goo blog サービス終了のお知らせ 

山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

小川路峠(3)

2011-08-04 10:58:31 | その他

 中嶋豊さん。元県警山岳遭難救助隊長。画才にたけておられるらしく、レスキュー活動のかたわら、みずから筆を揮って、県内の山々や峠の案内絵図を作成・販売されている。氏のHP『信州山歩き地図』によれば、これまでに風越山・雨飾山・大姥山・清内路街道などのほか、山歩きや城跡巡りマップを多数作成されているとか。
 もとより知遇の栄に浴したことがあるわけじゃない。遠山郷在住で、今も赤石山系の山岳救助隊で活躍しておられる知人が、こちらが小川路峠越えをもくろんでいるのを知って、中嶋氏の作品のうち『秋葉街道 飯田市上久堅(かみひさかた)~上村(かみむら)イラストマップ』(飯田市役所観光課発行 有料)を送ってくれた。一見して驚喜。これぞかねて欲しかったもの。
 飯田がわ・遠山がわ双方の登山口から下り口まで、全行程約8時間、微に入り細に入り、かゆいところに(痒くないところにも)手が届くように教えてくれる。距離・所要時間・危険箇所・道しるべなど、これがあれば鬼に金棒、すぐにも飛んで行きたい。困るのは登山口までと下山口からのアシ。半世紀前に峠越えをしたときは、クルマ時代到来以前だったおかげで、休日でもバスがたんと走っていて、登山口までも、くだってからも、スムーズに移動できたんだけどなあ。ま、アシの心配も楽しみのひとつ、ゆっくりじっくり調べてみるさ。
 最も嬉しいのは、クルマじゃ行けないこと。さんざっぱら歩いて、やっと頂上に着いたら、車道に出た、なんてことが何度あったことか。碓氷峠しかり、鳥居峠しかり。とは言え、さすがに下伊那は遠い。中一日歩くとすれば、長野からの往復時間を考えると、どうしても2泊3日はかかりそうだ。峠越えに丸一日かかるのは当然としても、行きも帰りも半日ずつなんてモッタイナイなあ。
 いっそのこと、毒喰えば皿まで、水窪(みさくぼ)までノシちゃおうかな。飯田から遠州は秋葉山(あきばさん)に出るには、実は更にもうひとつの難関があった。青崩(あおくづれ)峠。信濃と遠江の国境。武田信玄が浜松の家康を攻めたときも、勝頼が長篠に向うときも、敗れて逃げたときも越えた峠。今でもクルマは通れない。歩いて越すひともまれ。前記『東路(あづまぢ)日記』の小田宅子さんご一行、小川路越えに丸一日、青崩峠越えに同じく丸一日かかっている。
 飯田~水窪、汽車で2時間弱。昔は山越え、谷越え、川を(たいていは歩いて、一部は舟で)越え、木の根や蔦蔓にすがって崖を攀じ登り、けものの気配におびえ、山賊を警戒し・・・とにかくマルマル2日がけ、命がけだった。それもこれも、箱根と新居の関所を迂回するためだけだった、てんだから江戸幕府さん、ひどいよ。(続く)

小川路峠(2)

