旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

春日大社

2016-10-01 17:24:16 | 奈良
2016年9月30日、興福寺の後、食事をしてバスで春日大社に移動です。
三条通です。

外国からの観光客も結構います。



手力雄神社
「春日大社の境外の末社」

奈良県里程元標と高札場の復元



南都銀行本店(登録有形文化財)
三条通りと東向通りの角にあります。
「大正15年(1926)建築、鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建。正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾を施す外観は、古典様式を簡潔にまとめた好例。設計長野宇平治、施工大林組。古都奈良の数少ない様式建築の一つ。」

銀行の南側の三好屋さんで食事をしました。



手書き風のメニューが一杯です。

佐保路定食の茶そばと天ぷらです。930円です。妻は天丼の単品700円でした。

東向通りの商店街



日本聖公会奈良基督教会(登録有形文化財)
幼稚園が併設されているため、開放していませんでした。奈良県の障害者教育発祥の地







近鉄奈良駅前

バス停1番乗り場より春日大社本殿まで210円です。
春日大社
パンフレットより「奈良都が遷された今から1300年程前、平城京鎮護のため、国譲りを達成された最強の武神である武甕槌命を鹿島神宮から神山御蓋山山頂浮雲峰にお迎えし祀ったのが始まりです。武甕槌命は白い鹿に乗って来られたとされ、奈良で鹿が神の使いとして保護されるゆえんとなりました。神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命、枚岡神社から天児屋根命、比売神をお招きしてお祀りし、この四社の神々はもっとも尊崇すべき神々として春日皇大神様とされました。後の時代まで国家鎮護の神として時の天王や貴族、将軍家などから篤い尊崇を受けるとともに、平安時代の終わり頃からは興福寺との一体化が進み、明治に至るまで神仏習合の信仰が続きました。平城京から長岡京に遷都されると、都の守護神として春日皇大神様をお祀りする大原野神社が、また平安京には同じように吉田神社が創建されるなど、全国各地に奉斎された三千社におよぶ春日の御分社、そして平安時代から奉納され続けられている境内の三千基もの燈籠は、春日皇大神様の厚い信仰の広がりを示しています。当社は千古の森の緑の中に、色鮮やかな朱の御殿をはじめ諸社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しい姿でお鎮まりになっています。藤の名所として知られる境内には国宝の本殿、重文の弊殿、着到殿、一之鳥居などが建ち並びます。そして今も昔と変わらず3月13日に行われる大宮の御祭で日本三大勅祭のひとつに数えられる春日祭。そして12月17日を中心に行われる若宮の御例祭である春日若宮おん祭を始め、毎日朝夕の御神事など、年間2200回にも及ぶ祭典が行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられているのです。」
境内図



車舎(重要文化財)
「貞観元年(859)創建、江戸前期の寛永9年(1632)建築、桁行五間、梁間三間、一重、流造、檜皮葺。天皇の行幸や勅使、藤原氏高官の参詣の折りに牛車を入れた車庫である。両側面を除いて吹放しとし、素木造りの簡素な建物である。」





ニ之鳥居

狛犬



鹿

末社・祓戸神社



鹿の手水所

表参道

着到殿(重要文化財)
「室町中期の応永20年(1413)建築、桁行七間、梁間三間、一重、東端入母屋造、西端流造、檜皮葺。」



室内では映像が流されていました。



榎本神社











南門(重要文化財)

廻廊(南門慶賀門間)(重要文化財)





廻廊(南門東)(重要文化財)

幣殿(重要文化財)
「3月13日の春日祭で勅使が御祭文を奏上されたり、御神楽の折には、祭場となる重要な建物、通常は参拝所として用いられる。」



末社







中門(重要文化財)



東御廊(重要文化財)



本殿、撮影禁止





燈籠



大杉
「目通り周囲7.94m、高さ23m、鎌倉時代の「春日権現験記」には幼木の姿が描かれている。その根元から斜めに伸びているのはイブキ(ビャクシン)で、直会殿の屋根に穴をあけてまで木を生かしているのは、春日大社の信仰によるものである。」



林檎の樹



















御蓋山浮雲峰遥拝所





桂昌院奉納の燈籠



末社・岩本神社

移殿(重要文化財)
『式年造替や修理に際して、神様を移しすることから移殿と言う。また古くは「内侍殿」と呼ばれ、春日祭の折に朝廷から発遣された内侍(女官)のための社殿でもあった。』

