聖なる書物を読んで

現役JW29年目

ローマ人への手紙7,8章(追記あり)

2019-02-20 | 聖書
7章。
1~3節。
1節は「(モーセの)律法」2,3節は「(一般的に)法」(新世界訳はすべて「律法」)。パウロは同じ単語をいろいろ違う意味に用いて、しかも同じ「法」について議論しているかのような見せかけを作っている。

2節。
新世界訳「結婚している女」。直訳「男の下にある女」。パウロは男尊女卑の人。パウロにとっては、結婚とは女が特定の男に従属する物となった、ということ。男自身が女にとって「法」なのである。
新世界訳「彼女は夫の律法から解かれます」。直訳「彼女はその男の法から無効にされた」。本来なら、「法」が彼女に対して「無効に」なったと書かないといけないのに、男尊女卑発想があるから、彼女が無効にされた、と書いてしまうパウロ。

4節。
「あなた方も・・・律法に対して死んだ」。2,3節では、法によって支配している方(男)が死ぬ場合を考えているのに、4節では支配される方が死ぬ話にすりかわっている。パウロは、キリスト信者にとって律法は死んだのだ、と言うべきところを、我々は律法に対して死んだ、という言い方をする。律法は聖なる絶対性だというユダヤ教のタブーにふれないように(タブーを信奉してるから)、「死」の主語を「律法」ではなく「人」とする。パウロの自己矛盾の1つ。

13節。
新世界訳「罪がおきてを通していよいよ罪深いものとなる」。田川訳「罪が戒めによってはなはだしく罪的になる」。ここでの「罪」は、人間の犯す一つ一つの行為というより、人間を超えた強大な悪魔的力(それが人間の中に入り込んで罪の行為をさせる)なので、罪が罪であることを律法が示す、の意ではなく、罪は罪であるが律法によって鮮明かつ強力に罪として実現する、ということ。パウロは一方では、律法は絶対的に善なるものだとし、他方では繰り返し律法のせいで罪が働くと言う(律法に罪の原因があるかのように)。これもパウロの自己矛盾の1つ。

15~24節。パウロの自己告白。
パウロがずっと悩んできたであろう、他律性(悪と分かっていても行なわせてしまう罪の力に自分が支配されていること)の自覚が、絶対他力の救済信仰(キリストの福音)に至らせた。

8章。
10節。
『何を言いたいのかわからない。・・言葉を省略しすぎ、というより、適当に調子のいい言葉を並べただけだろうか。・・有難がって聞いている信者にとっては、「あなた方の身体は罪の故に死んでいる!しかし霊は義の故に生命である」などと説教されたら、そうなのだな、我々は死んでいたのだ、しかし今やキリスト信者になって神様によって「義」とされて、霊的に生きる道を教えていただいた、だから我々は本当に生きているのだ、有難や有難や、ということにもなろう。それだけの話である。・・字義通り読んだら「人間の身体は死んで、生きるのは霊だけだ」という意味にしかならない』(by田川氏)

13節。
新世界訳「体の習わしを殺す」。字義通りに読めば極端な禁欲主義になる。パウロの救済信仰は、人間の業績ではなくキリストの贖いによるものだし、前章で感動的な自己告白をしたばかりなのに、ここでは禁欲主義に励まないと救われないよ、と言ってることになる矛盾。(・・・まぁたぶん、肉は罪の支配下にあるから、肉ではなく霊によって生きるようにと強調したいだけなんだろうけど・・・)

17節。
新世界訳「キリストと共同の相続人なのです。ただし、共に栄光を受けるために、共に苦しむならばです」。田川訳「キリストとともに相続する相続人である。もしも、我々がともに栄光を受けるためにともに苦難を受けている、ということであるのであれば」。(6:8の「ともに死んだのであれば、ともに生きるのである」を言い換えた)
「ために」は目的ではなく結果。栄光を受けるための条件として苦難を受ける(苦しむ)ということではない。ここでの「苦難」とは、この世で生きていること自体(死すべき生が「苦」)で、続く18節の「今の時の苦難」は、来たるべき永遠の「時」と比較して、此の世の「時」全体それ自体が「苦」だということ。(・・・新世界訳だと意味が違っちゃう・・・)



(以下追記です)