2011-08-02 15:59:50 | その他

 昭和39(1964)年5月初め。正午、秋葉街道は小川路峠(標高1,642m)に立つ。眼下は千メートルを超す深い、深ーい谷。底は見えない。対岸は屏風をめぐらしたような、潅木に蔽われた急斜面、というより断崖に近い。こちらがわよりずっと高そうだ。
 しばらく見つめているうちに、「屏風」の上端あたりに小さな四角っぽいものが点在しているのに気がつく。岩か。いや、自然のものじゃない、人工的なものだ。「あれが下栗(しもぐり)の集落さ」案内してくれたひとが教えてくれる。双眼鏡が無いので、判然とはしないが、そう言われてみると、確かにあの粒々は家だ。横に走る細い筋は道だ。それにしても危なっかしい。あれじゃあ、家からも道からも、谷底までいっきに転落してしまうじゃないか。なんの因果で、あんなところに住んでいるのか。
 「日本のチベット・秘境遠山郷(とおやまごう)」。想像さえしていなかった光景。日本にまだこんなところが残っていたのか。見たところ、畑も無いようだし、何を食べ、どんな暮らしをしているのか。第一、住んでいるのは日本人か、いや、人間か。あとで聞けば、遠山郷の中でも最も高地の集落で、林業で生計を立てているんだとか。電柱が見えないから、電気も通っていないんだろう。学校はどうなっているのか、買い物などは谷底までおりて、また登り返すのか。
 昭和12(1937)年、飯田線全線開通。遠山郷が外界とつながる。それまでは飯田方面との往来は古代以来、小川路を歩いて越すこの『秋葉街道』しかなかった。一時期地蔵峠を越え、大河原から高遠を経て諏訪に直通する道があったが、道が崩れたりして、久しく途絶していた。また、峠越えの難儀を避け、はるか下流まで天竜川を舟でくだって、遠山川沿いに歩いて入ったこともあるらしい。(現に、飯田線開通前、学校の先生で、赴任するのに舟で行ったという話を聞いたことがある。とは言え、名にし負う「暴れ天龍」、命がけだっただろう)。
 昭和40年代半ばになって『赤石林道』開通。クルマで飯田方面と往来できるようになる。そして近年『三遠南信自動車道』の長野県側が開通。遠山郷は秘境ではなくなり、ただの山村に成り下がった(らしい)。いづれは太平洋側ともつながる計画だとか。そうなれば「ただの山村」どころか、単なる通過地点になってしまうのだろう。
 悪いこと(?)ばかりじゃない。2本もできたクルマの道、どちらも小川路峠よりずっと北のあたりで伊那山地を越え、もしくはトンネルで通り抜けている。ということはだ、いいかい、古来の峠道が手つかずのっまま残ったってことじゃないか。素晴らしい!(続く)。

小川路峠

2011-07-31 09:54:34 | その他

 木曾路はすべて山の中である

 半世紀も前の話。小学校4年だったか、5年だったか、担任の先生が小さな図書室に連れて行ってくれて、「この中の本、どれでも読んでいいぞ」と言ってくれた。ガラスのはまった書棚の中を覗いて、最初に目に飛び込んできたのは、ズラーッと並んだ『藤村全集』。「スッゲー、あのフジムラ、こんな立派な本も書いているのか。」この笑い話、分る人はよほどの年寄りだね。
 いや、なにもここで、フジムラやトーソンの話をしたいんじゃない。昔の主要街道は「すべて山の中」を通っていた、つまり海沿い/川沿いの平地じゃなかった、って話をしたかっただけ。幕末か明治の初めごろ、日本を旅した外国人が「この国には川がない、すべて滝だ」と驚いたとか。ことほど左様に、遥か古代から室町ごろまで、都から東国へ行くには、海沿いや平地を辿るなんて、ほとんど不可能だった。太平洋がわも日本海がわも、急峻な山がストーンと海に落ち込んでいるところだらけ。内陸は内陸で、無数の急流が行く手を阻んでいる。紀伊半島を回り込んだり、遠州灘を乗り切る船なんか無い。ましてや能登半島をまわるなんて、死ぬよりこわい。「すべて山の中」、それもほとんど尾根筋ばかりを辿ったのさ。
 たとえば「都をば霞とともにたちしかど、秋風ぞふく白河の関」のオッチャン。どこをどう歩いたんだろう。鈴鹿を越え、美濃の山中を抜け、中津川へ出る。馬籠・妻籠あたりから、いわゆる木曽路を辿ったか(と言っても、もちろん今の19号線や中央線沿いじゃない、ずっとずっと山手の岨道)。それとも古代以来の東山道に入って、「ちはやぶる神の御坂」峠から「たずねまほしき園原」へ降り、(天竜川沿い、つまり伊那谷は、木曽山脈から流れ落ちる急流、いわゆる「伊那の七谷」を越せないから)、飯田あたりで天竜川を渡り、伊那山地の尾根筋を辿って、後世のいわゆる秋葉街道沿いに、尾根筋を踏破して諏訪に出、そこからは後の中山道に入って、碓氷峠から関東に出たか。
 ひとたび雨が降れば、川は「滝つ瀬」に変わり、平地は水浸し、行く先々で山抜け・崖崩れ。だからいくらシンドくても、山中を抜けるしかない。密林の中、道筋もはっきりしない。狼がいる、熊がいる、猪がいる、毒虫がいる、毒蛇がいる、山賊がいる。宿なんかないから、大抵は野宿。たまに人に出会っても、ことばが通じない。ゼニなんか通用しない。したがって食べ物を恵んでもらえない。あー、思うだにおっそろしい。
 飯田から遠山郷(とおやまごう)へ抜けるには(と、ここで唐突に話が変わりますが)、近年までは、と言ってももうだいぶ前、昭和11(1936)年に満島(みつしま、今の平岡)まで飯田線が開通するまでは、秋葉街道は小川路峠越えが唯一のルートだった。(厳密に言えば、天竜川を舟でくだることも可能だったそうだが、詳しくは知らない。また、かつての秋葉街道は、北は地蔵峠を越えて高遠方面、南は青崩(あおくずれ)峠を越えて遠江の国へ通じていたけれど、道が崩れて久しく通行不能状態だった)。
 その小川路越えが、また、並大抵の峠越えじゃなかった。その実態は、既報『東路日記』の小田宅子さんの記録でうかがい知ることができますが、不肖わたくしがかつて挑んだ話と、再挑戦を図っている話は、くたびれたので、次回のお楽しみとしませう。

