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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

13,姥雲隠れ ⑥

2025年04月17日 08時54分34秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・お政どんやおトキどんの来ぬ正月は、
はじめてである

私は煮しめを作るのをやめて、
何か冷蔵庫に詰める食料を、
買い出しに行こうかと、
メモしかけた

が、ふとボールペンを投げ出してしまった

そうだ
一人でこんなところに、
くすぶっていることはないのだ

正月に一人でのんびりと、
温泉にでも浸かる、
というのはどうであろうか

そう決まると私は、
日本海側の温泉旅館に電話をかけた

何しろ暮れ近くになっての申し込みなので、
めぼしいところはみな満員である

ただ一軒、
キャンセルがあったとかで、
空いていた

そこは小さな宿であるが、
大温泉は向かいにある

この町の温泉は湯札をもらって、
公衆浴場のような大温泉へ、
入りに行くのである

それが面倒くさい人は、
内湯もあるが私は外へ出るほうが、
温泉町らしくて好きである

にわかにそう決めると、
私は生き返ったように楽しくなった

思い立つとすぐ実現できるのが、
一人身のうれしさ、
たぶん私はこの嬉しさをじっくり味わいつつ、
一生を終えることになるであろう

三十一文字をひねくることもなく、
ボケの亭主の世話することもなく、
好色そうな老紳士に迫られることもないのだ

これぞ人生最高のよろこび

大晦日の朝から出かける

列車は帰省客で混んでいたが、
一人席くらいは確保できるものである

息子たちにはなにもいわず出かけた

この温泉は私の住む町と、
同じ県内にあるにもかかわらず、
不便なところにあるので、
三時間くらいはたっぷりかかるのである

都市部を出て、
山間にかかるころ、
雪が降り出した

次第に雪質が重く厚くなってきた感じで、
山も野も雪まみれになっていた

この景色も珍しいこと

私は前にこの温泉を見たことがあるので、
しっかりその支度はしている

長めのブーツ、
暖かなジョッパーズ、
キルティングの上着、
それに毛糸の帽子とカシミヤのマフラー、
これは中に着ている、
栗色のカシミヤセーターと共に、
何年か前のイギリス旅行で買って、
もう長く愛用している

それに忘れてはならぬ雪めがね

私の携えてきたものに、
熟年向きの活字の大きな本と、
スケッチブック、
水彩絵の具、
マーカーペン、
それに囲碁入門の本

テレビで囲碁番組を見て、
面白かったので、
来年は囲碁を試みようと計画している

これでここ三、四日は退屈せずにすむ

温泉のそばを流れる川は灰白色で、
吹雪く雪を音もなく吸い取っていた

そういう景色を見る喜びも、
私にはこよない人生の快楽である

温泉町は雪に閉ざされていたが、
中心の通りは除雪されている

旅館のマイクロバスに乗ったのは、
私のほかに男が一人、
家族連れが四人であった

みな、
この温泉町で越年する客であろう

大きいバスには、
ぎっしりと客が詰め込まれ、
駅の前は人で雑踏していた

スキー場が近いので、
スキーをかついだ若者も多い

土産物屋の店先には、
真っ赤に茹で上がった松葉ガニが積まれ、
これを食べるのも至上の幸福

泊り客が宿の名を書いた番傘をかざして、
丹前姿で大温泉へ入りにいく

湯の町らしい風趣が、
私のもっとも好きなところ

川のそばに、
リアカーを曳いたおばさんたちが、
カニを売っている

これを買って帰ってやりたいものも、
いまは思い当たらない

息子たちに買う習慣は、
かなり前に失っていたが、
ちょっと前までは、
サナエが来るからとか、
お政どんのために、
とか思ったものである

その気が、
いまはなくなっているのに気づく

宿へ着くと女中さんが荷物を受け取り、

「お連れさまは」

ときく

「誰も来ませんよ」

「お孫さんかどなたかと、
ご一緒ですか」

「一人と申し込んでいますよ!」

熟年婦人が一人で旅するのが、
珍しいのか、失礼な

一人前の人間とみられてない

もっとも以前、
私は「たつ源」さんと、
鳥取の温泉へ行く約束を、
したことがあったが、
ついに実現せず
「たつ源」さんは亡くなり、
あのときも私は一人旅であった

私は所詮、
一人旅が宿命になっているのかもしれない

早速着がえて、
向かいの温泉へ出かけた

昼間なのに客は多い

大晦日で走りあるいている人間も、
多いだろうが、
のんびり雪の温泉場へ来ている人も多い

社会のふり幅が広くなっている
平和な証拠であろう

もっとも女湯は、
婆さんの一団体が入っていて、
かなりかしましかった

湯はかなり熱く、
冷え切った体には、
入られないほどに思われる

洗い終わってから入ると、
ちょうどいいころ合いだった

惜しげもなく清らかな湯は、
ざぶざぶと石の床に流れ、
今年もまあよい心持で、
過ごさせていただいて

それにしても、
年末年始を一人、
温泉に来るという思いつきに、
私は我ながらにんまりする

息子らは私がどこへ行ったのか、
雲隠れしよったと、
びっくりするかもしれないが、
私は来年も、
(今までやってないことさがして、
一つずつやってみよう!)
と思う

しかし石の床を歩くときは、
慎重に歩く

すべってころんで、
打ち所が悪かったり、
骨折したりすると、
たちまちモヤモヤさんが喜ぶであろう

慎重すぎるくらいがいい

食事の前に、
私は二階の手すりから、
下の通りを見下ろしていた

町に灯がつき、
山に囲まれた温泉場らしい花やぎである

すると向かいの温泉場から出て来た男が、
ふり仰いで私を見、
会釈をした

よく知っている気がするが、
思い出せない






          


(次回へ)

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