ちび猫のつぶやき

宇宙人の独断と偏見なのですが、警鐘を鳴らす訳ではなく希望の光を照らす訳でもなく、ただ足下の事を皆で見ていたいだけなのです

96.ちび猫が見付けた『男女世界のつぶやき』の再現

2015-03-21 | 1000年“後ろ”の時代のお話し
第0096号


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90.ちび猫が見付けた『女と男の更新』の自由議論(2)を参照して下さい

115.ちび猫が見付けた『男女世界のつぶやき』の再現2へと続きます







平成30年度版







*男性の想いと女性の想いを同じだとして良いとする精神解放。【8月13日・月】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪男性の思いと女性の思いの違いが区別されていた事による精神疾患≫

1000年“後ろ”の時代までは。13歳以下を性的対象にするのは『ロリコン:ペドフィリア』だとか、2次元を性的対象にすると『インポテンツ:ED』になりやすいだとか、男性の生理反応と女性の生理反応の違いについてとか、男性の思いと女性の思いの違いについてとかの科学化(研究、区別)には一生懸命なのですが。{個々別な人たちの自由な『想い』や『多様性』や『更新性』に対して、その有効性には目を向けずに、反社会勢力が増長してしまうのではないかという不安(妄想)から危機感を抱く}そんな科学化によって{広く一般に、強力に}生じる『倫理道徳の試練』と、それに伴って高まる{八つ当たりでしかない}憂さ晴らしの必要性については、{不思議なくらい無責任に}全く無頓着であり。男性との対立を{一般女性へのセクハラの陰湿化を招く事をいとわず}鮮明にした女性像の放置や、女性へのモラハラ(教育:パワハラやセクハラ)を本懐だとする男性像の放置が、どれほどの悪影響(有効性の無い見た目だけの科学的進歩がすぐに破綻に至る事の野放しによる反社会的思想や勢力の拡大と同様の、人々の精神疾患の拡大)を及ぼしていようとも、その放置{触らぬ神に祟りなし:組み体操の意識の神髄}に口出しする事が{当然の禁止事項であるかの如(ゴト)く}誰にも許されていなかったのです。

しかし、1000年“後ろ”の時代からは。{ノーベル財団が先導した}科学の無責任性や、有効性の低さ(人の進歩が停滞し、自然世界の更新に取り残されてしまい、人の営みが破綻に至る)が認識され。ノーベル賞が反面教師の対象とされ始めた事により、『幸せな想い』の自由が解放され。男性との対立を鮮明にした女性像の放置や、女性へのモラハラを本懐だとする男性像の放置が、{異性の想いの中で}自粛され始めて。

そして、1000年“前(先)”の今では。男性の想いと同じ想いの女性を{男性が}想い、女性の想いと同じ想いの男性を{女性が}想うコト(幸せな想い:精神解放)で、憂さ晴らしを必要としなくても、男性と女性の{生理反応の違いはもちろん}思いの違いも{男女で}理解し合えていて。『ロリコン:ペドフィリア』や『インポテンツ:ED』などの{特殊な水槽内での研究結果として}科学化されていた話も、人の『多様性』の一つとされ、それらが集まった事による『大全体の更新』が活性して、人の営みが自然世界の中でも{破綻に至る事なく}取り残されないのであります。







*停滞のその先でも有用となる男女の在り方とは。【8月4日・土】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪停滞の構成要因となっていた男女関係≫

1000年“後ろ”の時代までは。男女間での、負の意識の、応酬の連鎖が止まらず、拡散し続け。男性の側の{憂さ晴らしの}セクハラと、女性の側の代表者によるセクハラ告発(復讐)の狭間で、女性の側の大多数(一般的な女性や少女たち)へのセクハラが{陰湿化しながら}激化し。「女性を守る」という『倫理道徳の試練』の憂さ晴らし(男性の側に欠かせないガス抜き)としてのセクハラと、そんなセクハラへの{女性の側を代表しての}復讐であるセクハラ告発の応酬の末の、{八つ当たりでしかない}セクハラの激化の被害者が、一般女性(大多数の女性や少女たち)となってしまう事の問題が取りざたされる事もあったのですが。男性の側は「女性を守る」という『倫理道徳の試練』が{「女性を守るのは自分だ」という善意の快感に浸って}どうしても止められず、{たまたま男社会に順応できた}一部の女性による{「女性の未来を担うのは自分だ」という『善意と良心の試練』からの}セクハラ告発も{機関銃を撃つような快感に浸ってしまって}どうしても無くならずに、双方が責任を押し付け合う事に終始してしまい、一般女性(大多数の女性や少女たち)にとって「黙っていればセクハラは日常的に続き、勇気を出してセクハラ告発をしたとしても、他の女性や少女たちへのセクハラを陰湿化させていると責められてしまうだけの」不快な{女性にとっては順応が難しい}男社会となっていたのです。


しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『組み体操の意識:善人の良心』から生じる『倫理道徳の試練』や『善意と良心の試練』などによる、「負の意識の、応酬の連鎖」の構図(パラダイム論が示していた進歩の停滞)が明確化され。人間が『アリ的お一人様:【大全体】の構成員』である事(オオカミ化)に於ける、『幸せな想い』の自由解放(自己努力を忘れた社会の飼い犬からの解放)の有効性が周知され。「一般女性(大多数の女性や少女たち)という弱者(進歩の無い男社会の被害者)が救われるには、男社会の構成員の男性や、男社会に順応できた一部の女性の、男社会(進歩を阻む枷)からの解放(『幸せな想い』の浸透)が必要だ」という{男女観の}認識も始まって。{男社会で生きていくのに欠かせなかった}倫理や良心によって制限(自己規制)されていた「女性が自分の体(お腹(子宮)や胸や手足など)から生じさせる、純粋な愛情と、自己発信するエロス」とか、「男性が女性のお腹(子宮)や胸や手足などに抱く、純粋な愛情と、雑念の無いエロス」とかの想いが、{セクハラとセクハラ告発が争う停滞を抜け出して}解放され始めたのです。


そして、1000年“先”の今では。倫理や良心によって人間に制限(自己規制)を設けていた停滞が{『ノーベル賞』が反面教師になっている事によって}無くなり、「女性が自分の体から生じさせる、純粋な愛情と、自己発信するエロス」や「男性が女性の体に抱く、純粋な愛情と、雑念の無いエロス」などの想いも常識となっているのですが。しかし、『ガレキの山』の様な更新する世界と、人の世との隔壁(停滞を許していた唯一神教や、近代文明)から人類が解放された為に、それにより、本当の意味での人間(人の営みや、男女の在り方)の真価(『ガレキの山』での有用性)が、ついに問われ始めているのです。







*『困った時はお互い様』を想い合える男女関係の構築。【7月21日・土】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪男女間での独善的大義名分の応酬から弱者を標的にした陰湿なセクハラが蔓延≫

1000年“後ろ”の時代までは。代表者気取りの{利己的で無責任な}者たちによる、男女間での{『とばっちり』や『尻ぬぐい』の事を考えない}独善的大義名分の応酬(口論)が、{欺瞞に満ちた正義でありながら}大々的に繰り広げられ。その{大多数の}周辺では、その憂さ晴らしをする者たちが、{それが正義だと思い込んで}増え続け。それにより、弱者を標的にした陰湿なセクハラが、{『死人に口なし』の自殺者を増やしながら}蔓延してしまい。そして、そんな{淘汰された}男女間での独善的不和が、{文明化された社会の}文明人の精神をジワジワと蝕んでしまって。{打算関係にない}男女が“譲り合って”円満に事をなしたり、{その場に居合わせた}男女が“自主的に”協力し合って事をなしたりする{建設的な}コトが、{蛮族がするような}陳腐な妥協(『異性の妥協に依存しない』という自己正当性を放棄してしまう蛮行)としか感じられなくなり。八つ当たりでしかない『自己責任論』の用い方による、男女間での{モラハラ的な}責任追及が、{人間の精神を崩壊させながら}日常化していたのです。

