旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

宇和島城、宇和島きさいやロード

2016-10-21 08:12:04 | 愛媛
2016年10月17日行きました。今回の旅程は、2泊3日で高知、須崎、四万十、足摺岬、そこから北に向かって、宇和島、西予、大洲、内子、そして道後温泉宿泊で、松山観光で神戸に帰るコースです。3日間の四国ドライブパスでの四国の西側を周遊です。16日は足摺岬の温泉に宿泊し、海岸沿いの道路を走り、宇和島へ。昨日は雨でしたが、今日は天気が良く暑いくらいです。城山登山口の駐車場に車を止めて見学です。
愛媛県宇和島市丸之内
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宇和島城の説明
パンフレットより「"伊達十万石の城下町"と呼ばれ、江戸時代から四国西南地域の中心として発展してきた宇和島市は、日本屈指のリアス式海岸地帯にあります。城はその最深部、現市街地のほぼ中央に鎮座し、慶長元~6年(1596~1601)の藤堂高虎創建時には大半が海に面する地形を巧みに活かした縄張となっていました。石垣や天守、櫓は、元和元年(1615)に入部した伊達家により修築されていますが、基本的な城構えは高虎時代のものを踏襲していました。現在、堀は全て埋められ、三之丸をはじめ総郭部分約28万㎡は失われてしまいましたが、本丸・ニ之丸等の郭を含む約10万㎡の城山は、国史跡に、現存12天守の1つに数えられる天守は国重要文化財に、そして南側登城口城門の上り立ち門は宇和島市指定文化財に指定されています。」
宇和島市案内図

宇和島城説明書

藩老桑折氏武家長屋門(宇和島市指定有形文化財)
「城北東北側の登城口に位置する長屋門です。家老桑折家屋敷地に残されていたものを、昭和27年桑折家より譲渡を受け、現在地に移築、長屋の一部は失われていますが、市内には数少ない武家屋敷の建造物です。」



















井戸



井戸丸櫓跡



三之門跡





ニ之門跡

ニ之丸跡







天守
「藤堂高虎が創建したとされる望楼型天守を、宇和島伊達家2代宗利が寛文6年(1666)頃に、3重3階総塗籠式、層塔型に再建したものが現在の天守です。各階の装飾性の高い破風や懸魚などから太平の世を象徴するものとして評されるとともに、小さいながらも御殿建築の意匠が随所に見られ、非常に格式を重んじた造りとなっています。」







































天守からの眺め















































城山郷土館



穂積陳重、八束兄弟生家長屋門



















上り立ち門(宇和島市指定有形文化財)
「城山南側の搦手道口に位置し、武家の正門となっています。現存する薬医門としては、最大級であるだけでなく創建年代が最古の慶長期まで遡る可能性を秘めた、貴重な建造物です。」









和霊神社













宇和島きさいやロード、少し歩いてみました。




















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足摺岬、金剛福寺、白山神社、白山洞門

2016-10-19 22:54:44 | 高知
2016年10月16日、神戸を朝出て、高知市の朝倉神社、須崎市の鳴無神社、四万十市の不破八幡宮をお参りし、やっと足摺岬に着きました。もう16時20分です。前日まで晴天でしたが、午後からは雨が結構降りました。雨は上がりましたが、どんよりしています。

四国最南端です。

中浜万次郎像

足摺岬とジョン万次郎の説明書
「中浜万次郎(1827.1.1~1898.11.12)は中の浜出身で、1841年に出漁中に遭難するが、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号のウィリアム・H・ホイットフィールド船長に助けられ、船長の生地フェアーヘイブンで学校教育を受けるとともに見聞を広める。1851年帰国後、その国際知識をかわれて幕府直参となり、1860年には遣米使節の一員に加えられるなど、開国に向けて大役を果たす。」



展望台より

足摺岬の灯台







金剛福寺へ
四国最南端の第38番札所。前の札所からは、約83キロもの距離があり、「お遍路さん泣かせ」の札所のひとつです。







仁王門

















本堂







六角堂

鐘楼堂

























愛染堂



多宝塔(土佐清水市有形文化財)

