天変地異

2011-07-28 17:58:54 | その他

 アラバマを出たときゃ
 一晩中雨が降ってて、カラカラ天気さ
 日射しがきつくて、凍え死ぬとこだったぜ

 バンジョーを抱えてルイジアナへ向う男(年齢不詳)。「泣くな、スザンナ。オラにゃ心底惚れた女があっちにいるんだ。」さすがアメリカの渡世人、スカーッとしてますなあ。なーんて、感心した話をしたいんじゃない。要は、今日この頃のような、訳の分からない異変続きのこと。
 あっちじゃ大旱魃、こっちじゃ大洪水。あっちじゃ大量殺人、こっちじゃ列車追突。信州の高原でも、蒸し暑いばかりで、ロクに雨も降らない。あれもこれも、原発のせいだ、トーデンがいけないんだ。いや、元はといえば、地震のせいだ、津波がいけなかったんだ。
 天変地異は人の世に異変が起きる前兆、って昔から言われてきた通りだなあ。こんなときゃ、家に閉じこもって、じっとしているに限る。畑の草取りが済んだだけでも有難いとおもわなくっちゃね。

 

懐かしの木炭バス

2011-07-14 15:52:33 | その他

 『木炭バス』。懐かしいなあ。戦後しばらく、昭和20年(1945)から数年のあいだ、長野市内や周辺部を盛んに走っていた。当時の我が家は善光寺をはじめ、県庁や市役所など、主要施設が集中している地域の西北の一角、通称戸隠街道と鬼無里街道の分岐点にあった。農村部へ魚や菓子や生活用品を送り出す物資補給基地でもあり、同時に人々が市内に入る入口でもあった。朝早くは「山へ上げる」荷物を積んだ荷馬車や牛車で賑わい、昼前には「山から(もちろん歩いて)下ってきた」人々が続々と通った。
 敗戦前後数年間は、アブラがないからクルマはない。道路が狭くてデコボコだらけだったから、ごくたまに占領軍のジープや「オート三輪」が通ったとしても、「山」へは向わない。子どもがワンサカいて、みーんな道路で遊んでいた。こちらはまだ5歳。よちよち歩きってほどじゃなかったはずだが、クルマなんて知らない。だから「道を横断するときは左右を確認」なんて知らない。いつものように道路を横切っていて、オート三輪に轢かれた。さいわい片足を折ったぐらいで済み、かなり長いあいだ、母に背負われて「骨つぎさん」(医者もロクに無かった)に通った記憶がある。
 1年か2年して、復興が進み出し、例の木炭バスが出現した。今や懐かしのボンネットバス。後部に大きなトタン製の釜(ガスボンベを大きくしたような形のもの)を背負っていて、チップにした薪を燃やして走る。原理は知らない。物の本によれば、薪を燃やして一酸化炭素ガスを発生させ、同時に僅かに出る水素と混ぜて爆発させたんだとか。とにかく猛烈に黒煙を上げ、オンボロ車体は言うまでもなく、エンジンも賑やかな音をたてていたっけ。
 釜が小さいから1回の薪補給で走れるのは、せいぜい2キロほどだったんじゃないかな。長野の町は坂が多いから、もっと短かったかも。いつもウチの前に来ると、バスが止まる。運転手が降りてくる、女車掌が大きな竹籠(何しろ金属は希少だった)に入れた木片を運んでくる。梯子をかけて運転手が釜の蓋をあける。薪を落し込む。下部の扉をあけて、灰を掻き出す。もちろんすぐには走り出さない。煙が勢い良く上がり始めるのを待って、ゆっくりゆっくり走り始める。デコボコ道をオンボロ車がオンボロエンジンの音を轟かせる。そしてまたちょっと走って、薪を補充する。みーんなノンビリしていたなあ。
 乗った(乗せてもらった)記憶はほとんどない。オアシがなかったせいもあるだろうが、そもそも乗り物に乗る習慣がなかったせいだろう。唯一憶えているのは、近所のガキ大将に連れられて、松代まで鮒をとりに行ったことだけ。もちろんタダで。アンチャンのおばさんが川中島バスの車掌をしていて、そのおばさんの名前を言えばタダで乗せてくれたんだと思う。古き良き時代。
