汽水空間 ~言葉と次元の力学系へ~

身体で体感する言葉の世界をお届けします(*´∀`)♪

エッセイ 多様さとは?

2018年12月19日 | 哲学


多様であるとは、なんだろう?

それは単に、カラーのバリエーションが、
キャンバスの紙上に増えることを言うのだろうか?

それか、様々な人種が、国境を超えて、
仲良しこよしに、手を繋ぐ理想世界のことを言うのか?

多様さ
それには、いろんな主張がある。
それを踏まえて、、
これからみやすけの考えをちょこっと述べてみる、、

多様、

多様であるとは、実は"余剰"のことを言うのではないか?
みやすけはそう思っている。

それは、
直接的に、その集団には何も貢献しない。
そう、彼らは一見、なんの意味の無いモノ達だ。
つまり、この集団にとっての"無駄"である。

しかし彼らは、一見無意味に見えるが
実は、その集団にとっての"遊び"の部分を担っている。
と言えると思っている。
そう、ここで言う"遊び"とは、

"余裕"

つまり、ある集団が多様であるとは、
その集団の中に、どれだけの余裕があるのか、
また、その余裕が寛容に
受け入れられているのかという事だ、

と思う。。

無意味さ
たとえば、男女の仲を超えて、
男女を問わない性関係が人間の内に成り立っているのも、
それは、人間の営みが、
単に生殖を指すだけのものではなくなった、
という余剰の現れではないか?
そう、この余剰こそ、性関係に多様さを与えた。

多様さ
これらを発生させるものこそ、
無意味なモノ達の出現なのだ。
生物が、理屈を超えた時に発生するモノ、
たとえば、交尾して子供作って、さっさと死んで行く、
という単純な、生物の目的を超えた瞬間に花開くもの。

それは、理由では決して説明できない。
この、理屈を超えた、"理由なき無意味"の発現こそ、
それが生物の"多様さ"なのである。

しかし、その多様さを、今の世界は病理にしてしまう。
"普通"という、目的に適った道理に戻そうとする医療行為で、
せっかくの多様さを無くそうとしている。
多様さとは、生物にとっての余裕の現れであるのに。。

生物を"目的の輪廻"から解放し、
自由闊達な"遊び"のある世界へと手を引くのは、
実は、こうした無意味なモノ達の役割なのである。

つまり、無意味なモノ達にも、
その集団にとっての意味はきっちりとある、
ということだ。

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エッセイ "視線の福祉"

2018年12月09日 | 哲学


障害を持つ人たちは、よく見られる。
特に外見に目立った特徴のある人は、特に。。
子供が障害を持つ人に指差すと、
親はその指を叩いて、見ちゃダメだと言う。

確かに、視線は時として嫌がらせになる。
誰だってまじまじと無意味に見られたくはない。
それは障害を持った人でも同じなはず、、

しかし、なぜ異質な人ほど人は見るのだろう。

それは、人は、異質な人を"見る"のではなくて、
その人を"観ている"のだと、みやすけは感じる。

異質なものを、ただぼうっと傍観しているのではなく、
なにかしらの感情を通して、
自分の内面に投影している。
それが、異質な人を"観る"という行為だ。

ややもすれば、その"観る"は差別にも繋がる。
しかし見方を変えれば、それは"福祉"にも繋がる。
とみやすけは思っている。

人は、異質な人を観る事によって、
ときとして差別をする。
でもその"視線"で異質な人を護ろうともする。
特にお年寄りなどに向ける視線は、
おそらく、これによくあたると思う。。

この時、"差別"と"福祉"は、"視線"を通して邂逅する。

人は差別する為に異質な人を見る。
でも、またこの時、
その異質な人に何か異変があれば、
すぐさま対処する心構えをしているのだ。

流れ行く膨大な景色のなか、
その人が異質で景色から浮いているのは、
それは、いざとなったら"助け"が必要だからだ。
そう、いざとなった時の"助け"が必要な人ほど異質に見える。

つまり、お年寄りがあの風貌なのも、
障害を持った人たちが、どこかしら変な風貌なのも、、
これらは、"視線の福祉"に護られるための戦略なのだ。
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エッセイ 人生の引き際

2018年12月04日 | 哲学


人生、引き際が肝心
だと、最近は思ってる

それは、自分の居たスペースを他人に譲る。ということ。
人は、その居場所の居心地の良さを、一度体感すると、
そこから立退くことが億劫になる。
そこにずっと居座ろうとする。

しかし、なんでもそこには"流れ"というのがあって、
どんな立場も、年数が経てば、自ずと古くなってしまう。
上手くピースがはまらない感覚がしてくる。

そんな自分が必要か必要で無いかの瀬戸際に
"人生、引き際"の岐路がある。

その岐路に立たされた時、そこに意地でもしがみつくのか、
はたまた他人に譲るのかという二択で、その人の度量が試される。
とみやすけは思っている。

たとえばね、
今、いろんな会社で後輩が育たない。

やる気が無い、根性が無い、とか
いろんな難癖をつけて、後輩をいたぶる人が多い。

仕事は見て盗めなど、働く背中を見ろ的な
言い分をする人達も居る。

そんな今、会社で後輩が育たないのは、
先輩達がいつまでも現役気分でいて、
"人生、引き際"の岐路を見失ったからではないか?

