山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

高粱

2011-03-31 17:16:23 | その他

 高粱(こうりゃん)。「赤まんま」、懐かしいなあ。敗戦直後の食糧難の思い出の中で、ひとつ忘れていたのがこれ。穀物としては稗(ひえ)・粟(あわ)・黍(きび)・押し麦(大麦)など、何でも食べたけれど、おかずも調味料もなしじゃあ、いくら空腹でも不味かった。
 幼稚園から小学校2年ぐらいまで、アルマイトの弁当箱、真ん中に梅干ひとつ、そして豪華絢爛、真っ赤な真っ赤な「赤まんま」。一見「お赤飯」、実は高粱めし。オカズは細っちいサツマイモ一本。今にして思えば、あんなもの、ウマイはずがない。パサパサしていて、正に「砂を噛む」感じ。うまかったんじゃなく、嬉しかったんだろう。たぶん母がほんの少し白米を混ぜてくれたんじゃないかな。嬉しかったのは、そのせいだったのだろう。
 現在でも代表的な家畜の餌のひとつ。洋名ソルガム、またはミレット。しかしなかなかお目にかかれない。キノコ採りで山村を歩いているとき、いつも探すんだけど、とんと見かけない。どうやら日本の鶏や豚は美食に慣れていて、高粱なんか見向きもしないのかな。ゼータクだぞ、おい!
 ネットで調べたら、昔は東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)で貧しい農民が食べていたとか。いまでも白酒(パイチュウ)の原料として広く栽培されているほか、このごろは例の「ヘルシー志向」で、上海あたりでも「高粱粥」の人気が高まっているらしい。中国くんだりまで「のす」元気はないが、ひょっとして日本でも、どこかの上海料理店のメニューにないかな。ご存知の向きはご一報くだされ。

食糧自給

2011-03-30 17:35:56 | その他

 今年の春は寒い日が続いて、畑の準備が10日ほど遅れています。きのう(29日)あたりから漸く春らしくなり、大根やカブの種をまいたり、ジャガイモの畝の準備を始めました。昨年はジャガイモを植えつけたのが20日でしたから、だいぶ遅れています。
 今年は例年にもまして食糧生産に励まなくちゃね。大津波の被災地に送るほどは作れなくても、せめて自家とご近所に配る分ぐらいは賄うようにすれば、たとえ僅かでも、その分だけ被災地に廻るはず。皆さん、自給自足を心がけましょう。
 敗戦の年、昭和20年夏、町から急に食べ物がなくなった。お米がぱったりと姿を消した。父は戦地から復員せず、いつ帰るか分らない。幼い子供4人の食べ物を求めて、母はリュックを背負って、4キロほど離れた芋井村まで「買出し」(もちろん歩いて。バスなんてなかった。せいぜい荷馬車が鬼無里や戸隠に通っていただけ)。リュックには、行きは物々交換用の着物、帰りは運が良ければサツマイモやカボチャが少々。たまに米を恵んでもらっても、玄米なので、サイダーの壜に入れ、箸で突いて「自家精米」。足りない分は「ふすま団子」。「ふすま」ってのは小麦粉の皮のことでね、いくら空腹でもあればっかりはまずかったなあ。とにかくひもじかったなあ。
 今にして思えば、ジャガイモの記憶がない。ジャガイモが日常食品のひとつになったのは、それほど昔のことじゃないんじゃないかな。あのころ、ジャガイモがふんだんにあったら、どれほど助かったことか。サツマイモやカボチャは「腹がくちく」ならない。古代以来の「米ひとすじ」の報いを受けたのか。
 それでも、ウチは田舎に知り合いがあったので、恵まれていたほうじゃないかな。都会から「疎開」して来ていた人々はどうしていたのかなあ。当時はそこらじゅうに空き地があった。カボチャやサツマイモがぎっしり栽培されていたなあ。近くに長野師範学校の寮があって、そこのグランド一面、カボチャの蔓が這っていたような記憶がある。それを狙って、近辺のガキドモが忍び込む。見張りに追いかけられる。スリルがあったなあ。
 疎開と言えば、東京湾沿岸から、千葉・茨城・福島・宮城・岩手の太平洋沿岸の人々、当面しばらくは疎開をしたらどうかな。それも、オカミに斡旋を頼むんじゃなく、どんどん逃げ出すのさ。「自主避難」するのさ。敗戦のときは「オカミ」そのものが無かった。今も同じと思ったほうがいい。できれば九州・沖縄・台湾・山陰・山陽・北陸・甲信、「窓を開けてみよ」日本は広いぞ。東海・紀伊半島沿岸・四国の太平洋岸は避けたほうがいいよ、もうすぐきっと大津波が来るから。
 大地震・大津波と言えば、こちとらにも心配ごとがある。直接の被害はなくとも、電気は確実に止まる。発電所が東海地方に「一極集中」しているため、電気が送られて来なくなる。電力がとまると、水道もとまる。「その時」に備えて、屋根に太陽光発電パネル(設置済み)、庭先に井戸(掘削依頼済み)、炊事用のコンロとかまど薪と炭(常備済み)は用意しておかなくっちゃ。太陽光パネルは夜間には役に立たないのが泣きどころ。大容量蓄電池も欲しいけど、ベラボーに高価らしい。ま、夜は「電気なし」で我慢するさ。戦後しばらく、電気なんか全くアテにならなかったから、慣れているよ。