 延々とお目を汚したのは、ほかでもない。「脱石油」の論議のなかで、この「薪でエンジンを回す」方法が取り沙汰されていない、されていても耳に入ってこないから。このほどの震災と津波で、始末に困っている廃材がゴマンと出ているとか。これでエンジンを回す、発電機を回す。浜辺などの「震災ゴミ」の山の脇の「簡易発電所」、いいんじゃない?
 
ネットで調べたら、このアイデア、既に6年前、2005年12月に『大阪モーターショー』で発表したひとがいるらしい。名付けて『薪ガス自動車』。記事には「注目を集めた」とあるけれど、例によってマジメに採用する企業が無かったのかなあ。トーデンさん、トヨタさん、フランスやアメリカのものばかり有難がっていちゃいけないよ。「足元を見よ、道はいくらもあるぞ。」

鉄橋とトンネル

2011-07-06 16:37:58 | その他

 今は山なか、今は浜、今は鉄橋渡るぞと、
 思う間もなくトンネルの、闇を通って広野原...

 汽車汽車シュッポシュッポ...
 走れ、走れ、鉄橋だ、トンネルだ、楽しいな

 汽笛一声、汽車は直江津を出発。10分もしないうちに最初の駅、郷津(ごうづ)に着く。同時に車窓いっぱいに広がって眼に飛び込む海の景色。山国の子どもにとっては生まれて初めて目にする海。湧き上がる喚声。窓という窓から、男の子が身を乗り出す。煙も石炭の粉塵もメじゃない。窓をとられた子は、ガラスに顔を押し付けて、じっと眺めている。あー、海は広いな、大きいな!
 60年近くも昔の話。郷津を出るとすぐに、長いトンネルに入る。昔も今も、何故か子どもは鉄橋とトンネルが大好き。またまた大喚声。煙が窓からどっと入ってくる。またまた喚声。トンネルを抜けると汽車は再び渚を走る。そして谷浜。そして更に長いトンネル。速い速い!スッゲー、自転車より速いぞ!(註:当時はバスより自転車のほうが速かった)。
 谷浜→有間川→名立→筒石→能生→浦本→梶屋敷→糸魚川。小学校の「臨海学校」で、このときは何処で降りたかは覚えていない。もしかしたら、逆方向の鯨波だったかも。いずれにせよ、懐かしい線路も今は廃線になって、北陸線は山の中を通る地下鉄に成り下がってしまった。しかし嬉しいことに、この廃線跡が『くびき自転車・歩行者道』として復活した。2年前から少しずつ歩き始めて、残るは直江津~有間川のみ。よし、今回はこの未踏破区間に挑戦しようっと。
 7月4日(月)。予報は嵐。有間川発8:30。谷浜に向って歩き始める。あー、あった、あった!懐かしのトンネル。長いぞ、長いぞ!200mは超すんじゃないかな。有難いことに照明がついていて、足元が危なくない。トンネルを抜けると、谷浜の集落に入る。廃線跡を離れて、海岸沿いの防潮堤のかげを歩く。1時間で谷浜駅。雨脚が激しくなる。駅の時刻表を見ると、直江津に戻る列車がすぐに来るようだ。無理することはない、今回はここまでとしよう。郷津は後日。歩行距離5キロ余りか、悪くはないさ。
 この夏の『老人の休日パス』。6月下旬から7月5日まで。4日間の有効期間のうちの2日ぶんを使って、津軽半島は「外が浜」を歩きたかったけれど、地震やら津波やらで東北は取り込み中。その上、ウチでも縁辺に危篤の病人がふたりいて、泊りがけは遠慮。4回をすべて日帰りでこなすことにしよう。切符代は¥13,500。1日¥3,250。直江津往復は¥2,560。これじゃあ元が取れないが、あとの3日で帳尻合わせすればいいさ。
 と言うわけで、前日に羽越線「あつみ温泉駅」往復。新幹線と特急をフルに利用して、大金を稼ぎ(?)、残りは家内が2日に千葉、5日に東京往復。あー、儲けた、儲けた!なーんちゃって、いつもながらの銭勘定というか、皮算用。せこいねー!

