2014年6月26日、お参りしました。
由来書より「多井畑厄除八幡宮は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれ、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。神護景雲4年(770)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡宮は古山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられています。」
ポーランドから来られたAleksandraさんが一人でお参りしていました。日本旅行の無事をお祈りいたします。良い旅をしてください。
神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
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付近案内図
鳥居
参道
鳥居
境内
手水舎
拝殿
本殿
松社
稲荷社
高良社
階段を登って
厄神祭塚由緒
厄神塚
社務所
神輿庫
鏡の井
仁和3年(886)尤孝天皇のいかりにふれて配流された在原行平は多井畑に暮らしていた村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」という名で、この二人が須磨へ塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ出会い、行平は二人に「松風」「村雨」と名付け愛しました。この鏡の井は、二人が姿を写した姿見の井といわれています。」
厄神八幡宮の南の手前の路地を入ったところです。
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義経腰掛の松
「壽永3年(1184)2月7日未明、源義経一行が多井厄除八幡宮で戦勝祈願したおり、この松の木の下で休息をとった後、一の谷に向かったと伝えられています。それからのち、村人はこの場所に社をつくり「ほんがん(判官)さん」の愛称で親しみと尊敬をこめておまつりしています。」
厄神八幡宮の南の路地を入ったところです。
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横に祠と塚があります。近所の方が清掃と水をあげて世話をしていました。合掌。
村風村雨の墓
在原行平死後、二人は多井畑の地で世を終えました。
墓は一石五輪塔で作られており、左は姉松風、右は妹村雨の墓と伝えられています。
寄り添うように並ぶ2つの墓の隣には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建てられています。
義経腰掛の松を西に右手北側に少し行くと左手にあります。
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由来書より「多井畑厄除八幡宮は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれ、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。神護景雲4年(770)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡宮は古山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられています。」
ポーランドから来られたAleksandraさんが一人でお参りしていました。日本旅行の無事をお祈りいたします。良い旅をしてください。
神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
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付近案内図
鳥居
参道
鳥居
境内
手水舎
拝殿
本殿
松社
稲荷社
高良社
階段を登って
厄神祭塚由緒
厄神塚
社務所
神輿庫
鏡の井
仁和3年(886)尤孝天皇のいかりにふれて配流された在原行平は多井畑に暮らしていた村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」という名で、この二人が須磨へ塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ出会い、行平は二人に「松風」「村雨」と名付け愛しました。この鏡の井は、二人が姿を写した姿見の井といわれています。」
厄神八幡宮の南の手前の路地を入ったところです。
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義経腰掛の松
「壽永3年(1184)2月7日未明、源義経一行が多井厄除八幡宮で戦勝祈願したおり、この松の木の下で休息をとった後、一の谷に向かったと伝えられています。それからのち、村人はこの場所に社をつくり「ほんがん(判官)さん」の愛称で親しみと尊敬をこめておまつりしています。」
厄神八幡宮の南の路地を入ったところです。
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横に祠と塚があります。近所の方が清掃と水をあげて世話をしていました。合掌。
村風村雨の墓
在原行平死後、二人は多井畑の地で世を終えました。
墓は一石五輪塔で作られており、左は姉松風、右は妹村雨の墓と伝えられています。
寄り添うように並ぶ2つの墓の隣には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建てられています。
義経腰掛の松を西に右手北側に少し行くと左手にあります。
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