しかし、1000年“後ろ”の時代からは。「自分の頑張りによって『秩序ある男女関係』が支えられているのだ」というような『倫理道徳の試練:組み体操的思考』では、『憂さ晴らし』が必要(絶対不可欠)となり、結局は『男女間不和』を惹き起こしてしまうという事(人間には『幸せな想い』の自由が必要だという神秘主義)が知られるようになり。さらには、「男女間に生じる「食い物にされる」という{神秘主義に非対応の社会福祉制度に、神秘主義のジプシーがむらがった時の、ある意味では当然の}“心配”を{『真人類』の“カケラ”にとっての}共通部分(大切な事)だと{反論を個人的な例として処理し}認識(妄信)してしまったり、「女性は『特定の彼女』として個別な生き方を個々別にしていて、男性も『特定の彼』として個別な生き方を個々別にしている」という“個別性”の事よりも「どんな『特定の彼女』も男性にとっては『女性の中の一人』でしかなく、どんな『特定の彼』も女性にとっては『男性の中の一人』でしかない」という“グループ化”の事の方が有意義な事(共通部分:大切な事)だと認識(妄信)してしまったりすると、『男女間不和』を必然の事態だとしか考えられなくなり、それを正当化する事にしか関心が持てなくなって、『男女間不和』への対処には《我慢》か《逃げ》か《闘争》かの選択肢しかないという視野狭窄的精神状態に至ってしまう」というような『ノーベル賞』の弊害の余波についても知られるようになって。

そして、1000年“先”の今では。『困った時はお互い様』を{『アリ的お一人様:神秘主義』の実践として}想い合える男女関係が、{『幸せな想い』から派生する自由によって}構築されているのです。

ただし、「食い物にされる」という{社会福祉制度にジプシーがむらがった時と同じような}男女間に生じる“心配”が{対処が《我慢》か《逃げ》か《闘争》かの選択肢に至る上での必要事項の}共通認識(『真人類』の“カケラ”にとって大切な事)については、{『ノーベル賞』が反面教師になり、『組み体操的思考』が自己反省されるようになった上で、なおかつ}「指示によらずに、社会秩序によって保たれている{過剰な防護では本末転倒になりかねない事により}虚弱に作られた制度にむらがり、我先に奪い合う{自由の範疇であるハズの}行為」の自己規制を周知徹底させる為にスリ込まれて来た{特殊な}感情(意図的に形成された精神性)の一つ(間接的に派生してしまった沢山の精神性の中の一つなのだが、それらが複合して社会不安を形成していたり、民族のアイデンティティになっていたりしていて、解決が困難な場合がある)として、慎重に分析・研究が行われているのです。







*『いいですか、いいですね。』という言葉の可能性。【6月17日・日】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪『いいですか、いいですね。』という言葉の恐ろしさ≫

1000年“後ろ”の時代までは。男社会での{『いいですか、いいですね。』の《厳しい》用い方と、肯定的な返事しか認めないとする}『倫理道徳の試練』での憂さ晴らしに{些細な}セクハラをする{小人な}男達と、{一辺倒で自分勝手な『いいですか、いいですね。』の《厳しい》用い方と、相手の人格を無視した肯定的な返事しか認めない姿勢の、男以上の強引さで}そんな男達に対してセクハラ罪を{ヒステリックに}主張する{大人げない}女性との争いが{あからさまに}表面化していたが。その裏の実情は、「多くの善良な女性が、『いいですか、いいですね。』の《柔軟な》用い方を{様々に}していて、その返事に{色々な}自由(幅)を持たせてくれていたのだが、それ故に、{セクハラ罪の敵討(カタキウ)ちをしようとして勝手な解釈をゴリ押ししてくる卑劣な男たちにスキを見せてしまい}パワハラ(善良な女性が食い物にされる)に合って{苦しむ破目に陥って}しまっている」というものであったのです。

しかし、1000年“後ろ”の時代からは。パワハラ(善良な女性が食い物にされる)の実態が{重罪として}解明され始め。男性たちも、『いいですか、いいですね。』の《柔軟な》用い方を{様々に}想い、その返事に{色々な}自由(幅)を持たせるコトを楽しむ事を始めて。

そして、1000年“先”の今では。『いいですか、いいですね。』の用い方への{様々な}想像力や、その返事に{色々な}自由(幅)を持たせられるコトが、大人の男女の素養となっているのです。







*『いいですか、いいですね。』という{特別な}言葉を想う。【6月16日・土】変更

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪『いいですか、いいですね。』と{それへの}答えを語り合う≫

1000年“後ろ”の時代までは。{男女間で}異性に対しても『倫理道徳の試練』の想いを持っていて、『幸せな想い』を自由に用いるコトが無かったので、『いいですか、いいですね。』の言葉を{男女間で}想う時に異性に対して《厳しく》用いる事となり、{それへの}答えを想う時には相手に《肯定的》な返事だけを期待(要求)してしまう事となってしまい。{男女間で}異性の事を想っているだけでストレスが溜まり、{男性も女性も}実際の異性を相手にその憂さ晴らしをするコトとなってしまって。{男性による}男社会にはセクハラが蔓延し、{男性の為に在るような}結婚(男女のカップル)ではモラハラが無くならず(【ちび猫】はアニメで主人公(男)が歩く方向から女子学生たちがただやって来る場面を見ただけで{女子学生という存在に対して}邪魔だと殺意が沸き起こってきますし)。風俗の現場での男女間では、女性が男性を焦(ジ)らし、男性は大金を女性から要求されていたのです(【ちび猫】は風俗が大嫌いで{お金を出して}女性に媚(コ)びるのが馬鹿馬鹿しく思えてならなかったが何よりも{おさわりが出来るのを売りにしている水商売の店などでは特に}その金額の高額さにどうしても納得が出来ず{接待される時でも不機嫌になってしまって}プライベートで利用する気にはどうしてもなれません)。

しかし、1000年“後ろ”の時代からは。『いいですか、いいですね。』の言葉を{男女間で}想う時に異性に対して《厳しく》だけでなく《フレンドリーに》や《確認をとるように》や《生意気に》や《懇願するように》や《焦るように》や《投げやりに》や《拒むように》用いる事(色々と想いを至らせて行うコト)とし、{それへの}答えを{男女間で}想う時には相手に《肯定的》な返事だけでなく《否定的》や《戸惑い気味》や《悩んでいるよう》や《困っているよう》や《面白がっているよう》や《ウキウキしているよう》な返事を予期する事(色々な事を受け入れるコト)として(【ちび猫】はオナニーで女性や自分(男)の精神状況を色々と変えて楽しむだけではなく{街に出た時には}実際の街中の人たちの精神状況を様々に想像して楽しんでいるのです)。

そして、1000年“先”の今では。『いいですか、いいですね。』の言葉の意味と、{それへの}答えの意味の例(関係)が、男女関係での確認事項となり、{男女の}誰もが『いいですか、いいですね。』と{それへの}答えについての想いを、{男女で}様々に語り合っているのです(【ちび猫】は彼女もいない独身者ですが人間の精神状況の色々な想像や様々な分類の話しが女性と出来たら楽しいだろうなと思っています)。

追加ですが、当たり前の事として、男性が女性の頭(髪の毛)を頻繁に撫でて(撫でまわして)あげて、女性が男性に頭(髪の毛)を素直に撫でられて(撫でまわされて)あげられているのです(【ちび猫】はオナニーで女性が頭を撫でられているのを{様々な状況を想定して}色々と想うのが{レイプなどへの関心が無くなり安心できて}大好きなのです)。







*打算に付け込まれて結婚を受け入れてしまう女性の悲劇。【5月30日・水】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪『倫理道徳の試練』の憂さ晴らしの為にしか男女関係が構築できない男性の悲劇≫

1000年“後ろ”の時代までは。男社会の男性たちの{自分で自分に課した『倫理道徳の試練』で頑張り過ぎてしまう事による}憂さ晴らしの{非合法の事が合法的に行える}場が{社会を安定させるガス抜きとして}必要となり、隠蔽されていてハラスメントを容認してもらえる男女関係の{汎用的}構築と{安定的}維持が目指され、{見た目的に}女性に有利な結婚制度が作られて、それに引っかかった{自分の打算に負い目を抱く}女性が{夫からの『モラハラ』や、周囲の人間からの『セクハラ』に対して}泣き寝入りをしていたのですが。