碓氷峠越え

2011-06-01 16:18:04 | その他

 比奈久母理  宇須比乃佐可乎 古延志太尓  伊毛賀古比之久  和須良延奴加母
 ひなくもり うすひのさかを こえしだに いもがこひしく わすらえぬかも

 「薄曇りで薄日がさしている」どころか、爽やかに晴れ渡っていたし、「妹が恋しく」もなかったけれど、長年の念願だった「碓氷峠越え」を遂に果たしました。ただし比較的登りが短くくだりが長い西(軽井沢がわ)からでしたがね。それでも予想をはるかに超える難行苦行の連続で、古代から幕末まで数知れぬ旅人を悩ませた峠越えの苦労をたっぷり偲ぶことができました。
 31日火曜日。同行二人(どうぎょうににん)、と言っても同行したのは『お大師様』じゃなく、いつもの友人。この日だけの梅雨の晴れ間(幸運!)。朝7時半軽井沢駅出発。まだ眠っている町並み(類人猿ならぬうるさい類蜂人/類蟻人/類蛾人なんて連中が群れていなくて助かった!)を抜けて『遊歩道』の入口に着いたのが8時。青葉若葉のトンネルをたっぷり楽しみつつ、2時間で『見晴台』。テレビ番組の撮影とかでワイワイガヤガヤやっている若い男女に辟易し、上信国境の緑の絨毯の眺めと、タゴールの胸像を見ただけで満足して、怱々に退散。
 そして『峠』。食堂や茶屋が軒を連ね、いずこも同じ観光地風景。熊野神社をちょっと見ただけで、足をとめることなく上州側へのくだりにかかる。さー、ここからが大変でした。悪路・険路・隘路。人馬の往来が盛んだった往時を偲ぶよすがもない。行政の管轄が異なると、道の整備状況が極端に変わる。立峠(たちとうげ)の会田(あいだ)がわも、鳥居峠の奈良井がわもそうだった。迷わないようにしてやっただけ有難いと思え、というわけか。それとも、昔のひとの難儀を思え、という「親ごころ」か。確かに苦労しました。
 下りでもあるし、せいぜい2時間半もあればじゅうぶん、午後1時前にはふもとに着くだろうという見込みは大はずれ。登り口の坂本宿に着いたのが1時半、なんと3時間半もかかってしまった。途中腰を降ろす場所も見つからなかったため、昼食抜きでひたすら歩きに歩いたのになあ。
 帰りの軽井沢行きバスは横川発2時、坂本から横川まではまだ3キロ余りもある、到底間に合わない。次のバスは2時間後。あきらめて、ゆっくりむすびを食べ、廃線になった信越線の線路敷跡やトンネルの中を歩き、旧坂本宿から旧街道筋を1時間かけてぶらぶら歩き、昔懐かしい横川駅に着いたのが3時半。今日の旅の終わり。
 友人の万歩計によれば、本日の歩数はちょうど4万歩。快挙というか愚挙というか。峠の頂上付近を除いて、最初から最後まで、秋の暮れでもないのに「この道を行く人なし」でした。「歩ける道」としては貴重なところとは言うものの、もう一度歩け、と言われれば躊躇したくなる。唯一の成果(?)は群馬がわで2キロ近く続くモミジガサの大群落を見たことと、貴重な貴重なユキザサの一叢を見かけたことぐらいかな。でもでも、疲れたけれど楽しかったなあ。

