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幸せ芝居

日々是☆日~デジカメ花写真雑記~

無言館

2018-06-05 | Weblog



6月3日、美術館へ無言館「祈りの絵」という展覧会を観に行ってきた。




絵の撮影は当然ながら出来なかったが、この2枚のパネルは撮影出来た。

「長野県上田市郊外にある無言館には、日中・太平洋戦争中に志半ばで命を奪われた画学生たちの絵画が展示されています。学生時代の作品、出征直前まで描いていた作品、あるいは出征により完成されることのなかった作品など、戦没者たちの命の証ともいえる作品を目の前にすると、誰もが胸を締め付けられる思いに駆られます。これらの作品は、無言館館主の窪島誠一郎氏と出征経験を持つ画家の野見山暁治氏の二人によって、遺族たちの多大なる協力のもとに収集されました。描いた画家のみならず、遺族の思いまで詰まった貴重な作品約140点が、平和都市・長崎に初めて一堂に会します。
愛する家族、馴れ親しんだ故郷を後にし、生きて帰ったらまた好きな絵を描こうという希望を持ちながら、それが叶わなかった画学生たち。彼らの遺した絵画が、私たちに生きることの尊さを無言で訴えかけます。」(美術館の紹介文より)



「妹・和子の像」 太田章 昭和17年東京美術学校日本画科卒業 50号程の作品で暗い色調の絵が多い中、唯一明るく描かれていた。(ネットの画像を拡大したので鮮明ではない。) 1944年 満州にて23歳で戦没。
太田章《妹・和子の像》 23歳・満州で戦病死。「私を庭の一隅にしゃがませて何枚もデッサンしていた兄の気持ちが、幼いわたしにも伝わってきました。」(妹 和子さん)


「編み物をする婦人」 興梠武(こおろぎ たけし)最愛の妹を描いたもので、妹さんは25歳で病死。その知らせを戦地で聞いた武さんは号泣したとある。 ルソンにて28歳で戦没。


「妹・千枝子の像」 原田新 20号程の作品。実物はもっと暗い色調になっている。24歳戦没。


「アネモネ」 桑田一彦 京都高等工芸学校図案科卒 1921年生 23歳戦没。


「街」 片桐彰 マリアナ諸島にて21歳で戦没。
片桐彰《街》 21歳・マリアナ諸島で戦死。「映画の筋書きは忘れたけど、戦争のことを考えながら歩いた兄のまっすぐな背中が忘れられません。」(妹 文枝さん)


「花」 椎野修 5号程の絵 1913年生 ビルマにて31歳で戦没。
椎野修《花》 31歳・ビルマで戦死。「若し再び生きて帰ることがあったら、あらん限りの愛を以て此の自然の美を極めたい。」(本人の日記)


「自画像」 手島守之輔 3号程の作品 広島にて31歳で死亡。
手島守之輔《自画像》 31歳・大野陸軍病院で戦傷死。「原子爆弾が投下された翌日、父親と妻は守之輔を探し歩いて広島まで行き、病院で見つけることができた。」


ディスプレイの写真を撮ろうと構えていたら軽トラが駐車してきた。







絵を志し東京美術学校などで絵画を学ぶ若者たちは、戦時下で画材も不十分で戦況の悪化に伴い召集が迫り来るなかでどのような思いで過ごしたのだろう。残された絵は妻や妹や家族のものが多く時勢柄小品である。画面も暗くその心境が思いやられる。心ならずも外地で命を落とした画学生の無念を思うと一枚一枚の絵をおろそかに見過ごす事は出来ない。丹念に戦没地や没年等をメモしながら観て回った。水彩画の描かれた葉書等の展示もあり胸に迫るものがあった。


水辺の森公園では、アメリカディゴがすでに散り始めていた。

2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (kincyan)
2018-06-06 14:50:27
死は満遍なくすべての人に訪れるのですが、若くして絵心をもち死んでいった人たちは、美への執着もあるでしょうから、すれはそれで無念だったでしょうね。戦争がない現在の日本は幸せです。北朝鮮との話が穏便に済むことを祈っております。
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kincyanさんへ (幸せ芝居)
2018-06-06 17:38:07
今回ほど長い時間、展示された絵を観た事はありませんでした。戦死された人は軍人だけでも二百万人余り。無言館に展示される絵の戦没者はそのほんのひとかけらにしか過ぎませんが、残された絵は反戦の強いメッセージとなって訴えかけてきます。まだ初日で人も少なめでしたが、多くの人が観られたらいいと思いました。特に若い人に観てもらいたい展覧会です。北朝鮮がただの経済制裁逃れの融和策ではない事を願っています。
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