しかし、1000年“後ろ”の時代からは。男性たちそのものが、憂さ晴らしが欠かせない『倫理道徳の試練』など必要としない『アリ的お一人様』を目指す様になり。社会そのものでも、『砂糖を食い荒らすアリたち』を手本に『捧げ物としての人の営み』の為の『指示命令系統』が取り除かれる様になって。意識の上で男女関係を縛っていた{神から連なる}鎖が、様々な国や宗教で形骸化され始めたのです。

そして、1000年“先”の今では。制度に依存し、制度に縛られる男女関係は{主従関係や対等な関係に関係なく}嫌われていて、{どの国や宗教でも}結婚は形式的なものとなっているのです。







平成29年度版







*オカシイものがオカシイと責任追及されてきた時代~3~(概要)。【7月23日・日】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪可笑しいモノを可笑しいと笑える時代へ=男女編=≫


1000年“後ろ”の時代までは。『権力者を支える科学者の側』の者達による『立派な試練』の、男性による「良い女性ほど男性を選り好みするものなので、選別を受けていないのに女性に近づくというのは、女性への失礼にあたる」や「恋愛の選択権が女性の側にあると表明しておくのは、女性に近づく時のマナーである」というような女性観や、女性による「良い男性ほど選り好みが激しいので、選別されるまでは、対象外としての振る舞いをしなくてはならない」や「恋愛の選択権が女性の側に無いと表明しておくのは、男性社会での女性の処世術である」というような男性観が、{オカシイ事に我慢する}一次の強迫観念として男女を縛り付けて、男女間に決定的な不信感を植え付け。

さらには、『庶民を扇動する知識人の側』の者達による『厳格な男女の区分』の、男性による「恋愛には子孫繁栄という大義が大前提にある事から、男性が選択権を行使するコトで、女性たちに自己研鑽(ジコケンサン)を促すというのは、とても大切な事である」や「恋愛の選択権を男性の側に委(ユダ)ねるというのは、女性による女性としての自己研鑽の結果(自信の現れ)であり。選択権を行使したがる女性というのは、得てして不安を抱えているものである」というような女性認識や、女性による「恋愛には子孫繁栄という大義が大前提にある事から、女性が選択権を行使して、男性たちに競争を促すというのは、とても大切な事である」や「恋愛の選択権を男性の側が放棄するのは、競争の結果に身を委ねる精神性の表現(自己表現)であり、選択権を手放せない男性というのは、単に臆病なだけである」というような男性認識が、{オカシイ事をオカシイと責任追及する}二次の強迫観念として男女を包囲して、男女間に無用な対立を惹き起こしていて。

男女は、その二つの強迫観念の間での「心の葛藤」や「同性間での敵対」や「男女間での疑心暗鬼」によって、[精神]も[人間関係]もドンドン破綻させてしまい。《倫理観による強迫観念》から自由になった『幸せな想い(幸せな想い合い)』の、男性による「女性は、選ばれるコトを待っているものだ」や「女性とは、『中出しSEX』をしてもらえるコトに、{結婚とは別の意味で}強い憧れを抱いているものだ」というような女性ウオッチングや、女性による「男性は、選ぶコトをしたがっているものだ」や「男性とは、『女性がイクSEX』をしてみたいと、{子作り以上に}願っているものだ」というような男性ウオッチングが、『悪魔の誘い』として危険視され、取り返しのつかない愚行の始まりとして拒まれていたのですが。


1000年“後ろ”の時代からは。オカシイ事に我慢する『権力者を支える科学者の側』による『立派な試練』の一次の強迫観念と、オカシイ事をオカシイと責任追及していく『庶民を扇動する知識人の側』による『厳格な男女の区分』の二次の強迫観念の間で、{『幸せな想い(幸せな想い合い)』が出来ないまま}男女の精神が{無自覚なまま、自由を自主的に抑制して}押しつぶされてしまい、{自虐的になったり、同性間で敵対したりしながら}男女間で様々な対立(攻撃衝動)が発生(発動)してしまうのだと認知され始めて。


1000年“先”の今では。可笑しい事を続ける『権力者を支える科学者の側』の『立派な試練』を、可笑しいコトと笑い、そんな『権力者を支える科学者の側』をオカシイと責任追及していく『庶民を扇動する知識人の側』の『厳格な男女の区分』に対しても、可笑しいコトだと笑っていて。人々は、『幸せな想い(幸せな想い合い)』を{個別に、自在に}駆使して、男女間の自然な関係を{異性の人間ウオッチングを好き勝手に満喫しながら}構築するコトが出来ているのです。







*性交の行為に拘ってしまう、厄介な存在の人間(概要)。【5月31日・水】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪性交未満を楽しめる想いから始まった、幸せな人類≫

子作り(性交)は、結婚した夫婦間ですればいいだけのコトですから、そうでない場合の女性だったら、色々な男と気楽に遊んでいいし、たとえ既婚女性であっても、もっと男に上手に抱かれるコト(性交未満)を楽しんでいいのです。男たちだって、気楽に女性と遊んでいて、女性を上手に抱くコト(性交未満)を楽しんでいるのですから。ただし、『幸せな想い』を拒んでしまい遊び心が持てないでいる{誠実であるが故(ユエ)に、性交の行為にばかり拘(コダワ)ってしまう}人間(女性も含むが、大半は男)は、{遊び相手はもちろん、結婚相手としても}決して相手にしてはいけません。そういう{ある意味不幸な}人間は、嫉妬深い上に、すぐに八つ当たりをする、{危険であるのに、本人にはその自覚が全く無い}厄介な存在だからです。

1000年“後ろ”までの時代に於いては。{男の側はもちろんだが、女性の側の大半も含めて}上記の概念が薄く、男による性犯罪が{特に目立って}常態化していて。{一部の}自立した女性が、{結婚前に子作り(性交)に至ってしまうような}厄介な存在の男になど子供の認知を求めず、『未婚の母』を{孤立無援のまま}選択するコトもあったのですが。

1000年“後ろ”からの時代に於いては。上記の事態の反省が、{女性への責任転嫁(男による一方的な反省転嫁)の事を問題視するようになった}男の側(革新勢力)から徐々に起こり始め。強い社会性を持った{それまでならセクハラやストーカーやDVなどの性犯罪の正当化に無意識に及んでいた}保守的な男たちも、「結婚は人生の墓場である」や「子育ては男をダメにする」と思い込んでしまっていた{夫である事や父である事に、自意識過剰によって過度に縛られた}事態に、少しずつ{自問して}疑問が抱けるようになり。女性が自立しやすいように、結婚後や出産後の様々な支援が、{既婚者、離婚者、未婚者、未成年者にかかわらず}多方面から{保守勢力からの妨害が撤回されて}容易に受けられるようになっていって。

1000年“先”の今に於いては。≪「多くの人間が自由の履き違えをしていて、{当然の我慢もせずに}最低限の試練さえも放棄しているものだから、人の世では何時になっても、世界中のいたる所で、諍(イサカ)いが絶えないのだ」と信じ込み、『自分こそは自由の履き違えをしないようにするのだ』という的外れな{『幸せな想い』を自粛(抑制)してしまうような}試練をしすぎてしまって、それによる{他者にも試練を要求する反省転嫁を、自己正当性の追求として、してしまうような}八つ当たりを、本当に自由を履き違えて{「世の為、人の為なのだ」と妄信して}発散させてしまう≫という{人間にとっては必然なコトだと信じられていた}愚かさの意味が、広く庶民に理解されてから久しく。男の{セクハラやストーカーやDVなどの}性犯罪の行動原理(自己正当性の追求)の解明と対策だけではなく、『宗教対立や民族対立』や『イジメやパワハラやテロ行為』などの行動原理(自己正当性の追求)の解明と対策としても既に普及していて。

そして、それと並行した課題として人間自身(人類)の【“大”全体】への復帰が目指されていて。{苦労して}上に持ち上げるコトによって{必要となった大きさや形の}“石”を{作為的に}転(コロ)がそうとするような『科学技術』や『経済活動』ではなく、{どのような大きさや形であっても}“石”が自然の中で転がり続けるような『科学技術』や『経済活動』が、{落ち着いた人類によって}自然を助けながら目指されているのです。







*性犯罪が続発していた事に思うコト(概要)。【5月2日・火】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪正義感な男や、純心な女の子(女性)に思うコト≫


1000年“後ろ”までの時代に於いては、「男にとって、女の子(女性)を遊びに誘ってあげるというコトが大切であり、女の子(女性)にとっては男から遊びに誘ってもらったという事が重要でありまして、男が断られてしまうという事や、女の子(女性)が断ってしまうというコトなど、大した事(問題・事態)ではないのである。なのに、何もしない為の{正義漢の}男の苦労を女の子(女性)に八つ当たり(逆恨み)したり、何もされない為の{純心な}女の子(女性)の苦悩を男に八つ当たり(逆恨み)したりし、それを男女でぶつけ合ってしまって、ついには悲惨な性犯罪事件に至ってしまう。」という様なコトが続発していたが。

1000年“後ろ”からの時代に於いては、男が正義漢でいようとしたり、女の子(女性)が純心さを示そうとしたりする偏りに縛られないよう、自由に『幸せの想い』を{みんなが個別に}追求し始めて。

1000年“先”の今に於いては、正義漢を目指す男も、純心さを示そうとする女の子(女性)もいなくて、性犯罪も激減しているのです。







*自分だけの特別な男女関係の想いに封じられていた男性たち(概要)。【3月25日・土】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪一般的な男女関係の想いを“勝手”に想う『幸せな想い』≫


1000年“後ろ”までの時代に於いては、{古典的倫理による強迫観念に捉われて}正義感を抱いてしまう少なからずの男性が、男女関係に於いて自分だけの特別な想い(特殊な世界観)を思ってしまやすく、一般的な男女関係の想い(自分にとっての『幸せな想い』)に罪悪感を抱いてしまいやすくて、どうしようもなく{正義の執行(試練)としての}性犯罪の衝動に{悪魔の囁きに襲われるように}駆り立てられてしまって、{そんな彼らが後ろ向きで見た「自分たちの行為(身近な男女関係)が{ブロック積みのように}積み上げられていく{“以後”と表現される}未来」を憂いての}性犯罪行為が{生物としての人類に於ける必然であるかのように}多発していたのですが。


1000年“後ろ”からの時代に於いては、『特殊理論的思考の世界観』による『一般理論的思考の世界観』を{罪悪として}拒絶する正義感(強迫観念によるモノ)が惹き起こす{魔物によって人間が突き動かされるような}破滅行動や、【更新する無限に多様な“大”全体】を利己的(恣意的)に切り崩してしまう【部分解禁】による{人間が思い、行動するコトによって出来上がっている}物事の{自然から拒絶されてしまう}破綻の{必然のような}繰り返しの原因究明が始まり。

≪後ろ向きの時間認識で《思い描いた『人の営みの歴史』》を未来として見てしまうコトにより、想いを一般化する“勝手”による《自分にとっての『幸せな想い』》に{『人の営みの歴史』である未来への貢献の為に《倫理を守ろうとする『試練』》に取り組むべき人間としての}罪悪感を{当然のモノとして}抱いてしまって、特殊化した想い(自由に『幸せな想い』を想うコトを拒んで『試練』に耐える「惨めな自分」という想い)に封じられてしまい、それに対する{「倫理による損を押し付けられた!」という}反発心(周囲への「倫理を守っていない!」という八つ当たり)が悪魔の囁きのように沸き起こってきて、人間は個々の立場に由来する想い(悪意を誘発させる妄想的正義感)で独自に敵意を抱き、違う想いの者たち(自分の{無自覚な}都合で他者への悪意を{正義感から起こっているモノとして}発動させてしまう人間たち)どうしが{想定した他者を相手に}争い合う。≫というコトの反省も進んで。


1000年“前”の今に於いては、《人間の破滅行動(想定した他者を相手にした争い)》や《{【部分解禁】を繰り返す}人の営みの破綻の繰り返し》に対しての{『ロール紙の世界観』によって{『人の営みの歴史』だと思い込み、“以後”が{ブロック積みのように}積み上げられて行く{人間(自分)の“勝手”が破綻を招いてしまうような}限定されたモノとして認識して来た}未来を人間(自分)による影響が及んでいない“前”と表現する時間認識による}効果的な対策{『人の営みの歴史』とされていた未来観からの解放による“勝手”の解放}が可能となり、ほとんどの男性が{人間(自分)による影響が及んでいない未来を“前”として見られる事によって}一般的な男女関係の《自分にとっての『幸せな想い』》を{安心して}“勝手”に想えるようになっていて、性犯罪が激減しているのです。







*「女性を理解し守るんだ」と言う男が女性の敵となる(概要)。【3月19日・日】

1000年“後ろ”の、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪「男性は女の為に居てくれる」と想える幸せな女性≫

1000年“後ろ”までの時代に於いては、「自分勝手で傲慢で、横着者でお金に卑しく、嫌いな男性にも媚びてくる卑しい存在であったとしても。そんな女性を、男は優しいモノと理解し、守らねばならない」というような古典的倫理観で自分を縛る強迫観念を{試練として}抱き、「女性一般に対しての、自分にとっての最も幸せな想いというモノを{各男性が自由に}模索する」という『幸せな想い』を{試練を回避する不正義として}拒んでしまい、「特定の女性に対しての、{倫理観を持った}自分が幸せに思うコト(正義)を追求する」という事(試練)に{慢心し}捉われてしまって、多くの男性が特定の{身近な}女性を標的にした性犯罪に{正義の名目で}駆り立てられてしまっていたのですが。

1000年“後ろ”からの時代に於いては、「特定の正義{宗教やイデオロギーなど}に捉われずに、各自が各個に最も幸せな想い(世界観)を{個別のモノとして}自由に模索する」という『幸せな想い』が、広く{広義に於いても有用なモノとして}一般化し始め。

1000年“前”の今に於いては、「女性一般に対しての、自分にとっての最も幸せな想いというモノを{各男性が自由に}模索する」という『幸せな想い』と、「男性一般に対しての、自分にとっての最も幸せな想いというモノを{各女性が自由に}模索する」という『幸せな想い』による、『幸せの想い合い』が一般化していて。「女性は男の為に居てくれる」と想える幸せな男性と、「男性は女の為に居てくれる」と想える幸せな女性とが、世界中の平穏と繁栄の中で共存しているのです。







平成28年度版







*性犯罪の意識が性犯罪者を増やしていく(概要)。【12月16日・金】

1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪想いの自由(勝手)がタブー視された犯罪者天国≫

『古典的な倫理』そのままの「女性は貞操を守るものだから、淫らなモノだと想ってはいけなくて、《女性が貞操を守るコト》への協力を怠ってはならない」という性犯罪の意識(強迫観念)に囚われてしまい、{その反動から}そんな女性(イメージ)に反発する性犯罪的行為(自慰)をしてしまっていて、その言い訳に「嫌がる女性に性欲をそそられるのが男性であり、それに応じるのが女性という存在である」と言っている{『試練の想い(想い合い)』に陥った}男性がほとんどとなり。

風俗で働く女性を{男のお金を食物にしている}悪者のように想い、ヤクザな男(ヒモ)に捕まっている話しで{日頃の《女性が貞操を守るコト》への協力でイライラしている事の}憂さを晴らすような男性ばかりになってしまっていて。

その矛盾に男性自身がまったく気が付かず、{性犯罪の被害者となる側の}女性からは《女性が貞操を守るコト》への協力を求めるコトしか出来なくて、性犯罪が無くならなかったのです。


『古典的な倫理』による強迫観念から解放され、可笑しな『試練の想い(想い合い)』の矛盾に人々が気付き、男女が自由(勝手)に『幸せの想い(想い合い)』を想っている1000年後の今では、性犯罪が{自然消滅的に}激減しているのですが。1000年前には、『幸せの想い(想い合い)』がタブー視され、男女関係は混迷を極めていて、人々はどれほど苦労し苦悩したことでしょうか。







*『性欲の強さ』や『性的嗜好』は問題ではないのです(概要)。【12月10日・土】

1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪性犯罪を《社会への滅私奉公》だと確信する可能性は誰にでもある≫