多賀神社

藤浪之屋(重要文化財)



暗い中で万燈籠を再現しています。











末社・椿本神社

末社・風宮神社

宝庫(重要文化財)



竈殿(重要文化財)

酒殿(重要文化財)
「桁行五間、梁間三間、一重、流造、檜皮葺。」



桂昌殿(奈良市指定文化財)

阿倍伸麿公の碑

四脚門(奈良市指定文化財)

末社・総宮神社

末社・一言主神社

















末社・水谷神社

子授石





貴賓館(奈良県指定文化財)







改めて、春日大社の祭事を感じ、世界平和、戦争あるいは紛争が無くなることを祈ります。コロンビアでも反政府勢力との対話で武器の放棄が進んだとの報道がありました。フィリピンでも同様な対応がされたとか。武器の輸出で儲けることや軍事と軍事の衝突での解決ではなく、対話による外交努力が求められるのでは。掌と掌を合わせれば皺合わせ(幸)となる。(合掌)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界遺産・興福寺

2016-10-01 15:22:35 | 奈良
2016年9月30日、お参りしました。最近は雨がよく降るので、天気の良い日ということで前日に天気を見ながら奈良観光に行きました。猿沢池南側にある「ならまちセンター」前のパーキングで駐車しました。こちらは平日で終日600円で、土日は2000円です。

ならまちセンターで「ならまち散策マップ」を入手

興福寺
国宝の三重塔は全国で13基、国宝の五重塔は11基で、共に有するのは興福寺のみです。寺内での2基の同時開扉も今回が初めてとなったので、今回の奈良散策は一番のお目当てです。拝観料は両塔で1000円です。
奈良市登大路町48
map
パンフレットより『奈良の大寺、興福寺は、699年に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して山階寺を濫觴とし、飛鳥の厩坂寺を前身としています。藤原不比等によって平城遷都に伴なって現在の場所に移され、興福寺となりました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多数をしめます。これは藤原氏と朝廷との密接な関係を示すもので、造営工事も朝廷の直営で行われました。 奈良時代は、藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。平安時代には春日大社と一体化してその実権を握り、数多くの社寺をその末寺や末社とすることで大和国を支配しました。治承4年(1180)の平氏の焼き打ちで堂塔は全焼しましたが、ただちに復興にとりかかり再建されました。鎌倉時代に再建された北円堂と三重塔、室町時代に再建された東金堂と高さ50メートルを誇る五重塔など国宝の建物が建ち並び、国宝館や東金堂に安置されている優れた仏像の数々が、興福寺の歴史と栄華を物語っています。興福寺の宗派である法相宗は、インドで大成された「唯識」思想を継承して、中国の唐の時代に興されたものです。』
駐車場付近の道からの五重塔

猿沢池の非恋の釆女と衣掛柳の伝説
「奈良時代に帝に仕えていた釆女(うねめ)[後宮で帝の給仕をする女官の職名]が、帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水してしまいました。池の東側に采女が身を投じる前に衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳があります。」



九重石塔



猿沢池
『興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池です。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式です。』

五十ニ段の階段と五重塔



植桜楓之碑



築地塀

境内案内図

南円堂(重要文化財)
「江戸中期の寛保元年(1741)建立、八角円堂、一重、本瓦葺、正面拝所附属。」

石灯籠





露盤・宝珠

雨蓋瓦の獅子、逆立ちしていないですね。

鬼面瓦



三重塔(国宝)
「康治2年(1143)崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失後、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺で最古の建物で、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。」





















北円堂(国宝)
「鎌倉前期の承元4年(1210)建立、八角円堂、一重、本瓦葺。」





中金堂
工事中のため、拝観出来ません。平成30年落慶予定

石敷



五重塔(国宝)
「天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔です。三手先斗栱を用いた古様になりますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れています。創建時の高さは45mで、当時日本でも高い塔でした。各層には水晶の小塔と経典が、また初層には四天柱の各方、つまり東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に見六浄土変が安置されていました。現在は、初層に薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置。このように四仏を配置したのは、顕教における仏の曼茶羅風に配置したもので、貴重な事例です。」













東金堂(国宝)
「室町中期の応永22年(1415)桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。」













興福寺本坊山門

大湯屋(重要文化財)
「室町中期の応永33年(1426)頃再建された考えられています。桁行四間、梁間四間、一重、西面入母屋造、東面切妻造、本瓦葺。」

案内図

自撮で鹿は?



不動明堂
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする