・そうこうしているうちに村上天皇がお亡くなりになります。
天皇は四十二才、ただちに東宮(皇太子)が次の天皇に立たれました。
十八才の冷泉天皇です。
少し常軌を逸した行動をなさるので人々は不安に思っていました。
そういう中で兼家が昇進します。
そのうち、兼家は蜻蛉を自宅近くの邸に引っ越しさせます。
蜻蛉はこんな物質的厚遇よりも精神的な結びつきを求めました。
蜻蛉は村上天皇と関係はありません。
村上天皇の崩御によってお里帰りなさった女御の登子という方、
この方は兼家の妹です。
村上天皇の中宮は安子という方でした。
安子中宮が亡くなられて安子の妹、登子は晴れて天皇の、
後宮に入られたのですが天皇に死に別れられてお里へ帰られた。
兼家の妹ですから兼家の屋敷へ来られました。。
登子女御にお悔やみの歌を差し上げたり、
お返しがあったり、蜻蛉の書いている日記には、
この時代の高い身分の貴族たちの私生活がよく見えて面白いのです。
ある時、登子女御に誘われて出かけた留守に兼家が来ました。
来て欲しい時に来なくて、来なくていい時に来るようです。
登子女御は「早くお帰りなさい」と言われます。
原典では、
「聞きもいれねば」
とあります。
(いいんですよ、あんなの」
しかし、ゆっくり出来なくて引き上げ、
また別の日にゆっくり伺ったと日記に書いています。
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・今度は初瀬観音にお参りしたいと九月に思い立ちます。
現在だと十月の秋。
兼家に言いますと、
丁度、冷泉天皇の儀式に自分の娘、詮子女御が参加するので、
これを済ませたら私も一緒に行くと言います。
(それじゃ、そうしましょう)
と言うような女性だったらよかったのですが、
(時姫一家のことでしょう。私には関係ないわ)
と一人で出発します。
京の都から初瀬へ最低三~四日はかかります。
朝の六時に出発、昼に宇治の兼家の別荘に着きます。
宇治川の景色を見ながらお弁当を食べ、
(この時代の人たちはどんなものを食べていたかはわかりません)
やがて舟に車ごと乗せて川を渡ります。
まず、今の木津川の側の橋寺に泊ります。
切り大根・・・刻んだ大根を柚子で和えた山里らしい食べ物が出た。
次の夜は椿市(つばいち)に泊ります。
そこへ兼家から手紙が来ました。
(急に出かけたので心配している。
大丈夫か?いつごろ帰るのか?迎えに行くから)
やさしい内容なのに、蜻蛉は、
(さあ、いつごろになりますか、
せっかく来たんだからしばらく籠っていたい)
というような返事を出します。
しかし、蜻蛉の侍女たちが何日ごろどこに着きます、
といった予定を兼家に返事しました。
蜻蛉一人が突っ張っても、
侍女たちがうまくとりもったようです。
初瀬寺(長谷寺)で一心にお祈りしますが、
これについては詳しく書かれていません。
山深いところ、初瀬川の水音も高く、
木々は紅葉して美しく蜻蛉は感動して涙ぐみます。
ただ、お寺の前には乞食たちが坐っています。
その光景を「いと悲し」と書いています。
華やかな王朝文化の影の部分が描写されています。
帰り道は兼家の手配が行き届いていて、
身分を隠していたのに、ここかしこでもてなしを受け、
にぎやかな旅になったと書いています。
また、宇治の別荘まで兼家が出迎えに来てくれました。
蜻蛉は日記に「とても疲れた」と書いていますが、
悪くない旅の終りという感じです。
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・大嘗会(だいじょうえ)の準備。
これは天皇が即位なさって一番初めに新穀を神々に祭られる儀式で、
天皇の一代にたった一回だけという大変重要な儀式です。
兼家は蜻蛉に「準備を手伝ってほしい」と言います。
(時姫との間に出来た娘が冷泉天皇の女御代としていましたので)
「ええ、いいですとも」
と蜻蛉も力を合わせます。
彼女をいつになく素直に和やかな気分にさせたのは、
兼家が宇治まで迎えに行ったからでした。
兼家はそれまで計算に入れてのことであろうか?
とにかく蜻蛉はしっかりと兼家に心を寄り添わせ、
この度の儀式を手伝いました。
それが十一月の初旬、
やがて新年の準備も近づき、
心も落ち着いてきますとまたもとの、
「想うようにあらぬ身を」嘆いているうちに年も改まって、
(また一つ年をとったんだわ)
蜻蛉は自分のことを、
あるかなきかのはかないかげろうによそえて、
この日記を
「かげろふの日記といふべし」
と記して上巻を閉じています。
(次回へ)