多くの人たちが『H』な感情だと思い込んでいた気持ちの正体とは、『古典的な倫理』による強迫観念から生じる『試練の想い(想い合い)』の一種であり、本当は「自分自身で『自己』を破綻に追い込んでしまっては、その逆恨を周囲の異性に向けて発散する」という精神的自慰行為に耽(フケ)っていただけでありまして。その繰り返しに{不用意に}陥ってしまった人は、異性に対して{自分で自意識に高潔な試練を課しているコトへの反発(反動)として}一方的に試練を課しては、その試練が実施されていない{当然の}事態に際して低俗な罰を{自分が試練を実施しているコトへの正当な見返りとして}求めてしまうようになり、『セクハラ』や『ストーカー』や『DV』などの性犯罪が{自分の行為が試練に鈍感な異性(異性たち)への警鐘となる《社会への滅私奉公》であると確信して}重大な事態に行き着くまで止められなかったのです。


1000年後の今では、『古典的な倫理』による強迫観念から生じる『試練の想い(想い合い)』の重大な弊害が認知され、自分にとっての『幸せの想い(想い合い)』をする自由が解禁されて、性に関する『想い』への枷(カセ)も一切無くなっているので、{『想い』の自由が世界中の教育現場などで周知徹底されていて}性犯罪が重大な事態に行き着く事は少ないのですが。『性欲の強さ』や『性的嗜好』などの{個人的で}個別な事が性犯罪の原因となっていると{誰も異論を唱えないまま}考えられ、『古典的な倫理』が社会の中で{不用意に}徹底されて、各個人が『試練の想い(想い合い)』による性犯罪の回避に{安易に}努めていた1000年前には、{強迫観念が人々の精神を蹂躙(ジュウリン)していて}重大な事態に行き着く性犯罪を犯してしまう可能性が誰の身にもあったのです。







*男女関係が【多様性】を失っていく顛末(概要)。【10月20日・木】

1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪『多様性のステップアップ』から離脱した男女関係の転末≫

【多様】な男女が自由に男女関係を想う《男女関係に於ける『幸せの想い・想い合い』》というのは、人間が『生きた水』という『多様性のベース』の拡大から【薬品耐性水】という【多様性】を得るという具体的な経験を身近な所でする事によって、【更新する無限に多様な“大”全体】の概念を必然的に獲得し、その後次々と《一般理論としての『E=mc²』》や《反面教師としての『パラダイム変換』》や《労働者に『お金』が循環していく為の投資市場》などの理念に至る『多様性のステップアップ』に於いて、同様に至れるハズのモノであるのですが。1000年前の〔人間世界〕では、酵母菌などを単独に近い形で利用する{個々の【更新機能】を利用する【部分解禁】の}発酵のノウハウは在っても『生きた水』から様々な【薬品耐性水】を作って利用する{『多様性のベース』を拡大させるという}発想はまだ無く、必然的に【更新する無限に多様な“大”全体】の概念の獲得も無くて、様々な理念に至る『多様性のステップアップ』など『夢のまた夢』の状況にあった訳ですから、《男女関係に於ける『幸せの想い・想い合い』》という理念にも{当然}至れずにいて、『試練の想い・想い合い』の強迫観念に男女関係が縛られた事による{セクハラや性犯罪などを引き起こす}性差別意識の蔓延が{ピークのまま}常態化していたのです。







*男女に於ける【部分解禁】の顛末(概要)。【10月19日・水】

1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪男女に於ける『試練の想い・想い合い』の強迫観念の転末≫

昔から人間は、{本来は【“大”全体】(『幸せの想い・想い合い』に至れるような《個別の自由》を重視する概念)に於いて行われるハズのモノであった}性欲に於いても【部分解禁】(古典的な倫理によるモノ)を目指していて。それにともなって、{『多様性のベース』の縮小にともなう}個々の『部分暴走』(『試練の想い・想い合い』の強迫観念によるモノ)に人間社会は悩まされていたが。それを、{破綻(排除の論理)が増すだけの}さらなる【部分解禁】(より近代的な道徳によるモノ)によって解決しようと世界中が躍起になっていて。1000年前の〔人間世界〕に於いて、その破綻(排除の論理)はピークとなり、セクハラや性犯罪などを引き起こす性差別意識が世界中に蔓延していたのです。







*男女が『試練の想い(想い合い)』に縛られた顛末(概要)。【10月12日・水】

1000年前としての、「ススケタ所でススケテいた人間」のお話しです。


≪『試練の想い(想い合い)』に縛られた文明の転末≫

昔から人間は、「相手を{影では}敵視していながらも、面と向かってはニコニコする」という事を《みんなで克服すべき試練》なのだと{近代の道徳書や古典の倫理書にも《『試練』を克服する重要性》が書かれているものだから}安易に思い込みやすく、《試練を求め、試練を相手に求める『試練の想い(想い合い)』》というのは文化的生活をする文明人(たち)に欠かせないモラルだと信じ込まれて来ていて、「ついにはプッツンしてしまう」という精神病に病む人が{エリートたちほど}後を絶たなかったのですが。こういう文明病の特徴は、{特に}男女関係に於いて顕著に表れていて、男女の平等が謳(ウタ)われる社会ほどセクハラは陰湿化しやすかったし、傍(ハタ)から見て仲が良さそうに見えたカップルほどDVが激化しやすかったのです。







*「女性は男性の味方だ(!)」という幸せな想い。【9月13日・火】

これは 1000年前としてのお話しです。


≪性犯罪という概念が男性に女性への過度な警戒心を抱かせた結果≫

昔々のある時期から、【男性たち】は、≪性犯罪という概念による『畏縮』への強烈な反発心から作り出される、『付け上がっていく女性への警戒心』による、{思い上がった}女性への{卑劣を承知しての}八つ当たり≫をしてしまうような、男性が{善人ぶって}罪を受け入れてしまう『試練の想い』による、{強迫観念に侵(オカ)された}弊害を自覚し。{男性の}独善や偽善を承知で、「女性は男性の味方だ(!)」という『幸せな想い』を努めて想い始めて、【女性たち】との《幸せな関係》の認識の構築が目指されて。{『幸せの想い・想い合い』が《多様性のベース》の“拡大”の起点となっての}多様な男女関係の確立が、始まったのですが。

それ以前は、《性犯罪の厳罰化》が{善人気取りから}進行すればするほど、男性たちにより{思い上がった}女性への制裁が強硬に主張されて、性犯罪が増える一方であり。男性が一律に思い描く一様な男女関係が、【男性たち】によって、強行されていたのです。







*1000年前の性犯罪の正体。【7月10日・日】

これは 1000年前としてのお話しです。


1000年前には、まだ{誰もが自由に「『お代官様娘』などのような女性の存在」を個別に想うコトが解禁された}『幸せの想い・想い合い』がまったく普及していなくて、{画一的な“善”だけを守りそれ以外の多様な“悪”は自粛すべきだとする}『試練の想い・想い合い』がまだまだ一般的であった上に。

男性向け成人誌(DVDなど)では淫らな存在の{フェラチオを好み、オナニーでよがり、バイブで喘(アエ)ぎ、アナルで悶(モダ)え、SMで感じてしまう}女性とそんな女性に制裁を与える有志の男性が一律一様に描かれていて、{試練に耐えていた}男性による{自由をはき違えた高慢ちきだというレッテルを張られた}女性への攻撃衝動が愛情の現れ(愛情表現の一つ)であり、それを許容できるのが{愛らしい}女性らしさというものだと、{男性ばかりか女性までも}勘違いしたままでしたから。

「“善”の名の下に“悪”が制裁を与えられる」という構図の性犯罪が{男性によって}横行し、無数の性犯罪が{女性によって}容認されていたのです。


その為、その当時の男女関係というのは、《女性への攻撃衝動によって自己破綻する男性》と《男性の攻撃衝動に委縮して閉塞する女性》との{あるべき多様な関係からかけ離れた}
[休戦]か[臨戦]かの{極端な}関係でありまして。