みさきホテル宿泊の翌日、足摺岬の散策です。
案内マップ

白山神社
「白山権現と称し、加賀国の白山比咩神社を勧進し白山洞門の頂上に祀られていた。金剛福寺の守護神の一つで、土佐藩主山内氏が崇敬し、藩主が社殿の修復に関わったとの記述がある。」
鳥居

狛犬



拝殿

























白山洞門へ
「花崗岩の洞門で日本一と言われています。太平洋が造り上げた海蝕洞門です。」







洞門の上に白山神社の本宮があります。手すりもなく危険なので登らないでくださいの看板がありました。


















蟹さんが隠れています。





燈台に行きます。









亀石
「弘法大師が亀の背中に乗って、燈台の前の海中にある不動岩に渡ったと言われています。」



汐の満干手水鉢









足摺岬灯台











大師の爪書き石



地獄の穴



椿の道



お疲れ様でした。
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不破八幡宮本殿(四万十市)

2016-10-19 22:45:49 | 高知
2016年10月16日、高知市の朝倉神社、須崎市の鳴無神社の後にお参りしました。足摺岬への途中ですので、四万十市に寄りました。四万十川を少し眺めながら走りました。土佐くろしお鉄道中村線中村駅から約1Kmのところです。
高知県四万十市不破1392
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四万十の観光案内マップ

由緒書より「主祭神は、品陀和気命、玉依姫命、息長足姫命。当社は、室町時代中期の文明年間(1469年~1487年)、前の関白一条教房公が応仁の乱を避け、荘園経営のため中村に開府の時、幡多の総鎮守とし且つ一条家守護神として、山城国(京都府)に鎮座するの石清水八幡宮を勧請し造営されたものである。また現在の御本殿においては戦国時代の永禄元年(1558)から翌2年(1559年)にかけて一条康政氏に京都から招聘された宮大工の北代上衛門氏により再建されたものである。三間社流造、こけら葺として都風の洗練された技術による室町時代末期の建造物として昭和38年に重要文化財にしていされ、土佐一条家の文化を今に伝える唯一の貴重な遺構である。」

鳥居

燈籠

参道と拝殿

拝殿







本殿は平成29年7月末まで工事中でした。残念。

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鳴無神社(土佐の宮島)

2016-10-19 22:44:33 | 高知
2016年10月16日お参りしました。高知市の朝倉神社を後にして、次は鳴無神社(おとなしじんじゃ)です。浦の内湾の海岸沿いに面して鎮座しています。JR土讃線多ノ郷駅から、タクシーで15分です。バスはないですね。高知自動車道の須崎東ICから県道23号線、県道47号線を走っると鳴無神社1Kmの標示があります。少し細い道路を海岸に沿って走ると赤い鳥居が見えてきます。
高知県須崎市浦ノ内東分字鳴無3579
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鳥居



説明書「祭神は、一言主命。創建は1500余年前と伝えられる。社殿は古来度々建て替えられたが現社殿は山内ニ代藩主忠義公が寛文2年(1663)に再建。その後、腐朽し昭和31年~32年解体修理。本殿はニ間四面の春日造、こけら葺、極彩色内陣、天井に天女の舞の絵(伝、村上龍円筆)、拝殿、弊殿は切妻造、こけれ葺。」

参道が海に伸びているところに鳥居



ニの鳥居

手水舎



狛犬



拝殿(重要文化財)

境内







弊殿(重要文化財)
「平入りの拝殿の背後に妻入りの幣殿が接続し、平面はT字形となっています。」

本殿(重要文化財)
「江戸初期の東照宮建築の系統を伝えるもので 文化財の少いこの地方にこの種遺構の存在は貴重である。」

柱は朱で、組物は装飾がされています。雨が結構降ってきました。






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朝倉神社(土佐二ノ宮)

2016-10-19 22:42:11 | 高知
2016年10月16日、お参りしました。今回の行程は高知から足摺岬に宿泊し、宇和島、大洲、内子、道後温泉宿泊です。
まず、神戸を出て、高知の朝倉神社です。土佐二ノ宮とされており、江戸前期の明暦3年(1657)再建です。
説明書より『朝倉神社は、天津羽羽神と天豊戝重日足姫天皇を祭り福寿延命の神、文化の神治政の神であります。上古社の御山は開発の神である天津羽羽神のヨモロギ(神体山)として御山全体を崇教の対象として畏敬せられ、やがて文化に伴い朝日さす南東の麓より拝むべく現在の所に社殿を建てられたので此の赤鬼山こそ古代宗教の名残りで県指定の史跡地で西南隅麓の古墳と共にゆるがせに出来ない土地柄であります。天津羽羽神は古代より此処に鎮座まします国中稀な古社で、後の世の遷座とか御分神とかではなく、極めて深い由緒をもち土佐の国風土記や、日本書紀等の古典にも載せられ、又延喜年間の神名帳にも国幣として登載せられ所謂式社であります。斉明天皇7年(661)朝倉宮に行幸せられ仮の御殿を丸木で造られたので木の丸殿と申されました。御子天智天皇は「朝倉や木の丸殿に我居れば名乗りをしつつ行くはたが子ぞ」と御詠みになられておられます。そしてのち天智天皇の勅語により斉明天皇を朝倉宮に合せ祀られたとの事であります。又土佐物語には朝倉神社の事と題し一巻を面白く物語っております。当神社はもと勅願所で正一位高加茂大明神橘の広庭の宮とも申しました。又武家の崇敬もあつく現在の社殿はニ代山内忠義公が明暦3年(1657)による再建で、室町時代の手法を含む江戸初期の建物で、日本古来の様式に唐天竺の様式を加味して絶頂の技をつくし極彩色などは日光東照宮の例でその優美さは「馬には目かくしをしなければ、まばゆさに驚き通れなかった」と伝えられ地方には珍しい模範的建物であります。』
高知県高知市朝倉丙2100
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鳥居

狛犬



鳥居

手水舎

境内

拝殿



由緒説明書

燈籠
「ニ代山内忠義公が明暦3年(1657)に寄進した大石燈籠・原石は摂津国(兵庫県)の御影石」

境内

狛犬(高知市指定有形文化財)
「江戸時代初中期から中期の作と見られるが、無銘のため作製年代は明確でない。尾戸焼(土佐国尾戸で産出の陶器)で作られたもので珍しい。」







荒倉神社




忠魂社

本殿(重要文化財)
「桁行三間、梁間二間で、屋根は柿葺。流造ではなく切妻造の屋根の前面に軒唐破風付きの向拝一間を付す。」





















勅使石



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みさきホテル(足摺岬)

2016-10-19 19:52:47 | 温泉、旅館、ホテル
2016年10月16日、泊まりました。
神戸から明石大橋を渡り、淡路を通過、徳島自動車道から高知自動車道を走り、高知市の朝倉神社、須崎市の鳴無神社、四万十市の不破八幡宮、そして足摺岬と来ました。約440Kmですから、結構遠いですね。道路を走っていてもお遍路さんがたくさん歩いています。土砂降りの雨の中を歩いていますので、本当に合掌。
プラン名:【人気プラン!生ビール一杯無料】平日お二人様で18000円★アワビ陶板焼付★みさき会席(姿造りなし)です。部屋条件:海側 和室(8畳~10畳)。お遍路さんが結構泊まっていました。皆さん、結構遠くから来られています。愛知県、福岡とか、1日に6か所くらい回るそうです。足摺温泉は単純弱放射能冷鉱泉・ラドン含。お風呂から足摺岬を展望できます。アットホームなホテルです。予約を1日間違って17日で予約をしていましたが、16日にフロントに行くと急遽部屋を手配していただきました。(恐縮)感謝、感謝で翌日分をキャンセルで丁寧に対応していただきました。
土佐清水市足摺岬215
外観

室内



おもてなし

部屋からの景色

夕食です。会場食です。
前菜

刺し身盛り合わせ

鰹のたたき

鍋物

アワビの陶板焼き

天ぷら

茶碗蒸し

鯛飯

吸物

フルーツ

ロビー







朝食です。












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浮見堂、十輪院、ならまち格子の家他

2016-10-02 18:34:08 | 奈良
2016年9月30日、奈良市内散策です。興福寺、春日大社とお参りしました。次は、浮見堂、十輪院、ならまちに行きます。
片岡梅林

円窓亭







旧大乗院庭園(名勝)

浮見堂











洞水門

清酒春鹿醸造元



今西家書院



ならまち







毘沙門町



十輪院
「寺伝によりますと、当山は元正天皇(715‐724)の勅願寺で、元興寺の一子院といわれ、また、右大臣吉備真備の長男・朝野宿禰魚養の開基とも伝えられています。」





南門(重要文化財)
「鎌倉前期の四脚門で、装飾性のない簡素な構造形式であまり類例が見られません。」

本堂(国宝)
「鎌倉時代中期頃の建立、桁行五間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。後方に地蔵石仏龕があり、本堂はこれに対する礼堂である。床髙、軒髙などすべて髙さの低い意匠にまとめられており、各部手法も簡素で落ちついた感じをあらわしている。組物 蟇股などは優秀で、鎌倉時代の代表例にかぞえられている。」



護摩堂



御影堂











不動明王(鎌倉時代)



再びならまちへ



狂言大蔵流宗家屋敷跡



築地之内町





銭湯



ならまち格子の家
『町家はいわゆる町人の住居としてつくられた民家で、個々の家には手を入れられた時期によって多少の違いがありますが、間口は狭く、奥行きが深いという共通の特徴があります。これは、かつて税金が間口の広さによってかけられたということのほか、町民らの「表通りに面したい」という願いができるだけ多くかなえられるための智恵でもあります。』
格子
「格子の始まった時期は明らかではありませんが、室町時代末期(1550年前後)の洛中洛外図(町田・上杉両屏風)ではほとんどの家に格子が描かれています。格子は、昼間は、外から家の中を見えなくする目隠しの役を果たすと同時に、中からは外がよく見えるハーフ・ミラーのような効果をもっています。そして音や風はよく通します。表の道で遊んでいる子どもたちに格子ごしに気を配ることもできます。祭の時や、家事のときは即座に全部をとり払うことができます。日本の建物のファサード(正面)の歴史の中で、町家の格子はひとつの頂点となすものだと考えざるを得ません。」



みせの間

奥の間

中庭
「渡り廊下に接して風呂や便所がある。奥には離れ、蔵がある。」



離れ





藤岡家住宅(重要文化財)
「江戸中期の建立と思われる。道路に面した正面表構は商家の細部をよく残している。奈良市内の町屋として古い遺例である。出入口に突上げ戸、その両脇にはミセとシモミセのニ室の正面には蔀(しとみ)と揚店(ばったり床几)を構え、これらの建具を開放して商売をしていました。」







鐘馗(しょうき)さん(魔除けの瓦人形)、玄関の上の瓦のところで守っています。













吉田蚊帳店舗(登録有形文化財)
「江戸末期の建立で、昭和中期・昭和47頃・平成10頃改修、主屋の北に並び、切妻造桟瓦葺とする。漆喰大壁造の土蔵風外観で、正面一階は洗出し、北側面は竪板張とする。」

煙抜き

屋根の上の鐘馗さん















































采女神社



餅飯殿センター街











疲れたのでアイスクリームを食べました。300円









江戸川









奈良町情報館

お疲れ様でした。
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世界遺産・元興寺

2016-10-02 18:24:43 | 奈良
2016年9月30日、お参りしました。近鉄奈良駅の周辺の散策です。元興寺(がんごうじ)は真言律宗の寺院で、本尊は阿弥陀如来です。
奈良市中院町11
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パンフレットより『蘇我馬子が6世紀末に建立した法興寺(飛鳥寺)をその前身とします。平城遷都とともに移築された創建時の建造物は、もとは僧坊だった本堂と禅室を残すのみですが、そこには「行基葺」といわれる当時の技法で葺かれた、飛鳥から運ばれた日本最古の瓦が一部には使われています。また禅室は、中央の間を戸口とする奈良時代の僧坊の形式をとどめる貴重な遺構です。南都七大寺のひとつとして広大な寺院だった元興寺は、平安時代の中ごろから寺勢が衰え、浄土教が庶民に広まると極楽坊に中心が移ってきました。極楽坊は僧坊の一廓でしたが、浄土信仰に徹した高層、智光が画工に描かせた「智光に曼荼羅」が安置されていたからです。平安時代の末には極楽坊を改築して本堂と禅室に区分され、極楽坊の念仏講がさらに発展した鎌倉時代には、本堂は東向きに改修されました。中世から江戸期にかけて、庶民の信仰の場として時の権力とは離れたところで存続してきた元興寺には、庶民信仰の歴史を物語る貴重な民俗資料も数多く収蔵されています。』
北門









東門(重要文化財)
「鎌倉後期(1275~1332)建立、四脚門、切妻造、本瓦葺。」



極楽堂(国宝)
「鎌倉前期の寛元2年(1244)改築、桁行六間、梁間六間、一重、寄棟造、妻入、正面一間通り庇付、本瓦葺。この堂は元興寺東室南階大坊(僧坊)の一部であり、本邦浄土六祖の第一祖である智光法師が感得した浄土曼荼羅を本尊とし寄棟造に大改修された極楽坊本堂である。極楽堂、曼荼羅堂とも呼ばれ、智光の住防が前身という。古来浄土発祥の聖堂として名高く、内部柱に念仏講の寄進文がある。堂の外観は寛元2年改修時の姿であるが、内陣には奈良時代僧坊の身舎部を残し、西流れの屋根に見る行基葺古瓦は当時の前身飛鳥寺から移建の際に運ばれたものである。」



















境内

収蔵庫

講堂跡礎石



浮図田(ふとでん)
「2500余基の石塔、石仏類(総称して浮図)は、寺内及び周辺地域から集まったもので、新たに田圃の稲のごとく整備した。」



仏石足

禅室(国宝)
「鎌倉前期の寛元2年(1244)改築、桁行四間、梁間四間、一重、切妻造、本瓦葺。」



小子坊[極楽院旧庫裏](奈良県指定文化財)
「奈良時代の東室南階大坊には北側に梁間の狭い小子坊が附属していた。僧坊が中世書院化すると、小子坊は北の厨房となった。寛文3年(1663)現在の形に改修され台所と呼ばれ、極楽院庫裏として機能した。」















かえる石



カリンの木

















史跡元興寺塔址

元興寺西室



ネパールの伝統的飾窓
「この飾窓は、1970年開催の大阪万国博覧会でネパール館に使用されていました。ロータス(蓮)・バルメット(アーカンサス)・ガルーダ(神鳥)・ライオン(獅子)・ドラゴン(竜)などのデザインはインド文化圏の宗教的象徴です。日本・ネパール両国友好の証しとして、元興寺に寄贈されました。」



















極楽坊縁起絵巻、厨子入智光曼荼羅、阿弥陀如来像、聖徳太子像などの重要文化財など多数があります。

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春日大社

2016-10-01 17:24:16 | 奈良
2016年9月30日、興福寺の後、食事をしてバスで春日大社に移動です。
三条通です。

外国からの観光客も結構います。



手力雄神社
「春日大社の境外の末社」

奈良県里程元標と高札場の復元



南都銀行本店(登録有形文化財)
三条通りと東向通りの角にあります。
「大正15年(1926)建築、鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建。正面に4本のイオニア式の列柱を並べ細部に装飾を施す外観は、古典様式を簡潔にまとめた好例。設計長野宇平治、施工大林組。古都奈良の数少ない様式建築の一つ。」

