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高砂神社

2023-03-24 15:24:34 | 東播磨
2023年3月22日、お参りしました。
縁起書より「祭神は、素戔嗚尊、大己貴命、奇稲田姫命。祭事は、尉姥祭5月21日、祇園祭7月7日より13日、例祭10月10日・11日。神功皇后征西の際、大己貴命の冥護を得て敵を平げ凱旋の途鹿子の水門に泊られた時、『此処は広く西国を見渡し近く畿内を護るに適したよい処である。われこの地に留らん』との御託宣により大己貴命を祀られたのが高砂神社の創始である。後に、圓融天皇の天禄年間国内疫病流行し人民の死亡するもの算なし神誨を得て素戔嗚尊、奇稲田姫命を合わせて祀ったところ疫病たちまち息み、国内大に治まった庶民歓び報賽の典を修めた。実に972(天禄3)年9月11日の事である。爾来以て恒例とし高砂牛頭天王又は祇園社とも称する様になった。古来朝廷、国司、武将等の崇敬厚く近世に入りても豊臣秀吉は朝鮮出兵の際、戦勝を祈願し姫路城主池田輝政京都所司代板倉勝重は社領を寄せ本多忠政姫路城に臨むに及びては崇敬殊に深く1625(寛永2)年本社、末社を改造し門墉を建築し社領を捧げ、又三代相生松を継植した。寛政7年には尉姥神像を禁裡御所に勧請御代拝あらせられ金品を下賜せられた。1909(明治42)年4月東宮殿下の行啓を仰ぎ1956(昭和31)年10月秩父宮妃勢津子殿下御参拝『五代相生松』御命名を賜った。上代以来和歌に謡曲に有名な相生松の枯死を惜んで本多忠政が継植した三代相生松は天然記念物に指定された天下の名木であったが1937(昭和12)年に枯死し、今は秩父宮勢津子殿下御命名の五代相生松が緑の色もいよいよ濃く立栄えている。松の傍に尉姥神社がある。松の木陰を清めつつわれら神霊をこの木にとどめ永く夫婦伉儷の道を護らんと仰せられた尉姥の二神をお祀りしている。大前に額きて和合長寿を祈り結婚式を挙げて偕老の契を結ぶ人々は近年ますます多い。」
兵庫県高砂市高砂町東宮町190
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由緒書

社標

境内図

鳥居

表門











手水舎

石灯籠

池田輝政公高砂城趾
「高砂城の記録はあまり残っていない。1600(慶長5)年に池田輝政が播磨に入り、姫路城を築いた後、1612(慶長17)年に播磨の海の守りを固めるために高砂城を築いた。中村主殿助正勝が城主となり、大規模な構えの城を形成させ、高砂は城下町として生まれ変わった。しかし、立派な城も1615(元和元)年に出された『一国一城令』により破棄され、歴史を終えた。その後、1626(寛永3)年に本丸の跡地に元来の地にあった高砂神社が戻された。」







東宮駐駕所

神馬

狛犬



拝殿





















本殿



和魂神社







歌碑

琴平神社









猿田彦社・秋葉社

神馬厩

天満社



粟島社

神輿倉



高砂の真砂

社務所



稲荷社

三社、天照大神・春日大神・八幡大神





住吉社





尉姥神社
由緒書より「祭神は伊弉諾尊・伊弉冊尊、尉姥祭5月21日・22日。境内にある日一本の松生い出で、その根は一つで雌雄の幹が左右に分かれていましたので神木霊松などと称えられていましたところ伊弉諾尊・伊弉冊尊の二神現われ『我は今より神霊をこの木に宿し世に夫婦の道を示さん』と告げられました。これより人はこの松を霊松と呼び、この二神を『尉と姥』として今日めでたい結婚式にはなくてはならないものとなったのです。また、『お前百まで、わしゃ九十九まで』とうたわれています尉と姥は平和と長寿の省庁としてあまりにも有名です。天正年間、戦乱の巷にゆくえ知れずとなった『尉と姥』の御神像が寛政7年めでたく京都で見つかり5月21日当社で御遷座奉祝祭が盛大に斎行され、お面かけ神事はそのお祝として今日まで伝承されております。」













五代目相生松





霊松殿





三代目相生松



能舞台

愛宕社

弁財天





厄落とし清め処



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