綾里に息子がいるんです

2011-03-27 16:21:32 | その他

 大船渡市綾里(りょうり)地区。岩手県綾里村と言えば、明治と昭和、過去2回の三陸大津波に際し、津波の最高到達地点の栄光(?)に輝いたところ。明治29年(1896)のときは、並みいるライバルたちを抑えて、堂々の38.2メートル、昭和8年(1933)のときは28.7メートル。今回は23メートルで、これでもなかなか頑張った記録ながら、どうやら40メートルを達成した地区も出そうな按配(ある学者の説)。三連続優勝ならずか。
 実は長野で床屋さんをしていた亡友の長男が、この綾里の町のやはり床屋さんに婿に入っていてね。三陸で知人と言えば彼だけだったので、昨年11月「三陸大旅行」を敢行したとき、たまたま三陸鉄道の列車が行き違い停車したのを幸い、町の様子をじっくり眺めることができた。駅は山腹のかなり高いところにあり、そこから見ると、町は急傾斜地をくだった、はるか下のほうに見える狭い入江の奥にチマチマと固まっていた。
 そのときは、恥ずかしながら、大記録のことはもちろん、津波のことなんかトンと頭になかった。11日午後4時前、『三陸で大津波』のニュース。まず最初に綾里のことが頭に浮かんだ。大丈夫だったかな。夫婦と父母、子どもふたり、6人とも無事だろうなあ。
 すぐにネットで地図を調べた。理容店が2軒、どちらも駅近く、つまり海よりずっと高いところにあるようだった。これなら大丈夫だっただろう。しかしもしかして誰か町のほうに下っていたかも。心配がつのる。夕方、市内にある息子さんの実家に駆けつけた。「ついさっき、3時ごろ、伊那にいる弟(次男)にケータイで連絡があり、みんな無事で、今から避難するところだと言ってたそうです。だけど、その後は、こちらからいくら電話しても通じないの。」
 奥さんは亡夫の後を引き継いで、ひとりで理容店をやっている。数日後、町に出たついでに、店を覗こうとしたら、月曜でもないのに休業中。3日ほどおいて前を通ったときも同じ。そして今日。よかった、店はやってる。朝早い時間でもあり、客もいないようだったので、店に入って様子を聞いた。にこにこしていた。「先日やっと連絡が来たんです。8日ぶりでした。みんな無事だそうです。NTTの無料公衆電話はひとり1分間しか使えないとかで、ロクな話もできなかったけど、やっと安心。」
 先週、ガソリンが入れられると聞いて、スタンドに行ったら、長蛇の列。もうひとつ列があったのでそちらに並んだら、それが電話の列で、こちらも順番が来るまで2時間待たされたとか。とにかく良かった、よかった。それまで毎日のように、新聞の死者・行方不明者のリストを見つめたり、テレビじゃ陸前高田のことばっかしやってて、ほかの地区のことを報じてくれないから仕方なく、大船渡には通じないので盛岡の県庁に電話したりで、とても「お店なんか開く気分になれなかった」のも無理からぬ話。その上、いまだに消息が分からない家も沢山あるなか、自分だけ無事なことを吹聴もできない。お気持ち、よーく分ります。
 夫をなくし、3人の息子は、ひとりはアメリカ、ひとりは伊那、そして長男ははるか三陸。ホント、心細いことでしたでしょうなあ。