 棄捐令

2011-05-29 15:56:03 | その他

 棄捐令(きえんれい)は、江戸時代幕府が財政難に陥った旗本・御家人を救済するために、債権者である札差に対し債権放棄・債務繰延べをさせた武士救済法令である。なお、松江藩・加賀藩・佐賀藩など諸藩でも行われた。《Wikipeia》
 平たく言えば「借金踏み倒し公認/借金棒引き令」。額に汗して働く農民や職人や商人に寄生している「身分柄もわきまえない」連中、凶器をみせびらかして威張りちらす暴力団まがいの連中、そのくせ年がら年じゅう懐はピーピー、そんなヤカラを救済するってんだから、チャンチャラおかしいわい。佐渡の金山でこき使えばよかったのさ。かすめ取った金を何に使ったかと言えば、お互いの贈答・賄賂・体面維持・寺院への寄付など、要するに不要不急の目的のためが主だった(『武士の家計簿』)てんだから、お話にも何もなりゃしない。
 悪夢の時代は終わった。寄食階級は当然ながら自滅した。しかしここではあんな連中の話をしたいんじゃない。今回の津波で債務を負ったまま、家屋敷やクルマその他の家財や農地・漁船などの生産手段を流されてしまい「そして借金だけが残った」ひとびとのこと。自業自得の武士階級とは違って「まっとうな暮らし」をしてきたひとびと、トーデンから多額の賠償金が貰える「原発被害者」とは違って、怨むのは賠償なんかしてくれないオテントサマだけ、というひとびとを救済する手立てのひとつとして、例の『棄捐令』がありゃーしないか、という話。
 「天に代わって不義を討つ」とくると、かなり時代がかってしまう。かなり旗色が悪そうな現職の総理大臣さん、「天に代わって借金を肩代わりしまっせ」なんてスローガンを掲げたらどうでおまっしゃろか。ま、無理でしょうねえ。江戸幕府のような「軍事独裁政権」じゃないんだから、恩恵に浴さない多くのひとびとから、ゴーゴーたる批難の声が上がって、「政権浮揚」どころか、命さえ危うくなるかもね。
 

 

