花笑 はなえみ

          呼吸を大切に 呼吸を忘れないで と願っています

さまざまな縁(えん)

2016年01月30日 18時31分09秒 | 祈り
 父は87歳ですが、、昨秋よりがんの再発で入院し、その後自宅に帰れないまま遠くの老人施設に入居となってしまいました。
 病院でも、施設でも、父の願いはただひとつ「家に帰りたい」ということだけでしたが、その願いを叶えられないまま、2週間前の1月15日、施設で亡くなりました。

 わたしはと云えば、予測はしていましたが、「おとうさんはもういない」とそれだけ何度も心のなかで繰り返しているだけで、どうにもなにも動けませんでした。 
 普段当たり前のようにしている生存に関わるもろもろのことができなくなっていました。我ながら「あぶないな~」と思いつつも動けないのです。
 動く、立つ、歩く、食べる、お風呂に入る、眠る、人に会う、というこんなことがスムーズにいかなくなるなんて思いもよらないことでした。これにはまいってしまいました。

 この地に戻ってきてより、父と母と妹と従妹はわたしの支えです。
 その従妹は、震災の年の6月に病気で亡くなり、父も逝ってしまった。
 それでも、わたしが生きているかぎり支えであることに変わりはありません。

 こういう辛い状況は、多くの方々が乗り越えてこられたことだし、と思ってみても、すぐには効き目がありませんね。

 ずっと以前に読んだ、仏典に載っていたお話があります。
 その後も時々思い出すくらい、何故か、とても心惹かれた一篇でした。

 裕福な家の若い嫁であったキサーゴータミーは、そのひとり子の男の子が、幼くして死んだので、気が狂い、冷たい骸(むくろ)を抱いて巷(ちまた)に出、子供の病を治す者はいないかと尋ね回った。

 この狂った女をどうすることもできず、町の人びとはただ哀れげに見送るだけであったが、釈尊の信者がこれを見かねて、その女に祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の釈尊のもとに行くようにすすめた。彼女は早速、釈尊のもとへ子供を抱いて行った。

 釈尊は静かにその様子を見て、「女よ、この子の病を治すには、芥子(けし)の実がいる。町に出て四・五粒もらってくるがよい。しかし、その芥子の実は、まだ一度も死者の出ない家からもらってこなければならない。」と言われた。

 狂った母は、町に出て芥子の実を求めた。芥子の実は得やすかったけれども、死人の出ない家は、どこにも求めることができなかった。ついに求める芥子の実を得ることができず、仏のもとにもどった。かの女は釈尊の静かな姿に接し、初めて釈尊のことばの意味をさとり、夢から覚めたように気がつき、わが子の冷たい骸を墓所におき、釈尊のもとに帰って弟子となった。

 これは、和英対照仏教聖典 第4章煩悩 第3節現実の人生の終わり(p.187-189)、に記載されているものです。


 数日前、図書館に行きました。

 児童文学の棚にある「少女ポリアンナ」という一冊を取り出し、文章を読むでもなくぱらぱらとページをめくっていました。

 その女の子は、父を亡くしてひとりぼっちになり、一度も会ったことのない叔母に引きとられることになりました。

 ぼうっとしながら文章を眺めているうちに、いつの間にか、丁寧に1ページずつ繰っているわたしでした。読み終わり「ああ、こういう本だったのかぁ。おもしろいなぁ」と感じていて、心がゆらゆらと動いていました。
 その近くにあったもう一冊「ポリアンナの青春」を借りてきて楽しく読みました。

 辛い目にあっている人や悲しみに動けない人を、救う人、救う物、救うきっかけは、ひとりひとり異なると思いますし、救いとの出会いもそれぞれなんですね。

 

 今日、図書館に行ってきました。
 5冊借りてきました。

 「クリスマス・キャロル」「負けないパティシエガール」「ふしぎなバイオリン」「たれ・ソース・ドレッシング300レシピ」「MOE(宮沢賢治と藤城清治の特別ページあり)」

 すごく雑読、乱読って感じですよね。
 いつものことですが、インスピレーションという<縁>で選んだものです。
 借りてきても、読むか読まないか気分次第となります。

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