吉松ひろむの日記

高麗陶磁器並びに李朝朝鮮、現代韓国に詳しい吉松ひろむの日記です。大正生まれ、大正ロマンのブログです。

論山の弥勒菩薩像

2005年06月06日 06時43分08秒 | Weblog
論山の弥勒菩薩

 ソウル発、湖南線で約、二時間ほど車窓の風景を楽しみながら論山(ノンサン)駅に着く。ここから車で二十分もすれば百濟の古都、扶余の街にはいる。論山駅前にはタクシーが十数台客待ちしてるが、私などはすぐ日本の観光客として数人の運転手君につかまってしまう。
「ナムアミタプル!カンチョクサカジ…」これは私独特の会話であるが、すぐ運転手君はこれ以上もない大袈裟な仕草でドアをあけてくれた。
 南無阿弥陀仏(ナムアミタプル)は韓国人の仏教徒ならだれでも、そうでない人も知って居るはずだ。カンチョクサは灌燭寺のこと。 私は扶余でもそうだったが韓国の仏像のユーモラスな表情を見たくてやってきたのだった。
 仏像がユーモラスとは不謹慎かもしれないが、現実にはそうとしか言えない。
 紀元前、釈迦の涅槃を彫刻して以来、西域、中国、朝鮮、日本と仏の顔はそれぞれの民族性から違った表情に変化を遂げた。鎌倉時代前期、運慶なる天才彫刻家が現れて彫った仏像は勇魂で男性的な体躯を表現し、日本的な表情に特徴があるが、写真でみると、西域、中国、朝鮮、とそれぞれ顔に変化が見られる。
 仏像は一口に言って仏師の魂がのりうつったものと考えてよい。 カンチョクサの弥勒菩薩像は国宝で、三国時代、弥勒信仰が盛んだった影響で高麗の十世紀頃、建造されたと言われ、頭部には三米もある舎利塔?いや兜率天(とそつ天…弥勒菩薩が説法する天)を乗せている。十八米もある像とその顔の膨らんだ豊満な頬、口許と眼に独特の慈悲をふくんだ柔和な微笑がたまらない。きっと高麗の人々は大きく抱擁される思いでこの仏像を拝んだのだろう。
 私は一目見ただけでつい口許がほころんでしまった。
 日本人なら弥勒菩薩と言えば、京都、広隆寺の半跏像の顔を頭にうかべるだろうが、この弥勒像を見て微笑まぬ人は居ない筈だ。
 運転手君は前貰いした二万ウォンで顔がゆるみっぱなし、なんともいえないお人よしの顔で…プヨヘヨ!(扶余へ)ネェ、ネェ!と何度も何度頷いた。

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