
・敬老の日だというので、
近くの公民館へ来て下さいという、
通知があった
何があるのかというと、
市役所の福祉課の誰かが祝辞をいい、
幼稚園児が歌ったり遊戯をして見せ、
お土産がもらえるという
幼稚園のガキの歌やお遊戯を見て、
喜ぶ年寄りっているのかしら
「いやそれは何ですな、
ほほえましい姿ですから、
お年寄りが喜ばれるのやないですか」
と自治会長はいい、
このおっさんは七十くらいの、
世話好き老人である
「みな孫は可愛いもんだっしょってなあ」
ここで私は、
(そうですね)と言いにくくなっている
孫の可愛い人もいれば、
そうでない人もいるのだ
最近、七十八を過ぎて、
ハタの人と話を合わしにくくなった
私なんかは、
幼稚園児につきあって一日つぶれたら、
大損だと思うところがある
「おたくも、
幼稚園児のお遊戯見たい、
思いはりますか」
と聞いたら、
自治会長はわはははと笑い、
「いやほんまはね、
ほんまは若い娘はんが、ですな、
ビキニの海水着みたいなん着て、
踊ってくれるようなん、
見たいでんなあ」
「それなら、
そうしたらよろしいのに」
「ま、そうもいきまへん」
「同じことやったら、
皆の喜ぶような催しのほうが、
意義があるのん違いますか」
「ま、ほんまはそうでっけど、
市役所のすることやから、
そうもいきまへん
お土産もありますから、
出席して下さい」
と自治会長は帰っていった
「ほんまはそうや」
というならほんまのことだけ、
したらよいのだ
この間もマンションの向かいの家が、
騒々しかった
深夜のことである
翌朝、管理人に聞いてみると、
八十五になるその家の爺さん、
容態が悪くなり、
東京で手術すると決まって、
飛行機にも乗せられず、
ソロソロと車で東京へ運んだ、
というのである
「へーえ、
八十五でねえ・・・
東京までいくほどのことかしらねえ」
私はつぶやいてしまう
管理人は声をひそめ、
「ほんまはそうでんな、
私もそない思います
六十くらいならまだしも、
八十五であんた、なあ」
この管理人は六十である
「ほんまはその年で、
何もそない、
無理して手術せんかてええ、
思いますがなあ」
(ああもうそんな、
手間かけんでよろし、
痛い辛い検査ばっかりされて、
いじくられるよりは、
すーっと天寿を全うして、
住みなれた自分の家で死にたいわ)
私ならそう主張するつもりである
テレビでよく見る女性評論家が、
この町の市民会館で講演するというので、
私はお習字教室の人々に誘われて、
聞きにいった
まだ四十代の人であるが、
「嫁・姑の楽しい暮らし方」
というタイトルで話している
四十代の自分たち夫婦と、
二十代の息子夫婦が、
一軒の家に仲良く住み、
その体験をユーモラスにしゃべる、
というものである
「ま、ほんとは別居したらいい、
と思うのですけど、
住居の都合とか、
いろいろございまして、
同居という方も多いと思います」
と評論家はいい、
これも私には心得ぬ
ほんとは別居したいというなら、
なぜしないのであろうか
嫁姑のあつれきが、
別居してすぐ解消するとは思えないが、
かなりの部分、消滅するはず
それに私は一軒の家に、
二組の夫婦がいるなんて、
なまぐさすぎる
夫婦なんてもの、
一軒に一組でよい
講師はなおも、
「この嫁姑円満の秘訣の一つに、
自分が言い負ける、
ということがございます
<言い負けておくとあと味の茶がうまい>
(岡田雨音美)
という川柳がございます
嫁と口論になっても、
ほんとは言い返したいところですが、
言い負かされた形で、
当方のホコをおさめる、
これがよろしいようでございます」
聴衆の婦人たちの頭は、
それぞれ深くうなずくので、
大波のようにゆれる
私はまたうなずけないのである
ほんとは言い返したいなら、
言い返すべきである
言い負けてあと味の茶がうまいはずは、
なかろう
すべてこの世は、
「ほんとはそやけど」
というのがあって、
事をよけい紛糾させている
私の見るところ、
女性の社交界に多いようである
何かの名誉を与えられたときでも、
「私には過ぎた話で・・・」
といい、いったんはことわる
それを再度頼まれて、
いやいやのように受ける
ほんとはいっぺんで受けたいのに、
という場合が多いようだ
婦人のあつまりで、
「お茶をどうぞ」
とついでまわる
そのときの順番が、
「あちらからどうぞ」
「いえ、どうぞそちらから」
わずらわしいといったらない
カラオケの店へ行っても、
マイクを譲り合いし、
席を譲り合いし、
帰るときは割り勘で出た端金を、
更に誰が払うかでもめる
私の思うに、
みな大概心の中では、
こういう慣習がいやになってるはず
誰も彼もが、
(ほんまはもうやめたい)
と思っているに違いないのだ
私はこのごろ、
なるべくそういうものに、
引っ張られず、
(ほんまはこうや)
というところで勝負したい、
と思っている
で、敬老の日も、
浮世の義理や旧来の陋習に、
こだわらず、
幼稚園児のお遊戯なんて、
見るのをやめて部屋で遊んでいた
手毬をついていたのである
私が幼稚園児になったみたいであるが、
これはお習字教室の生徒の若い女の子で、
大阪のファッション雑誌の、
編集室に勤めてる子がおり、
「むかしの遊び特集」
を出すので、
私に大阪の古い手毬唄を、
聞かせてくれというのである
録音しに行きますというので、
「さあ、おぼえているやらどうやら」
といっておいたが、
この前、駅前の夜店で、
ゴムの手毬を見つけ、
なつかしくて買ってきたので、
七十年ぶりについてみる
毬がはずみすぎるのか、
私の動きが鈍すぎるのか、
歌と中々会わないけれど、
いつとなく思い出されてくる



(次回へ)