
・男の持った傘には、
私の泊っている宿の名がしるしてある
見ていると傘はゆっくり、
目の下の玄関へ入った
その間にやっと思い出した
あの車いすを押していた男なのだ
うつつ心のない妻を連れて、
ここまで旅するのは、
大変だったであろう
が、私はまたあの妻に、
「あほ、ばか、まぬけ」
と目を吊り上げられるのは、
いやだなと思った
同じ宿なら顔を合わさぬように、
しなくてはならない
大晦日のテレビの番組欄を見るため、
帳場へ新聞を取りに降りたら、
彼がソファに坐って新聞を見ていた
私が降りてきたのを見つけて、
新聞をたたみ、眼鏡を取る
半白の髪、
落ち着いたやわらかい表情である
それはまわりと自分との調和を、
ようく配慮しているという表情である
こういうのがインテリジェンスの老人、
というのだろう
老人の中には、
自己中心でまわりの事情を一向に、
顧慮しないのが多い
耳の不自由な人は、
つい自分でも大声を出すが、
それと同じに心の不自由な人は、
わがままにふるまってしまう
この男にはそういう雰囲気が、
なさそうだったので、
私は安心して坐る
「思いがけないところで、
お目にかかりますわね」
「一緒のバスでしたよ」
と男は笑った
「あら、気がつかなかった
奥さまは?」
「おとつい、
四十九日を済ませてこちらへ来ましてね
死にました」
「それはまた・・・
思いがけないこと」
「風邪をこじらせまして
抵抗力がないので、
肺炎をひきおこしましてな」
私がお悔やみをのべかけると、
彼はさえぎり、
「まあまあ、
明日はめでたい正月ですから
私も長いことの看病で、
覚悟はしていましたから、
ふっきれとるのです
愁嘆はなし」
節度のある男のようで、
くどくど見知らぬ人間に、
愚痴を訴えることはしないようであった
「ボケて十年になります
かわいそうでしたが、
だんだんすすんで、
しまいに鏡見て、
『あんた、どなたですか』
となんべんもいうてました
いや、どうも、はっはっは」
とひとごとのように、
笑うのがいい
相手を立ち去りやすくさせるのが、
社交のエチケットというものであろう
夜はやはりカニが出た
テレビに向かって、
一人で五勺の酒とカニを楽しむのは、
思った通りの嬉しさだった
予想以上に楽しいのだ
そしてそれは、
同じ宿にあの男も一人、
たまたま滞在している、
名も知れぬ、
しかし節度あるらしき男の、
好もしさによるものらしい
ふいに私はあの男と飲んでみたい、
という気になった
あの男は孤独を愛するために、
一人で来たのに、
縁もゆかりもないオバンが誘うとは、
と迷惑するだろうか
しかしあの節度と余裕がある男なら、
(それも一興)
と思ってくれるかもしれない
私は女中さんに頼んでみた
男一人の客は彼だけだとみえて、
すぐわかり、
快く承知して、
すぐうかがうといったそうである
私はお酒とビールを追加注文する
女中さんが卓の向こうに、
彼の分の皿を並べてくれて、
にわかに室内がにぎやかになった
男は毛糸のカーディガンにズボン、
という姿に着替えて、
廊下の外で膝を折り、
「よろしいんですか」
といって入ってきた
「一人で食べるのもよろしいものですが、
たまたま大晦日なので
それにこんな宿で止まり合わせたのも縁、
泊っている短い間ですもの
よろしければご一緒に、
と思って」
と私はいい、
ふと頭の中では、
これは魚谷夫人やサナエのセリフと、
同じではないかと気づく
彼は、
「オダといいます」
といったが、
小田か織田かは聞かない
私たちはにっこりして、
はじめの一杯をつぎあい、
乾杯する
「私は酒はやりません
煙草はやりますが
しかし一人になって手持ち無沙汰で、
五勺ばかりやるようになりました」
と男はいう
「それなら同じくらい」
「あんがい寒くないものですね
雪の中でも」
「そのようですわね
町の木枯らしのほうが、
よっぽど身にしみますわ
よく寒い夕暮れに散歩して、
いらっしゃいましたね」
「連れ出さぬと、
そのへんのもん、
ひっくり返して暴れましてなあ」
男は淡々という
「お膳をひっくり返し、
枕をひきちぎって、
ソバガラをまき散らして怒るのです」
「どこへいらしたんですか、
お散歩は」
「どこかわかりません
どんどん、どんどん、歩くんです
ついていくのが精いっぱいでした
足が弱って車いすに乗せてからは、
いっそうむつかしいなりました
この道と違う、
あそこで曲がれ、
左、右、
いわれた通り歩いていくうち、
家内はどうしても行きたいところへ、
行きつけぬ焦りか、
あ~ん、あ~んと泣くのです」
「・・・」
「それを聞くと、
いうままにしてやろう、
という気になります
やっと家へ連れ帰ってすぐ、
食事を作って食べさせます
せがまれて歌を歌うこともあります
歌っているうち眠ります
そっと出ようとすると、
妻はすごい力でしがみついてきます
添い寝して歌ってやると寝ますが、
手が無意識に動いているので、
見ていると、
私の方へ少しでも布団をかけようと、
してくれているのです」
「・・・」
「人間の心づかいというのは、
脳細胞が壊れても、
残っているんですね
私がほかの女の人としゃべったりすると、
気になるんです
奥さんにも失礼なこと申し上げて、
お気になさらんでください」
「いいえ」
「ボケてる家内でも、
喜ばせてやることは、
嬉しいことでしたね
家内の喜ぶ顔を見たい、
そう思うとどんな看病も、
してやれました
・・・
夫婦てふしぎなもんですなあ
ボケてても私に布団着せようとする
ヤキモチを焼く
それを見ると、
ボケの家内が可愛いて」
「はあ、
・・・ええお話やこと」
灯の下で見ると、
男の肌は風雪にさらされ、
荒れていたが、
表情はやっぱり静かで、
どこか悲しい威厳があっていい
「雪が、
ちょっとやみましたかな
私は明日、故郷へ帰ります
家内のお骨を故郷に葬むってやろう、
思いまして
私もそこで住むことにします」
私は五勺の酒が快くまわるのを、
おぼえる
伴侶はわずらわしい、
夫婦は業だと思っているのには、
かわらないが、
この暖かな平安な気持ちは何であろう
私はモヤモヤさんの、
哄笑を感じている
しかしそれはモヤモヤさんの、
暖かさを示すもののように思われる
いい男、
やさしい男もいるんですねえ
夫婦っていいものかもしれないわねえ
(わっはっは・・・
そうじゃよ、歌子)
モヤモヤさんは、
心地よげに私を負かして哄笑している
しかし私は、
モヤモヤさんに負けても、
不愉快な気はしなかったのである



(了)