"人生、引き際が肝心"

パズルに合わなくなったピース達は、
自ら、無理にそのフレームにねじ込む事によって、
結局、その居場所をダメにしている。

場の"流れ"を大切にしたい。
その想いは、その居場所に対する愛情である。
居場所を失う恐怖こそ、
その居場所にある自分を死守する行為である。
それは居場所を、エゴで縛る行為だ。

"形の合わなくなったピース"

もし、自分がそうなってしまったら
他人にその居場所を譲る。

やがて、何もしなくてもよくなったピース達は、
その居場所にとっての"余暇"になる。

その"余暇"は、溜まれば溜まるほど
その居場所にとっての風になる。
人は"余暇"を求めて、居場所にやってくる。
そういう"余暇"は、あるだけあった方が良いのだ。

余暇とは、経験
余暇とは、積み重ね
余暇とは、そこに"居る"ということ。

"人生、引き際が肝心"であるとは、
そこに"余暇"を作ることなのだ。

この"余暇"があってこそ、
人から求められ続ける居場所になる。

たとえばそう、先輩達がその会社内の"余暇"になる事で、
後輩達が働きやすくなるといったように。。

"余暇"は、居場所の流れになる。
その"流れ"は、きっといろんな人にとっての出逢いにも繋がる。
そう、その"出逢い"のきっかけこそ、
実は"余暇"そのものであるから。

あなたの人生も、
そういう"余暇"に満ち溢れたものになりますように。
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エッセイ "暴力"

2018年12月03日 | 哲学


これからするお話は、たとえばのお話、、である。

読者の中で、暴力の被害を受けた事のある人は居ますか?
たぶん、ほぼみんなが手を挙げると思う。
そしてたぶん、その悔しさ、怒り、悲しみを
語ると、ずっと語りたくなるだろう、と思う。
誰だって被害を受けた事がある。
そう、誰だって被害者だ。

しかし、その逆はどうだろう。。
読者の中で、"暴力を振るった事のある人は居ますか?"
はたして結果は、、
決して想像で決め付けたくはないけど、
おそらく、被害を受けた時よりかも数は減ると思っている。

これも、たとえば、、の話。
ある犯罪者が居た。
彼の名はテッド・バンディ。
いわゆる彼はシリアルキラーだ。
そう殺人鬼だ。
当時、彼はたくさんの人を殺めた。

誰もが認める暴力の加害者、である。
しかし、そんな彼の生育歴を見てみると、、
幼少期、彼はお父さんとお母さんから捨てられた。
そして、おじいちゃんに育てられた。
でも、そのおじいちゃんから
虐待を受けていた、、という。

きっと、このお話を聞いて、、あっと思うだろう。
でも、この手のお話は、
きっと他でも聞いた事のある類いでもあると思う。
そう、この手の"虐待"はありふれている。。

話を戻そう。
読者の中で、被害を受けたと思う人の数と、
暴力を振るった事があると認識している人の数の間には、
おそらくギャップがあると、みやすけは言った。

しかし、この地球上で、人間である限りにおいて、
暴力をまったく振るった事の無い人が居るのだろうか。
誰彼に向ける視線、不意の言動、
そして直接的に相手が嫌な顔をする瞬間、、
これらは、日常でありふれている光景だ。
相手が嫌な顔しない、相手が困惑しない、
そういう不意の瞬間が全く無い関係というのは、
たぶんあり得ないと思っている。
どこかしら、人は人間の関係において、
嫌な感じのする瞬間がある。。

では、どこからが"暴力"になるのだろう。
その境目というか、決定的な定義は無い、
というのがみやすけの感じるところである。。

それは、そのグレーゾーンが限りなく広がっている中で、
いつ誰から、訴えられるのかが明確ではないという事である。

そうつまり、あなたが加害者であるかないかの境界は、
すごくあやふやなものでしかない、、という事である。
被害体験は明確でも、相手に加害を加えてしまったというのは、
すごくあやふやなものでしかない。

だから、当時そんなつもりはなくても、
実は暴力だった事もあり得るという事だ。。

それなら、先程の殺人鬼のである彼のケースではどうか?
そう、自分がそうなるのか、ならないかの境界というのも、
実は、あやふやなものでしかない。

なぜなら、彼の受けた虐待は、今でもありふれているからだ。。
つまり、自分が暴力を加える加害者の立場か、
はたまた被害者の立場になるのか、という境界をも、
実はあやふやなのもでしかない、、

この被害者、加害者、という立場、
そして被害を受ける、加害を加えるという立場をも
実はあやふやなものである、、というのは、
暴力そのものの存在をあやふやにしている。

そして、よーく考えたら、誰にだってある瞬間なのに、
暴力を振るう事に関してのみ、
自分には関係の無い事として思い込んでいるのは、
それこそ、この世から暴力が無くならない一因だと思っている。

誰だって、一歩間違えれば、彼のような殺人鬼になり得るのだ。
なぜなら、彼の受けた暴力は今でもありふれているからだ。
では、そのありふれている暴力とは、なんだろう。。
それは、あなたから振り下ろされたものかも知れない。
なぜなら、その"きっかけ"とは、結局あやふやなものでしかないからだ。

そう、誰にだってあるもの、、それが"暴力"だ。
それが結局、自分には関係の無い事、
とするのが、自分の暴力性への無関心に繋がっている。

さあここまでお話して、もう一度、聞こう、
読者の中で、暴力を振るった事のある人はいますか?
はたして、今度はどれだけの手が挙がるのだろう。。

しかしみやすけは思う、
人間である限り、そう、誰だって加害者である、と。
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