念物・史跡)
圓萬寺
行基の作といわれる大地蔵
伊佐爾波神社
説明書より「延喜式内社で、祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、三柱姫大神である。社伝によると仲哀天皇、神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれたという。伊佐爾波(いさにわ)という社名は諸説あるが『古事記』に「建内宿禰大臣沙庭に居て、神の命を請ひまつりき。是に大后、歸神して・・・」、『日本書紀』に「建内宿禰に命せて琴撫かしめ、中臣烏賊津使主を喚して審神者と為す」とあり、これに神聖、清浄なという意味の「い(斎)」が付いたもので、神功皇后に関わる名称ともされる。当神社は、河野氏が湯築城の鎮守として、今の地に移したといわれ、その後、加藤嘉明が、松山城の固めとして八社八幡を定めたとき、一番社として武運長久の祈願所となったという。現在の社殿は、松山藩松平第3代藩主の定長が、将軍から命じられた流鏑馬を成功させたお礼として建立したもので、その様式は、大分県の宇佐神宮、京都の石清水八幡と並んで日本を代表する八幡造といわれる。」
愛媛県松山市桜谷町173
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正面に鳥居が見えます。
参道の133段の階段
燈籠
説明書
手水鉢
狛犬
境内より
手水舎
楼門(重要文化財)
「江戸中期の寛文7年(1667)に建立、一間一戸楼門、入母屋造、向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」
重要文化財などの説明
廻廊(重要文化財)
「桁行延長五十七間、梁間一間、一重、入母屋造、南門及び北門部 向拝一間、向唐破風造、本瓦葺。」
本殿(重要文化財)
「内陣 桁行九間、梁間二間、一重、切妻造、檜皮葺。外陣 桁行九間、梁間二間、向拝三所、一重、流造、檜皮葺。」
申殿及び廊下(重要文化財)
「申殿 桁行一間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺。」
寶厳寺
「寶厳寺は寺伝によると天智天皇7年(668)斉明天皇の勅願で国司越智守興が創建したという。当初は法相宗であったが、平安時代中期に天台宗に転じたあと時宗が隆盛し、弟子の仙阿がここに住むようになって正応5年(1292)寺は再建され時宗に改められたとある。時宗の開祖一遍は河野通広の第ニ子として延応元年(1239)に生まれた。幼くして僧門に入り文永11年(1274)時宗を開き翌年熊野の地で神勅を受けて「南無阿弥陀佛」と記した佛札の賦算を始めた。弘安2年には信濃国佐久郡で念仏踊りを始めた。その後正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し一所住捨遊行上人と尊崇された。」
山門
一遍上人の誕生地(愛媛県指定記念物・史跡)
圓萬寺
行基の作といわれる大地蔵