この書は、パウロが第三回宣教旅行の終盤に書いたもの。パウロがそれまでの宣教で、多くの人々に語ってきた福音(キリスト教)を、文書としてまとめたもの。パウロはこれを、まだ行ったことのないローマのクリスチャンに当てて書いた(自己紹介も兼ねて)。
いはばパウロのキリスト教思想の最重要文書。プロテスタントの著名な人たちは、これぞキリスト教だ、としてこの書の解説本を書いているらしい。
1~3章がこの書の本論。救いは、人の努力によって勝ち得るものではなく、神からの一方的な恩恵によって与えられるものである、ということ。特に1:16,17がこの書のテーマ・・らしい・・知らなかった・・。
1:16,17「すなわち、わたしは福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。『義人は信から生きるであろう』と書いてあるように」(田川訳)
「神の義」とは、神の正しさ、神が正しいということ。神自身が義である、という意味で、信じる人が神から義と認められる(信仰義認。ルターがこの部分の翻訳に持ち込んだらしい)、という意味ではない。
「神の義はその中で、信から信へと啓示される」とは、「神の義は、神が信実であることから発して、それを受けて神を信頼する人間の信実へとむかって啓示される。神の義が福音の中に啓示されるとはそういう意味だ」ということ。神が「義」を啓示したのは、罪人であり本来それに価しない人間たちに対して、神の側はあくまでも誠実さを貫いてくれた、それならその啓示を受け取る側の人間も「信頼」「誠実」をもってそれに対するべき、というパウロ思想の根本。
新世界訳で読むと、この箇所は分かるような分からないような、どうとでも解釈できそうな文章だったけど、この解説ですっきりした。
分かり難い原文を、自分たちの教理に合わせて改竄して訳すのは、エホバの証人に限らず、昔から行なわれてきたことなんだね。(果たしてどれほど神のご意思が働いているのか、まったく人間の仕業なのか・・・)
「第一にユダヤ人にとって」とか、3章の「ユダヤ人の長所は・・あらゆる点で、多くある」とか、パウロはユダヤ人優越意識が抜けていないことが露呈してる。
1:26,27からは、パウロが極度に同性愛嫌いだったことも分かる。
2:16でパウロは、「私の福音」(新世界訳では「わたしが宣明する良いたより」)と書いている。自分こそが直接神によって福音を託されたという自意識過剰から出た言葉。
3:22。新世界訳「イエス・キリストに対する信仰による神の義であり、信仰を持つすべての者のためのものです」田川訳「イエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である」
神の義を確立するのは人間の信仰だ、となれば「神の義」という絶対的なものが人間に左右されてしまうものになり、パウロ思想(徹底した神中心)ではない。
ここは、「神の義は、イエス・キリストにおける神の信実によって、信じるすべての者のために明らかにされた」の意。「神の義」という巨大に超越的なものが、個々の人間にまで到達する、ないし顕わされる。「神の義」の中にそれまで包摂されていなかった罪人たる人間のところまで今や「神の義」が到達した、ということ。
3:26。新世界訳「イエスに信仰を持つ人を義と宣する」。田川訳「イエスの信からの者を義となす」。
イエスを信じるかどうかということではなく、「イエスの信」(イエスを通して示された神の信実)に基づいて、ないしそこから発して生きる人たち(を義となす)ということ。
ここまで、田川氏の「新約聖書 訳と註 パウロ書簡」からいろいろと引用させていただきました。
さて、ワークブックに突っ込みます。
「自分の良心を訓練し続ける」という話。2:14,15に基づく話のようですが・・・この聖句は、良心を訓練し続けることとは全く関係ない文脈の聖句です。もし、この部分を当てはめるなら、世の人だって神から与えられた良心が律法になってるんだよ、エホバの証人はキリストの律法を与えられてるんだからちゃんとそれを実践しようよ、っていう感じじゃないかと。だいたい、良心を訓練って、何が正しいか何が間違ってるかを、自分で決めちゃいけないっていう教理なのに、矛盾してるよねぇ・・つまりこれは、組織の規則を守れ、もっと組織に貢献しろ、っていう命令を守る訓練に過ぎないですね。
パウロの壮大なキリスト教思想を学ぶ機会なのに、ほんと残念なことです。
「霊的な宝石を見つける」の3:4。ここでパウロは、神が真実でないと思うなどとんでもないことだと、宣言してるのであって、それを知られるようにするにはどうしたらよいか、なんてことは述べてない。「知られる」なんて言葉を入れてるのは新世界訳だけじゃないかなぁ。
いはばパウロのキリスト教思想の最重要文書。プロテスタントの著名な人たちは、これぞキリスト教だ、としてこの書の解説本を書いているらしい。
1~3章がこの書の本論。救いは、人の努力によって勝ち得るものではなく、神からの一方的な恩恵によって与えられるものである、ということ。特に1:16,17がこの書のテーマ・・らしい・・知らなかった・・。
1:16,17「すなわち、わたしは福音を恥としない。それはすべて信じる者にとって、第一にユダヤ人にとって、またギリシャ人にとっても、救いへといたらせる神の力である。何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。『義人は信から生きるであろう』と書いてあるように」(田川訳)
「神の義」とは、神の正しさ、神が正しいということ。神自身が義である、という意味で、信じる人が神から義と認められる(信仰義認。ルターがこの部分の翻訳に持ち込んだらしい)、という意味ではない。
「神の義はその中で、信から信へと啓示される」とは、「神の義は、神が信実であることから発して、それを受けて神を信頼する人間の信実へとむかって啓示される。神の義が福音の中に啓示されるとはそういう意味だ」ということ。神が「義」を啓示したのは、罪人であり本来それに価しない人間たちに対して、神の側はあくまでも誠実さを貫いてくれた、それならその啓示を受け取る側の人間も「信頼」「誠実」をもってそれに対するべき、というパウロ思想の根本。
新世界訳で読むと、この箇所は分かるような分からないような、どうとでも解釈できそうな文章だったけど、この解説ですっきりした。
分かり難い原文を、自分たちの教理に合わせて改竄して訳すのは、エホバの証人に限らず、昔から行なわれてきたことなんだね。(果たしてどれほど神のご意思が働いているのか、まったく人間の仕業なのか・・・)
「第一にユダヤ人にとって」とか、3章の「ユダヤ人の長所は・・あらゆる点で、多くある」とか、パウロはユダヤ人優越意識が抜けていないことが露呈してる。
1:26,27からは、パウロが極度に同性愛嫌いだったことも分かる。
2:16でパウロは、「私の福音」(新世界訳では「わたしが宣明する良いたより」)と書いている。自分こそが直接神によって福音を託されたという自意識過剰から出た言葉。
3:22。新世界訳「イエス・キリストに対する信仰による神の義であり、信仰を持つすべての者のためのものです」田川訳「イエス・キリストの信による、信じるすべての者へといたる神の義である」
神の義を確立するのは人間の信仰だ、となれば「神の義」という絶対的なものが人間に左右されてしまうものになり、パウロ思想(徹底した神中心)ではない。
ここは、「神の義は、イエス・キリストにおける神の信実によって、信じるすべての者のために明らかにされた」の意。「神の義」という巨大に超越的なものが、個々の人間にまで到達する、ないし顕わされる。「神の義」の中にそれまで包摂されていなかった罪人たる人間のところまで今や「神の義」が到達した、ということ。
3:26。新世界訳「イエスに信仰を持つ人を義と宣する」。田川訳「イエスの信からの者を義となす」。
イエスを信じるかどうかということではなく、「イエスの信」(イエスを通して示された神の信実)に基づいて、ないしそこから発して生きる人たち(を義となす)ということ。
ここまで、田川氏の「新約聖書 訳と註 パウロ書簡」からいろいろと引用させていただきました。
さて、ワークブックに突っ込みます。
「自分の良心を訓練し続ける」という話。2:14,15に基づく話のようですが・・・この聖句は、良心を訓練し続けることとは全く関係ない文脈の聖句です。もし、この部分を当てはめるなら、世の人だって神から与えられた良心が律法になってるんだよ、エホバの証人はキリストの律法を与えられてるんだからちゃんとそれを実践しようよ、っていう感じじゃないかと。だいたい、良心を訓練って、何が正しいか何が間違ってるかを、自分で決めちゃいけないっていう教理なのに、矛盾してるよねぇ・・つまりこれは、組織の規則を守れ、もっと組織に貢献しろ、っていう命令を守る訓練に過ぎないですね。
パウロの壮大なキリスト教思想を学ぶ機会なのに、ほんと残念なことです。
「霊的な宝石を見つける」の3:4。ここでパウロは、神が真実でないと思うなどとんでもないことだと、宣言してるのであって、それを知られるようにするにはどうしたらよいか、なんてことは述べてない。「知られる」なんて言葉を入れてるのは新世界訳だけじゃないかなぁ。