銀行の南側の三好屋さんで食事をしました。



手書き風のメニューが一杯です。

佐保路定食の茶そばと天ぷらです。930円です。妻は天丼の単品700円でした。

東向通りの商店街



日本聖公会奈良基督教会(登録有形文化財)
幼稚園が併設されているため、開放していませんでした。奈良県の障害者教育発祥の地







近鉄奈良駅前

バス停1番乗り場より春日大社本殿まで210円です。
春日大社
パンフレットより「奈良都が遷された今から1300年程前、平城京鎮護のため、国譲りを達成された最強の武神である武甕槌命を鹿島神宮から神山御蓋山山頂浮雲峰にお迎えし祀ったのが始まりです。武甕槌命は白い鹿に乗って来られたとされ、奈良で鹿が神の使いとして保護されるゆえんとなりました。神護景雲2年(768)、称徳天皇の勅命により今の地に壮麗な社殿を造営して香取神宮から経津主命、枚岡神社から天児屋根命、比売神をお招きしてお祀りし、この四社の神々はもっとも尊崇すべき神々として春日皇大神様とされました。後の時代まで国家鎮護の神として時の天王や貴族、将軍家などから篤い尊崇を受けるとともに、平安時代の終わり頃からは興福寺との一体化が進み、明治に至るまで神仏習合の信仰が続きました。平城京から長岡京に遷都されると、都の守護神として春日皇大神様をお祀りする大原野神社が、また平安京には同じように吉田神社が創建されるなど、全国各地に奉斎された三千社におよぶ春日の御分社、そして平安時代から奉納され続けられている境内の三千基もの燈籠は、春日皇大神様の厚い信仰の広がりを示しています。当社は千古の森の緑の中に、色鮮やかな朱の御殿をはじめ諸社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しい姿でお鎮まりになっています。藤の名所として知られる境内には国宝の本殿、重文の弊殿、着到殿、一之鳥居などが建ち並びます。そして今も昔と変わらず3月13日に行われる大宮の御祭で日本三大勅祭のひとつに数えられる春日祭。そして12月17日を中心に行われる若宮の御例祭である春日若宮おん祭を始め、毎日朝夕の御神事など、年間2200回にも及ぶ祭典が行われ、日本の国はもとより、世界の平和、万民の幸福、そして共存共栄が祈り続けられているのです。」
境内図



車舎(重要文化財)
「貞観元年(859)創建、江戸前期の寛永9年(1632)建築、桁行五間、梁間三間、一重、流造、檜皮葺。天皇の行幸や勅使、藤原氏高官の参詣の折りに牛車を入れた車庫である。両側面を除いて吹放しとし、素木造りの簡素な建物である。」





ニ之鳥居

狛犬



鹿

末社・祓戸神社



鹿の手水所

表参道

着到殿(重要文化財)
「室町中期の応永20年(1413)建築、桁行七間、梁間三間、一重、東端入母屋造、西端流造、檜皮葺。」



室内では映像が流されていました。



榎本神社











南門(重要文化財)

廻廊(南門慶賀門間)(重要文化財)





廻廊(南門東)(重要文化財)

幣殿(重要文化財)
「3月13日の春日祭で勅使が御祭文を奏上されたり、御神楽の折には、祭場となる重要な建物、通常は参拝所として用いられる。」



末社







中門(重要文化財)



東御廊(重要文化財)



本殿、撮影禁止





燈籠



大杉
「目通り周囲7.94m、高さ23m、鎌倉時代の「春日権現験記」には幼木の姿が描かれている。その根元から斜めに伸びているのはイブキ(ビャクシン)で、直会殿の屋根に穴をあけてまで木を生かしているのは、春日大社の信仰によるものである。」



林檎の樹



















御蓋山浮雲峰遥拝所





桂昌院奉納の燈籠



末社・岩本神社

移殿(重要文化財)
『式年造替や修理に際して、神様を移しすることから移殿と言う。また古くは「内侍殿」と呼ばれ、春日祭の折に朝廷から発遣された内侍(女官)のための社殿でもあった。』

多賀神社

藤浪之屋(重要文化財)



暗い中で万燈籠を再現しています。











末社・椿本神社

末社・風宮神社

宝庫(重要文化財)



竈殿(重要文化財)

酒殿(重要文化財)
「桁行五間、梁間三間、一重、流造、檜皮葺。」



桂昌殿(奈良市指定文化財)

阿倍伸麿公の碑

四脚門(奈良市指定文化財)

末社・総宮神社

末社・一言主神社

















末社・水谷神社

子授石





貴賓館(奈良県指定文化財)







改めて、春日大社の祭事を感じ、世界平和、戦争あるいは紛争が無くなることを祈ります。コロンビアでも反政府勢力との対話で武器の放棄が進んだとの報道がありました。フィリピンでも同様な対応がされたとか。武器の輸出で儲けることや軍事と軍事の衝突での解決ではなく、対話による外交努力が求められるのでは。掌と掌を合わせれば皺合わせ(幸)となる。(合掌)
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世界遺産・興福寺

2016-10-01 15:22:35 | 奈良
2016年9月30日、お参りしました。最近は雨がよく降るので、天気の良い日ということで前日に天気を見ながら奈良観光に行きました。猿沢池南側にある「ならまちセンター」前のパーキングで駐車しました。こちらは平日で終日600円で、土日は2000円です。