1000年後の今から見れば、{我慢やイライラが多くて}不自由な関係であったと言えるでしょうね。







*『カワイイ』の文化が人間を解放する。【5月30日・月】


男性用の{成人向け}書物や映像を見てみると、そのほとんど全てが「女性とは淫(ミダ)らな存在であり、{放っておくと}試練に耐えている清い男性を誘惑してしまうので、その{抑止の為でもある}制裁として{有志の男性からの}洗礼を受ける」という形式あり。利用者の男性は、日頃の平穏の為の試練に耐えてイライラを募らせているので、その存在が淫らである女性を{フェラチオを好み、バイブで喘(アエ)ぎ、アナルで悶(モダ)え、SMで感じるように描いて}卑(イヤ)しめ、{貞操とは無縁の快楽に耽(フケ)るコトに罪悪感など持っていないように描写して}貶(オトシ)めて、その憂さ晴らしをしてもらうという{編集方針の}作りでありますが。読者や視聴者はその利用によって、逆に日頃の平穏の為の試練に耐えるコトに{精神的に}追い詰められてしまい、どんどんイライラを募らせてしまって、結果的に{DVやストーカーやセクハラなどの}性犯罪に駆り立てられてしまうのであります。

さらには、こういった独善的な「試練の想い」で自分自身を追い詰めてしまうコトを{お互いが}してしまう『試練の想い合い』を、世界中の民族や宗教や国家がすれば、テロや虐殺や戦争になりますし。特定の会社内や組織内ですれば、イジメやパワハラやモラハラになってしまうのです。

なので、以前から言ってきた、【幸せの想い合い】がとても重要でありまして。独善的な「試練の想い」で自分自身を{イライラが募るほどに}精神的に追い詰めてしまってしまう様な事はせずに、自分にとっての「幸せな想い」を{試練から逃げる悪いコトだと拒む事なく}自由に出来るコトが、人間には必要なのであります。


今の日本には、『カワイイ』の文化というのが在るのですが、そういう{非試練な}想いに浸れる自由が{精神的な平穏を得る上で}大切でありまして。多くの男性が成人向けの書物や映像などから得られる、「淫らな存在の女性を卑しめ、貶めるという洗礼を行う、{日頃は試練に耐えている}有志の男性」としての疑似体験では、どうしたって{一方的に男性が試練に耐えるコトによる平穏というモノに}イライラが募るばかりで、{DVやストーカーやセクハラなどの}性犯罪が多発して当たり前なのであります。

世界中の宗教を見渡しても、自分が試練に耐えるコトばかりが勧(スス)められていて、これでは{精神的に追い詰められた信者によって}テロや虐殺や戦争が無くならなくて当然です。【ニーチェ】のように、『神は死んだ』と言えて、{自分で自分を追い詰める}試練から人間が解放される時は、何時になったらやって来るのでしょうか。







*戒めの常識化による性犯罪やDVによって男尊女卑が蔓延する。【4月4日・月】


日本に於ける男女関係の{比較的厳しい}戒めは、{儒教を元にした形で}日本人にとっての常識となっているのですが、それが{かえって}男女間に危機を生み出していると言えまして。世界中を見ても、宗教や風習を背景に男女関係の戒めが一般に浸透していて、{権力による規制や一方的な法律によるものではなく}その地域の庶民の常識となっている場合ほど、性犯罪やDVが深刻であり、女性の自由や教育が{我慢を強いられている}男性を納得させる為に{バランスを取って}制限されていて、女性の社会進出が{身を守りたい}女性自身の手によって{取り引きとして}閉ざされているのです。

それは、{近代的な}法規制と{男尊女卑な}男の本能とでイタチごっこをしている{解決が困難な}問題と言われていながら、実は{男性に限らない}人間の内面での{心の振り子が野放しになっているコトよる}悪循環が問題となっている{単純な構造だが男女で少し違う}モノでありまして。{男性が女性の味方となる為の『幸せの想い合い』である}男性が想うべき「男あっての女の幸せ」が、戒めの常識化(盲目的な受け入れ)によって{導きを追うべく、観念論的に}男性にとっての自己反省の対象とされ、{女性が男性の味方となる為の『幸せの想い合い』である}女性が想うべき「女あっての男の幸せ」が、男性によって思われて(考えられて)しまうコトによって{破綻を警告すべく、唯物論的に}女性の傲慢として意識(認識)されて、{そんな心の振り子を繰り返す}男性側からは{男が得意とする唯物論が合理的に選択されて}男尊女卑が{破綻への警告として}提案されまして。そして、{女性が男性の味方となる為の『幸せの想い合い』である}女性が想うべき「女あっての男の幸せ」が、それを受けて{導きを追うべく、観念論的に}女性にとっての自己反省の対象とされ、{男性が女性の味方となる為の『幸せの想い合い』である}男性が想うべき「男あっての女の幸せ」が、女性によって思われて(考えられて)しまうコトによって{破綻を警告すべく、唯物論的に}男性の傲慢として意識(認識)されて、{そんな心の振り子を繰り返す}女性側からは{女が得意とする観念論が感情的に選択されて}男尊女卑が{導きを追う上での自己反省として}受容されるのであります。


日本のテレビでニュースなどを見ていると、{国内外を問わず}容認せざる事件として『悪質な性犯罪やDVの多発』や『文化レベルの低い女性差別の横行』が{日本人のさらなるモラル向上の為に}猪突猛進で報道されていて、当然の戒めを破った非難の対象となるモノとして{日本人の標準的モラルは世界水準以上だと言いたいが為に}盲目的に解説されていますが。こんな、心の振り子についての配慮に欠けた日本社会の、『幸せの想い合い』を拒絶している日本人では、{性犯罪やDVにより男尊女卑が蔓延する}男女関係の問題を悪化させるコトはあっても、改善させるコトなど決して出来ないのであります。

皆さま、自分のモラルや周囲の戒めの向上に一生懸命になりすぎては、男女関係の問題が悪化するばかりです。まずは、物見遊山での見物と洒落込み、そして『幸せの想い合い』を充実させましょう。







*男女の『不幸の応酬』と世界平和の危機。【2月28日・日】


『淀み』の中の{個の“小”さな反発作用を利用している}“人工流”に対応して、“小”さな『流れ』での異変対応が{個の“小”さな反発作用が暴走して}起こるのが、“漏流”という『部分暴走』であり。『淀み』の中の{個の“小”さな反発作用を利用している}“人工流”に対応して、“大”きな『流れ』での異変対応を{“大”包括し、変動的に}起すのが、【更新する無限に多様な“大”全体】を体現していて{“本流”である『生きた水』を“人工流”に対応させて作られる}【薬品耐性水】と広義で呼ばれる“更新流”でありまして。

その“漏流”と“更新流”の違いとは、『薬品耐性病原体』と【薬品耐性水】の違いであり。物理学で言うと、《既存の物理学を非変動的に用いて核エネルギーを“小”利用しているコトによる、放射性廃棄物の発生という“小”さな反発作用の暴走》と《『E=mc²』を“大”原則とした『“大”包括的物理学』の変動的な再構築と普及》の違いであり。経済で言うと、《貧富の差を非変動的原動力として経済を“小”発展させているコトによる、反動勢力の発生という“小”さな反発作用の暴走》と《ゲームでの『カード(駒)』のように『お金』が“大”分配される『“大”包括的経済ルール』の変動的な構築と周知》の違いでありますが。

しかし本当に問題なのは、『淀み』の外に埋もれている{広義な意味での}『生きた水』をいくら掘り起こせたとしても、{広義な意味での}【薬品耐性水】を作り出して“更新流”を起こす《“大”きなコト》を、誰も『淀み』の中では{出来ないというのではなく}拒絶してしまう事であり。過去に幾多の偉人・賢人が、“更新流”を起こす《“大”きなコト》の重要性を発表し表明して来たが、その全てが歪められてしまいましたし。最近の日本では、【小保方 晴子】さんの『STAP細胞』がスケープゴートされて、『iPS細胞』の盗品として警察が捜査を{今も}続けるという{魔女裁判の}事態が起こっていまして。

人間の周囲で起こっている事象や人の営みのほとんどが、{人間が必至に守っている}『淀み』の中の“人工流”と“漏流”とが相互に対応し合って起っている《“大”更新を構成する個の、ストレスに対しての反発作用》の{“漏流”に対応しようとして【無限な多様性】を切り崩してきた}【部分解禁】か{“人工流”に対応しようとして、『反発作用』が暴走する}『部分暴走』のどちらかでしかなくなっていて。『淀み』の外には、“本流”である{『淀み』を包括している}『生きた水』が存在していながら、{学問化を駆使して開発してきた“人工流”の有用性が失われるのを恐れて}『淀み』の中へは持ち込まれずにいて、その真骨頂である{“本流”を『淀み』の中で運用するコトによって“更新流”を発生させる}【薬品耐性水】の変動的な作成・運用が{魔女裁判への恐怖によって拒絶されたまま}停止してしまっているのであります。


