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篠山市福住の町並み

2019-04-25 20:46:49 | 丹波
2019年4月23日、散策しました。
パンフレットより『福住の町並みは、篠山盆地の東端、篠山川の支流となる籾井川が形成した河岸段丘上に位置し、篠山盆地を東西に横切る西京街道(京街道)が盆地を東に抜け、籾井川と平行して走るようになる辺りから、街道に沿って町並みが広がります。
 古代には丹波国八郷のひとつ真継郷に属しており、現在の小野新周辺に山陰道の駅馬として小野駅が置かれました。さらに、平安・鎌倉時代には丹波国に貴族や大寺社の荘園が多く設けられ、福住は籾井庄の一部であったと考えられ、室町時代には福住一帯が仁木氏の支配下にありました。
 戦国時代になると、波多野氏が勢力を伸ばし、高城山に築いた八上城を中心とする勢力圏を形成しました。福住は波多野氏の被官であった籾井氏の拠点でした。籾井氏は中世以来この地域に拠点を置く在地領主であったと考えられ、永正年間には福住の北を流れる籾井川を挟んだ対岸の山上に籾井城を築くとともに、安口の籾井川対岸には安口城、安口西砦といった支城を設けていました。
 天正6年(1578)の明智光秀による丹波攻略により、波多野氏を中心とした丹波衆は勢力を失います。慶長13年(1608)に松平康重が八上城に移封され、慶長14年(1609)の篠山盆地の中央に、15カ国20の諸大名によって天下普請で篠山城が築かれました。
 丹波国が諸大名の所領として細分化される過程で、福住村・川原村は篠山藩領、安口村・西野々村は亀山藩領へ編入されたため、幕藩体制下では別々の藩領として存在することとなりました。
 篠山藩は、篠山城下を中心とする街道整備の中で、西京街道沿いの「福住村」、「追入村」、摂津・播磨を結ぶ街道沿いの「古市村」をそれぞれ宿駅に指定し、いずれの村も近世を通して宿場町として繁栄します。福住は京、大坂との交通の要衝であり、本陣・脇本陣を勤めました。またその他にも、篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵・籾蔵やそれらを管理する役人詰所が建てられました。一方、川原村、安口村、西野々村は農村集落として位置づけられますが、安口村には関所が設けられ、福住村が宿場町となったことから農業と兼業で旅籠や茶店などを営む家もありました。
 明治維新にともない宿駅の制度は廃止されますが、明治時代中期頃までは旅客交通量、貨物輸送量の増加により宿場町として繁栄を続けます。しかし、こうした繁栄も、鉄道・道路網の整備が進むことによりかげりを見せるようになります。とりわけ、明治32年(1899)に京都・園部間を結ぶ京都鉄道(現JR山陰本線)、神埼・福知山間を結ぶ阪鶴鉄道(現JR福知山線)が開通したことにより、福住は大きな打撃を受け、旅客を対象とする旅籠や商店は徐々に廃業していきました。明治以降、福住は近代化の影響をあまり受けず、そのことが伝統的な町並みを現在まで残す要因となりました。現在、街道沿いの大字福住から大字西野々にかけて、江戸後期から明治期に建てられた妻入民家を中心とした町並みが続いており、江戸期以来宿場町を中心として発展した面影を色濃くとどめています。』
兵庫県篠山市福住
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案内図

伊能忠敬笹山領測量の道の石碑
「文化11年(1814)2月11日曇、伊能忠敬測量隊10名は、早朝より131人の労役村民を従えて、城下二階町を出発、京都街道を測量。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測所前に住印杭打。」

















福住の一里塚
「江戸幕府二代将軍徳川秀忠が、江戸日本橋を基点とし、東海・東山・北陸三道の一里ごとに道路の両側に塚を設けて、榎や松を里程と休憩場としました。そこで各藩でも、江戸・京への距離を示す一里塚をつくるようになったのです。篠山藩では篠山城築城に際し、西京街道に沿って大手門から一里ごとに土を盛り松を植えて道標(みちしるべ)としました。ここは、八上、波々伯部神社に次いで、城から三里目の塚で、ここから東へ少し行くと亀山藩領でした。かつては両側に松の大木がありましたが、現在の松は、歴史を後世に伝えるために補植されたものです。」



山車庫

















































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