ならまちセンターで「ならまち散策マップ」を入手

興福寺
国宝の三重塔は全国で13基、国宝の五重塔は11基で、共に有するのは興福寺のみです。寺内での2基の同時開扉も今回が初めてとなったので、今回の奈良散策は一番のお目当てです。拝観料は両塔で1000円です。
奈良市登大路町48
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パンフレットより『奈良の大寺、興福寺は、699年に中臣鎌足(藤原鎌足)の病気平癒を祈願して山階寺を濫觴とし、飛鳥の厩坂寺を前身としています。藤原不比等によって平城遷都に伴なって現在の場所に移され、興福寺となりました。藤原氏の氏寺ですが、主要堂塔の建立の発願は天皇や皇后によるものが多数をしめます。これは藤原氏と朝廷との密接な関係を示すもので、造営工事も朝廷の直営で行われました。 奈良時代は、藤原氏の力が大きくなるにつれて興福寺も勢いを伸ばしました。平安時代には春日大社と一体化してその実権を握り、数多くの社寺をその末寺や末社とすることで大和国を支配しました。治承4年(1180)の平氏の焼き打ちで堂塔は全焼しましたが、ただちに復興にとりかかり再建されました。鎌倉時代に再建された北円堂と三重塔、室町時代に再建された東金堂と高さ50メートルを誇る五重塔など国宝の建物が建ち並び、国宝館や東金堂に安置されている優れた仏像の数々が、興福寺の歴史と栄華を物語っています。興福寺の宗派である法相宗は、インドで大成された「唯識」思想を継承して、中国の唐の時代に興されたものです。』
駐車場付近の道からの五重塔

猿沢池の非恋の釆女と衣掛柳の伝説
「奈良時代に帝に仕えていた釆女(うねめ)[後宮で帝の給仕をする女官の職名]が、帝のご寵愛が衰えたのを嘆いて猿沢池の池畔の柳に衣を掛け、入水してしまいました。池の東側に采女が身を投じる前に衣を掛けたという衣掛(きぬかけ)柳があります。」



九重石塔



猿沢池
『興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造られた人工池です。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式です。』

五十ニ段の階段と五重塔



植桜楓之碑



築地塀

境内案内図

南円堂(重要文化財)
「江戸中期の寛保元年(1741)建立、八角円堂、一重、本瓦葺、正面拝所附属。」

石灯籠





露盤・宝珠

雨蓋瓦の獅子、逆立ちしていないですね。

鬼面瓦



三重塔(国宝)
「康治2年(1143)崇徳天皇の中宮皇嘉門院聖子が建て、治承4年(1180)に焼失後、間もなく再建されました。北円堂とともに興福寺で最古の建物で、木割が細く軽やかで優美な線をかもし出し、平安時代の建築様式を伝えています。」





















北円堂(国宝)
「鎌倉前期の承元4年(1210)建立、八角円堂、一重、本瓦葺。」





中金堂
工事中のため、拝観出来ません。平成30年落慶予定

石敷



五重塔(国宝)
「天平2年(730)興福寺の創建者藤原不比等の娘光明皇后が建立。その後5回の焼失・再建をへて、応永33年(1426)頃再建された日本で2番目に高い塔です。三手先斗栱を用いた古様になりますが、中世的で豪快な手法も大胆に取り入れています。創建時の高さは45mで、当時日本でも高い塔でした。各層には水晶の小塔と経典が、また初層には四天柱の各方、つまり東に薬師浄土変、南に釈迦浄土変、西に阿弥陀浄土変、北に見六浄土変が安置されていました。現在は、初層に薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置。このように四仏を配置したのは、顕教における仏の曼茶羅風に配置したもので、貴重な事例です。」













東金堂(国宝)
「室町中期の応永22年(1415)桁行七間、梁間四間、一重、寄棟造、本瓦葺。」













興福寺本坊山門

大湯屋(重要文化財)
「室町中期の応永33年(1426)頃再建された考えられています。桁行四間、梁間四間、一重、西面入母屋造、東面切妻造、本瓦葺。」

案内図

自撮で鹿は?



不動明堂
コメント
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