そしてこの事は、人間の幸せにも共通していて、自分の事を幸せであり、他者の事を幸せな人なのだと思える包括的な想いを{人間の営みという}『淀み』の中に持ち込み、変動する人間関係に対して変動的に対応させられれば、「自分は{色々と}不幸だが{肯定的に決め付けて}よく頑張っていると思い、他者は{色々な意味で}不幸で{否定的に決め付けて}哀れだと思う『不幸の応酬』を生み出す、負の感情に押し流される“漏流”」というモノが解消されて、世界中の人間が精神的な幸福に近づきますし。

さらに男女の幸せに於いては、{異性に対した時に}自分の事を幸せであり、異性の事を幸せな人なのだと思える包括的な想いを{人間社会に特有の男女関係という}『淀み』の中に持ち込み、変動する男女関係に対して変動的に対応させられれば、男女間の“漏流”による『不幸の応酬』が解消され、しいては人間一人一人の負の感情も解消されて、世界中の人間社会から争いが激減して行くのです。

すなわち、人間が世界中で争い続けてしまう世界平和の危機の主原因は、実は男女が『不幸の応酬』をしているからでありまして。自分は幸福であり、異性も幸福なのであるとさえ想えれば、世界は平和なのでありますが。文化的業界や性産業界が、《男女の不協和音的関係》や《異常な性癖》を個人の『性の解放』や『性的嗜好』としてもてはやすものだから、人間は『淀み』での“人工流”に執着し、“漏流”による暴走に脅かされてしまい、世界中で争いが何時までも絶えないのであります。







*男女関係に於いての高過ぎるモラル。【2月14日・日】


男女関係に於けるモラルというのは、それを人間に守らせる為に、{【更新する無限に多様な“大”全体】が切り崩されるだけの《ストレスに対しての『“個”の反発作用』の単独暴走》のノウハウを蓄積していく事による『擬似進化現象の為の学問化』と同じ様に}過剰に強化されてしまっていると。それによって人間は、《【“大”全体】の根幹であり【無限な多様性】の可能性を持っている『生きた水』》ではなくなるように【更新する無限に多様な“大”全体】を見失ってしまい、{他に目が向けられないまま}悪意が沸き起こるような《ストレスに対しての『“個”の反発作用』の単独暴走》を起こしてしまって、{何の抵抗も出来ずに}悪意のままに言動が発動する『破綻の進化(雑菌化)』を驀進(バクシン)してしまうのです。

すなわち、男女関係に於けるモラルが高過ぎてしまって、それに人が苦労してしまうようだと。それによる《ストレスに対しての『“個”の反発作用』の単独暴走》によって悪意の沸き起こりが起り、その感情に{誰も}疑問が抱けないまま、そんな悪意のままの言動が{みんなが同様に}良心によるモノとして発動させてしまって、{高過ぎるモラルによるフラストレーションを発散させる八つ当たりとして}男性による女性差別や女性による男性蔑視が{人々の中で広く}受け入れられてしまうのです。

その為に日本でも、男女関係に於けるモラルが高過ぎてしまって、{フラストレーションの発散として}男らしさというコトに執着(シュウチャク)する男性が{八つ当たりでしかない}女性差別を主張して、女性の社会進出が遅れたり独身女性が貧困に陥ったりしてしまい、{フラストレーションの発散として}女らしさというモノに拘(コダワ)る女性が{八つ当たりでしかない}男性蔑視を主張して、女性の結婚年齢が上昇し続けたりシングルマザーが増加し続けたりしてしまっているのです。


人間が、《【“大”全体】の根幹であり【無限な多様性】の可能性を持っている『生きた水』》である為に、異性との{男女関係に於ける}『幸せの共感』を実現し。さらには、《【無限な多様性】から生じる【“大”全体の更新機能】の発動としての【薬品耐性水】》の実践として、異性との{男女関係に於いての高過ぎるモラルによる}『苦労の共感』を『幸せの共感』の中に取り込めれば。{男女関係に於いての高過ぎるモラルへの反発が暴走するコトによる}女性差別や男性蔑視といった感情が{たとえ}起っても、それが悪意のまま言動に移されるのは間違いだと{直ぐに}判断されますから。『破綻の進化(雑菌化)』による男女関係の社会問題は、{男女関係に於けるモラルについての}特別な政策が行われたり罰則が設けられたりしなくても、解消されて行くものなのです。

しかし日本では、男女関係の社会問題を解決するのに、{お役人による点数稼ぎと責任回避の常套手段として}男女関係に於けるモラルをさらに高める事が{盲目的に}行われていて。日本に於ける男女関係の社会問題は、{将来にわたって}解消される見込みがまったく無いのです。


そして、こういった男女関係の社会問題の悪化は、イスラム圏などの世界中で{当たり前のように}起こっていて。さらには、それによる実害を受けるのは、{日本でもそうだが}たいてい女性でありまして。権力者の点数稼ぎや責任回避に振り回されての、世界中の多くの女性に降り掛かる苦難に対し、{答えは出ているのですが}世界中の男女の一人一人が型にはまらず思索してみてはいかがでしょうか。


P.S.:『生きた水』とは、『汚れた水』などではありませんし、「綺麗な所では人間の抵抗力が育たないので、あえて汚れた所を用意する必要がある」という様な話しのモノでもありませんから。男女関係についても、「モラルを守るのが良くなくて、モラルが無いのが良いのである」などと{『破綻の進化(雑菌化)』に陥ったままで}言っている訳では決してないのです。

「そういった、『破綻の進化(雑菌化)』に{安易に}陥らない為に、男女の一人一人がもっと【“大”全体】にも目を向けて{異性との『幸せの共感』や『苦労の共感』の意義を実感しながら}色々と考えてみてはどうでしょうか」と言っているだけなのです。


P.S.2:また『生きた水』とは、『EM菌』などとも違っていて、「人間が化学作用で作り出したモノだけでは弊害が出てしまうので、もう少し多様性を追加する必要がある」というような話しなどでもなくて。男女関係の話しでも、「厳格なモラルで一様な男女の在り方が追求されるのは良くなくて、アバウトなモラルで様々な男女の在り方が在る事が良いのです」などと{ガス抜きの効果やウケを狙って}言っている訳でもありません。

「そのような、その場しのぎによる{破綻の積み上げとなる}失敗の繰り返しを終らせる為にも、男女の一人一人が{【“大”全体】というモノについての認識を確(シッカ)りと持って}更新する多様性のようにもっと自由に思索するコトを、異性との『幸せの共感』や『苦労の共感』の意義を実感しながらしてにてはどうでしょうか」と言っているだけなのです。







・平成27年度版







*自分も幸せ、君も幸せ、みんなも幸せ。【11月27日・金】


自分の事が幸せ者だと想えなくては、相対している身近な人の事を幸せだとは想えないし。自分も身近な人も幸せだと想えなくては、世界中のみんなの事を幸せだと想う事は出来ません。

{自分を含めた}誰も彼もが幸せだと想えないから、目には見えない[不信感]や[嫌悪感]や[敵意(悪意)]などが心の中で発動し、それがおかしな『性的嗜好』となって現れてしまうのですが。そんな『性的嗜好』を、誰も彼もが《自由の象徴》や《自尊心の発揮》などと思い込んでしまい、勘違いしたまま積極的に発揮させてしまうものだから。多くの人間が、抗(アラガ)いようの無い[不信感]や[嫌悪感]や[敵意(悪意)]などに陥(オチイ)ってしまい、この歪んだ人間社会が構築されるに至ってしまったのです。


しかしまあ、この〔世界〕の真理である【更新する無限に多様な“大”全体】は、気長に人間の参加(復帰)を待ってくれていますし、真実である『一般理論的思考(世界観)』が消えて無くなる事もありませんから。皆さん、『自分も幸せ、君も幸せ、みんなも幸せ』と想って、この〔世界〕の成り行きを一緒に見物しようではありませんか。