西山(にしやま)攻め

2011-05-21 17:04:19 | その他

 戸隠飯綱だけが山じゃない、裾花だけが川じゃない、ということに先日ふと気がついた。西長野から今の川中島に移り住んで10年、まわりの風景が素直に、つまりありのままに受け入れられるようになったらしい。そうだ、山といえば西山(七二会・新町・中条・小川)、川といえば犀川じゃないか。というわけで、この3日間、西山を集中的に攻めてきました。なに「攻める」なんて大袈裟なことじゃない、ちょっとバスに乗って、ちょっと歩いてきただけですがね。
 19日(木)夏空。犀川筋のバスに乗るのは数十年ぶりなので、感覚がつかめない。まずは小手調べ。バスターミナル発7時50分信州新町行き。高校生ばかりで満席。そうだった、この路線は信州新町の高校へ通う生徒たちの通学バスだったんだ。こりゃいけない、早めに降りようと思い、外を見ていたら、30分ほどして「道の駅」の看板が眼に入った。次のバス停で降ろしてもらい、200メートルほど戻る。『道の駅信州新町』はまだ開店準備中。強引に中に入る。どこかのテレビ局が取材中で、売り場のおばさんにインタビューなんかしている。カメラに写らないように、あちこちコソコソ歩き回る。『山菜コーナー』。近くのひとらしい老夫婦が、先ほど山から採ってきたとおぼしきフキやワラビを箱から取り出して並べている。あったぞ!モミジガサだ!一握り200円。はるばる200円もかけて(正規運賃は1,300円)探し求めに来た甲斐があった。200円だけじゃちょっと愛想がないので、ついでに「地物」らしいワラビ(一束150円)を二束買い足す。宝物でも拾った気分で、そのまま意気揚々引き返す。
 20日。きのうに懲りて、ひとつ早いバスに乗ろうと、始発の善光寺大門まで歩く。7時10分発同じく新町行き。さすがに高校生の姿はまばらで、バスは空いている。きのう目星をつけておいた『更府(こうふ)小学校入口』で降り、念願の「西山歩き」開始。空は皐月晴、地は新緑、クルマなし、ひとかげなし。ヤッパ、山はええなあ。交通の激しい国道とは川をはさんで反対側の山道を、川に沿って歩くこと1時間半。山菜なし、ノビロなし、なーんもなし。でも気分はサイコー。地図を持ってきていなかったので、先の見通しがつかず、近くの橋(穂刈橋)を渡って、きのうと同じバスで引き返す。
 21日。快晴。きのうの轍を踏まないように、西山の感覚を大まかにつかもうと、篠ノ井駅から新町行き7:45のバスに乗る。土曜日だから通学の生徒もいないだろうと思ったら、案に反して既に満員(このごろは土曜日も学校はやっているらしい)。最前列に座っているアンチャンが「こわーい」のかどうか、その横がひとつだけ空いている。駅を出たあと、バスは川柳(せんりゅう)・石川・信里(のぶさと)・原市場(はらいちば)と辿り、そこで峠を越えて更府・安庭(やすにわ)、そして8時半新町着。きのうおとついと同じバスで引き返す(何しろ「いくら乗っても百円」だから「この際、できるだけ歩き回ろう見てこよう」なんてケチな根性は持たないのさ)。今朝はただただバスに乗り詰め、しかし西山方面のおおよそがつかめたし、次に目指す湧池(わくいけ)と久米路橋(くめじばし)を通ることが分って大満足。明日はバスが運休だし、あのあたりは他日のためにとっておくことにしようっと。

逃げるが勝ち

2011-05-12 18:08:41 | その他

 逃げるが勝ち。逃げた・・・そして勝った。「勝った」と言うか、負けなかった。
 釜石市立東中学と同鵜住居(うのすまい)小学校。先般の大津波で、ひとりの犠牲者も出さなかった。それも「センセーがたのご指導よろしきを得て」などと言う、ありきたりの話じゃない。むしろ「ご指導」に従わなかったから助かった。正確には、校長センセが「全員校庭に集合」と全校放送しようとしたら、停電で放送が使えなかったのが幸いした。(なまじ放送できたため、悠長に集合なんかしたところを津波に襲われ、過半数の子供が犠牲になったところもある)。
 まず中学生が敏感に反応した。並大抵の揺れじゃないと感じ、速、行動した。つまり、逃げ出した(センセーがたの指示なんか待っていなかった)。校内各所に散らばっていた仲間たちに声をかけつつ、とにかく高台の「第一避難場所」めがけて駆けた。その姿を見て、いったんは「ご指導」に従って3階に避難していた小学生たちが後を追った。
 最初の避難場所まで来た時、地元の生徒が崖崩れに気がついた。咄嗟に危険を察知、更に上の「第二避難場所」をめざした。途中、保育園児を抱きかかえながら、全員急坂を登り切った。津波が追ってきたが、ひとりも捕まらなかった。
 東北大の片田教授の「3つの教え」が実った。
 1.ハザードマップを信じるな
 2.最善を尽くせ
 3.率先避難者たれ
 2番目の「最善」云々はちょっと抽象的過ぎる嫌いが無きにしもあらずながら、「率先」云々には感銘を受けた。確かに中学生たちが教えに忠実に「率先垂範」した点が素晴らしい。
 以上、先日のテレビ番組を見逃した方々のために、老婆(爺)心ながらご一報させていただきました。詳しくは群馬大学の「広域首都圏防災研究センター」のHPほかでお調べください。
 なお、東松島市立浜市小学校も同様の「成果」をあげたそうです。