19~23節。
新世界訳「創造物」。個々の被造物ではなく、被造物の全体を指す語。
新世界訳「神の子たちの表し示されること」。終末の救済が実現する時、救われる人間(クリスチャン)が永遠の存在となって出現すること。

19節の直訳は「被造世界の切望は神の子らの出現を待望している」。その時には地上に生きているすべての生き物も、滅びる運命から解放されて永遠に生きることができるようになるので、被造物はすべて神の子の出現を待っている、ということ。なので20節は、人間以外の生き物が虚無(=「今の時の苦難」の言い換え)に服させられている(死、朽ちる運命に定められている)のは、神がこの希望に基づいて、そういうものとして創造されたからだ、ということ(つまり、罪の故ではないと)。

新世界訳「神の子供の栄光ある自由を持つ」。田川訳「神の子らの栄光の自由へと入る」。
新世界訳「苦痛を抱いている」。田川訳「産みの苦しみを苦しんでいる」。将来に希望がある苦しみ。
新世界訳「初穂としての霊を持つ」。田川訳「霊の初穂を持っている」。クリスチャンが神の霊を受けているということは、永遠の世界の最初の味わいくらいは持っている、ということ(対し、被造世界はまだ初穂ももらっていない)。
新世界訳「贖いによって自分の体から解き放されることを切に待っている」。田川訳「我々の身体の贖いを待望している」。今のところは死すべき命を生きているのだから、他の被造物と同様に未来の救済を切望している、ということ。ここでの「贖い」は未来のことで、罪を許されて義とされることではなく、朽ちるべき身体が朽ちぬ永遠のものとされることを言っている。

エホバの証人の教理とは全く違う解釈(パウロの文を素直に読むとこうなるんだろうと思うけど)。いままでは「アバ、父よ」あたりからこの辺までは、自分と関係ない油そそがれた人たちの話で、自分たちはその人たちから恩恵を受ける、みたいに思ってた(特権意識や差別意識を感じさせるイヤな聖句だった)けど、田川訳だと、ものすごい規模が大きい救済論になる。人間だけじゃなくて、被造世界すべてが永遠の生命を待望している、という。ほんと、全然違う。びっくりだぁ。(でもパウロは人間に関しては、クリスチャンだけしか救われないって思ってたんだろうなぁ・・・)

34節。パウロにとっては、キリストの死より復活の方が重要だったことが分かる聖句。パウロが見たのは、復活したイエスだものね。

38節。
新世界訳「政府」。田川訳「支配力」。天使とほとんど同じで、宙空に居て下界を支配する神話的諸勢力。
新世界訳「力」。田川訳「諸力」。これも神話的な天的勢力。

以上、田川建三氏の「新約聖書 訳と註」パウロ書簡より、引用、参照させていただきました。


さて、ワークブックへの突込みです。

●「あなたは『切なる期待を抱いて・・・待って』いるか」の話。
上記の通り、新世界訳は全然違う解釈になっちゃってるので、話にならないなとw。でもまぁ、パウロの文章も、立ち位置によってどうにでも解釈できちゃうんだなぁっていうあたりが、困っちゃうなぁと思った次第です。で、その立ち位置によって都合よく改竄して(よく言えば真意を汲み取ってw)聖書を書いちゃうというね。新世界訳の改訂版の日本語訳がそろそろ出るという噂も聞いたので、どんなことになってるか、わくわくしてますww。

「神の求めることは厳し過ぎると考えさせようとするサタンの思惑に屈しない」ってあるけど・・・神じゃなく組織が決めてる規則がオカシイことをサタンのせいにしてるよね、これ。自分たち組織の規則がサタン的だって認めてるようなもんじゃん、これ。

●「忍耐して切に待ち続ける」のプログラム。
8:25は、日々起きる困難や苦難や試練を忍耐しながら待つ・・・って言ってる訳じゃないと思う。未来に待っている栄光ある救済を希望しているのだから、死んで朽ちる身体である今の生を忍耐して待ち続けようよ、っていうことかなと。
ほんと、この組織は忍耐が大好きだよねぇ。やられっぱなしでも忍耐しろ忍耐しろと。押さえ付けられてる感がいつもある。これじゃ、のびのびできないよね・・・。