*「異性が幸せであれば良い」と想い、待ちましょう。【11月13日・金】


異性が幸せであるという事には、とても大切な意味が在って。性的嗜好性による興奮を、ファッションのように{あり合わせや、流行を参考にするように}自由(場当たり的)に求めてしまうと、人間に精神の不安定が起こり、社会不安が惹(ヒ)き起こされてしまうのです。

性的嗜好性が大事だと嗾(ケシカ)けられて、多様な性的嗜好を満たす為の産業が繁盛しているのですが。その見返りに、人間はイライラしやすくなり、社会は混迷を深めていくのです。「異性が幸せであれば良い」という、たったそれだけの想いが見付けられないばかりに、人間は苦悩し、人間社会は惨劇を繰り返すのです。

しかしまあ、そんな事を押し付けるのも野暮な話しなので、みんなが気付くのを待つ事に致しましょう。「異性が幸せであれば良い」という想いが利権化されたり、消失してしまったりする訳ではありませんからね。





*性病と【薬品耐性水】と《幸せな存在である女性》。【10月26日・月】


女性にとって、フリーSEXや風俗業が幸せなモノであって欲しいと思っても、この人間世界には性病というモノがあって、いくら医療技術が進歩しているとは言っても、脅威である事は昔からあまり変わっていないようで、性についての行いが秘め事にされる理由の一つに今も上げられています。なので、性病の問題がより安全にクリアーされるという事は、《恋多き女性》や《風俗で働く女性》にとつての幸せであり、女性が『幸せな存在』であるコトの為にはとても重要な事なのであります。

また、男性にとっての《幸せな存在である女性》という想い為にも、性病の問題がより安全にクリアーされる事は、どうしても欠かせない事でありまして。可笑しな『性的嗜好』というモノに多くの男性が{精神を病んで社会に問題が拡散してまで}夢中になってしまうのには、{どうやら}性病の問題が男性の性意識に暗い影を落としているコトが、深く関わっているようなのです。


【ちび猫】は医者では無いので、医療行為をすると罰せられてしまいますから、医療行為は致しませんが。当ブログの様々なページで何度も言ってきているように、『殺菌・消毒』に重度に偏重した近代医療では、病原体との戦いは熾烈を極めるばかりで、その煽(アオ)りを受けて大変な思いをするのは何時も一般の患者なので、それを何とかしたいと思っているだけなのです。

まだ一週間も経っていない話しなのですが、【ちび猫】自身も扁桃腺が大きく腫れて高熱を出し、薬によって苦しい思いをしたばかりでありまして。その時には、{鏡を見るとノドが赤く腫れていたので}扁桃腺専用の薬を夕食後に服用したところ、深夜に様態がドンドン悪化してしまったので、急ごしらえで《ノド用のクスリ(消毒薬)を『生きた水』に{数万倍に薄めるレベルで}微量入れただけの【薬品耐性水】》を作ってノドに噴きかけてみると、朝までに劇的によくなりましたし。その翌日にも、母親からもらったノド用の医薬品トローチを何気に舐めたところ、ノドに激痛が走って口から吐き出すという事もありまして、結局扁桃腺は急ごしらえの【薬品耐性水】と栄養剤で{寝込む事もなく五日間で}治してしまいました。

性病に、『生きた水』や【薬品耐性水】が有効だとは、{逮捕されたり、賠償を請求されたりするのは御免なので}断言はしませんが。『生きた水』と【薬品耐性水】の問題というのは、【更新する無限に多様な“大”全体】と『一般理論的思考(世界観)』についての問題でありまして。{本来は広く人間の営み全般に関わることなのですが}医療について言うなら、『近代科学』の大原則である『リセット』にあたる『殺菌・消毒』に対しての、弊害という言葉では言い尽(ツ)くせない罪悪の検証が、医療行為などの中からされる必要があると、{ちょっとだけ}言いたいだけなのです。


しかしまあ、更新する無限に多様な“大”全体】と『一般理論的思考(世界観)』についての理解が進み、医療の世界で『生きた水』と【薬品耐性水】が活躍するようにならなれば、性病の問題がより安全にクリアーされるハズではあるのですが。当ブログでも散々書いてきましたが、過去の偉人たちの理論や言葉が尽(コトゴト)く捻(ネ)じ曲げられて、その真意は隠蔽されてきていますし、【更新する無限に多様な“大”全体】も気長に待ってくれているようなので、【ちび猫】も当ブログでつぶやくだけで気長に待つ事にしています。

先にも言ったように、性病に『生きた水』と【薬品耐性水】が有効だとは決して言いませんが。{何の効果も無いかもしれないが、副作用や弊害などは無いハズなので}自己責任で試してみたいというのであれば、『生きた水』は生物濾過の浄化槽付き水槽で観賞魚などは飼わずにカルキ抜きをした水を{数週間以上~何年間でも}入れっぱなしにするだけで出来ますし、【薬品耐性水】にいたっては『生きた水』と極微量の医薬品(抗生物質など)を{大き目の}ペットボトルなどに適量入れてよくかき混ぜれば出来上がりで。後は、{寝かせる必要や使用期限などは無いが、大量に作った場合は冷蔵保管して}使用量の【薬品耐性水】を普通の霧吹きに入れて、体の隅々や生活範囲に広く散布すればいいだけなので、試してみて下さい。





*《幸せな存在である女性》という想い。【10月24日・土】


目の前の女性や、世間の多くの女性が幸せではないというのは、{男性にとっても}辛く悲しい事では無いでしょうか。そんな想いを放置するものだから、可笑しな『性的嗜好』に{多くの男性が陥り}振り回されるようになり、男女差別という人間特有の文化・精神性や、女性差別が必然のように行われる人間社会が生じてしまうのです。

やはり男子たる者、《幸せな存在である女性》という想いを抱き、目の前の女性や、世間の多くの女性が本当に幸せであるように努めて欲しいですから。テレビ・ラジオや新聞・雑誌やインターネットなどからの、≪《幸せな存在である女性》を貶(オトシ)め、可笑しな『性的嗜好』を掻(カ)き立て、一般庶民を不安に陥(オチイ)らせて、「主体性なく情報を求め、その特定の論理で行動する事の快楽に浸ってしまう」という不安定状態に陥った人々をコントロールする制御情報≫に身を委(ユダ)ねず、《幸せな存在である女性》という想いが{人々の心の中で}守られる事を大切に思える男子が、少しでも増えるようにと願っております。





*歓迎された『幸せな存在』としての女性の幸い。【10月23日・金】


“大”自然の摂理である【更新する無限に多様な“大”全体】に於(オ)いては、人間という存在は全てと等しく【“大”部分】であり、【“大”更新】を担う存在でありまして。人間に、男性と女性が在るのには、【“大”更新】を担う上での不可欠な意義があるのです。

しかし、女性差別を容認する文化・精神性や、女性差別が行われている社会が在るのも事実であり。それは、【特定の“小”全体】の【“小”部分】に人間が【部分解禁】されていて、雑菌が【薬品耐性】を持って病原体となってしまうような【“小”更新】を発動させているのでありまして。医療行為で、『殺菌・消毒』を大量に使用して来た事で、医療機関を発端に、【薬品耐性】が強化させた殺人病原体による『パンデミック』の危機が繰り返されて来たのですが。女性差別も、【更新する無限に多様な“大”全体】の事を知らないままただ力尽(チカラズ)くで無くそうとしても、反発され、反動で女性差別がより強固になってしまうだけであります。

男性自身にとっても、女性が【更新する無限に多様な“大”全体】から歓迎された『幸せな存在』であるというのは、可笑しな『性的嗜好』に振り回されて{男性の、男性社会の}精神が病んでしまう事の防止にもなりますから、{男性たちの想いに}ぜひお勧めします。

また、女性たちにも、男性を想う時に、自分の『幸せな存在』を実感していただけたなら、これ以上の幸いはありません。





*幸せな女性。【10月14日・水】


男が求めていて良いのは、幸せでいてくれて、幸せを口にしてくれる、『幸せな女性』です。それ以上も、それ以下もありません。





*予告【9月24日・木】


〔この世界〕の基本構造である【更新する無限に多様な“大”全体】を扱う【一般理論】を聴き取って、〔男女世界〕のつぶやきを紹介したいと思います





~~~第0096号先頭へ~~~



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