その後(のち)やいく春経(へ)けむ、おほ方は夢にうつヽに、
忍びてはえこそ忘れね、由良の夜の追いわけ上手
――ー薄田泣菫『おもひで』より
1.みすず急行
1963(昭和38)年3月。朝7時(8時だったかも)、当時西後町、今は税務署とNTT分局になっているところにあった川中島バス本社出発。バスはボンネット型からボックス型に変わったばかりで、緑と白の洒落たデザインだったなあ。乗客は浮浪(不良じゃなく)者風の大学生(誰だ?)ひとりだけ。それにもちろん運転手と車掌(記憶にないが、当時は必ず乗務していたはず、若い女車掌じゃなく、男の車掌だったのだろう)。
塩尻までは犀川沿い、国道19号線。それから153号線に入り、善知鳥(うとう)峠を越えて辰野。天竜川の屈曲に合わせてくねくねと曲がる道を律儀に辿って飯田まで。都合何時間かかったものやら。6時間じゃきかなかったんじゃないか。7時間、もしかしたら8時間かかったかも。何しろ、国道と言っても、たいていはバスの幅ぎりぎり、舗装部分なんてほとんどないガタガタ道。いやはや、難行苦行でしたよ。
コンビに無し、もちろん『道の駅』なんて無し。所持金ほとんどゼロ。あっても途中使うところが無い。家を出るときに母が握ってくれたオムスビふたつと、水筒(当時は必携品)、持ち物はそれだけ。沿線の風景はほとんど記憶にない。最初に休憩をとった山清路(さんせいじ)の美しさだけを憶えているのは、その後ずっと居眠りをしていたのだろう。「をりからの追分ぶし」も聞きそびれたなあ。
その2年前の昭和36年6月、伊那谷を襲った通称『三六水害』の爪痕が各所に残っていた。飯田線鼎(かなえ)の駅は泥と岩と流木に埋まったままだったし、天竜川両岸の山肌は「山抜け」の跡が生々しかったっけ。
姉の嫁ぎ先にしばらく滞在して、帰りはたぶん汽車だったのだろう。全く記憶にございません。この時は、1年後下伊那に赴任することになるなんて、思ってもいませんでした。
(みすす急行は長野→松本→塩尻→伊那→飯田と県下を南北に縦断して、昭和26年6月~50年3月まで走っていました)。
2.名飯(めいはん)急行
昭和42年(だったか43年だったか)3月。中国では『文化大革命』の狂騒が最高潮だったころ。
早朝、飯田から来たバスに、阿智村駒場(こまんば)から乗り込む。同行4名。ほかにも何人か乗客がいたような気がするが、ハッキリとは憶えていない。
長い長ーい旅だった。三州街道一筋、浪合→平谷→根羽→足助、そして名古屋。根羽の停留所では、阿智高校の生徒と母親が何人か待っていて、例の(知るひとぞ知る)「わらじごへい(仁王様の履くわらじのように大きい五平餅)」を差し入れてくれたっけ。何人かの乗客はもちろん、運転手と車掌にまで「お裾分け」。思えばのんびり、のどかな時代でした。
名古屋城の広場だったか、「文化大革命展」のようなものをやっていて、通行人にはしから小さな赤い「毛沢東語録」を配っていた。開けても見ずにゴミ箱行き。何のために名古屋くんだりまで行ったのか、帰りはどうしたのか、全く思い出せない。新幹線が通る前、名古屋駅の中村がわなんか、まだ「焼跡闇市」の雰囲気が濃厚に残っていたことだけ、なぜか憶えている。
昭和40年ごろから、いわゆる高度成長の波が下伊那にも及んできて、初めはバイク、そして数年でクルマの時代に突入。中央道恵那山トンネル開通。クルマに乗って若いひとがドンドン出て行って、下伊那は一挙に過疎化。さんざんお世話になった信南交通も路線バスから撤退したとか、しかけているとか。今、リニア新幹線の駅を飯田駅に併設するとかしないとかで騒いでいるけれど、あんなもの、うるさい(に決まってる)だけ、第一、乗る人も降りる人もいなくなっているんじゃないかな。
(名飯急行は昭和27年~51年運行)
以上、どちらもネットで検索しても、ほとんどお目にかかれないようなので、記録のためにあえて昔話をさせていただきました。