goo blog サービス終了のお知らせ 

山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

検索の魔術師

2011-11-20 00:45:25 | その他

 ちいさい ちいさい龝 ちいさい穐 みーつけた

                    サトウハチロー

 

 すっげー!前回の当ブログで、漢字制限、パソコン上で使える文字に制約があることにちょっとイチャモンめいたことを書いたら、打てば響く、その日のうちに例の「横浜のT氏」からご教示のメール。「秌」も「穐」も表示できる由。さっそく、教わったいくつかの「手」のうち、いちばん簡単そうな「ユニコード表」で調べてみたら、上記の通り、いっぱつでゲット!さすがは『検索の魔術師』(と命名)。

 聞くところによると、アップルやウインドウズの最新バージョンなら、もっと簡単だとか。自慢じゃないが(ホント、自慢するところじゃないな)こちとら、「バージョンアプなんてめんどくせーこたーやーめた」と決めて久しい。旧バージョンでじゅうぶん間に合ってますって。

 ただし上記異体字、『メモ帳』では通用しない。遅れてるよ、MSさん。

 

「歴史の終焉」か

2011-11-03 15:39:00 | その他

 なんたる高尚な趣味!暗渠にされた昔の水路の上に立って、その水路が「日の目を見ていた」ころの光景を頭の中で再現し、あたかも在りし日のまま目の前に見えている気になるまで、そこにたたずむ。しばらく感慨に耽ってから、また少し歩き、同じことを繰り返す。来る日も来る日も同じところに立って、同じ思い出にひたる。凄い!心に余裕ができ、財布に余裕ができると、人間、ここまで進化するものか。しかも一人きりじゃない。キーワードを入力して、ブログなどを検索してみると、同じところについて、いくつもいくつも出てくる。「今見えているものしか見えない」凡人には、到底到達できない境地ですぞ。
 善光寺から100メートルほど下ったところを、東西一直線に流れている(正確には「いた」)鐘鋳川(かないがわ)。江戸時代初期に、善光寺平一帯の灌漑用水として作られたと言われている、由緒ある用水路だとか。裾花川下流の一箇所から、善光寺の南を巻くようにして東に流れ、やがて遥か遠く、淺川・千曲川に合流している。
 この用水路の取り入れ口、現在は発電所のある近く、昔は少し下流で今でも残るダムのあたりから、善光寺の東、「えびっさん(恵比寿神社)」のあたりまでの通称「鐘鋳端(かないばた)」が、子供のころは主要遊び場のひとつだった。幼稚園・小学校・中学、そして高校初年まで、友達も沢山住んでいた。親戚が何軒もあった。澄んだ水が滔々と流れていた。泳いだり、魚をとったり、模型の舟を浮かべたり、蛍を追ったり、秋の虫を探したり、喧嘩をしたり...。鉄や銅の値段が高かった戦後の一時期には「河太郎(がたろう)」と言って、川底を笊で浚ってカネヘン(金属のかけら)を集めるオッチャンもいた。懐かしいなあ。
 昔話なんかしている場合じゃない。そもそも何を言いたいのか。要するに、目に見えるもの、手足で触れるものには関心があったけれど、見えないものなんかに用はなかった。いわゆる「高度成長」が始まり、クルマがのさばり出し、それにつれて道路を広げるために用水路に次々とフタがかぶせられた。中央通りの東西を皮切りに、フタは左右に延び、中心市街地を歩いていても、下を川が流れていることが意識にさえのぼらなくなっちゃっていた。
 それでも道の下を水が流れているだけマシ。大都会なんかでは、完全に埋め立てられてしまったところが多いらしい。長野でも始まっている。善光寺平一帯で田んぼがほとんど消えたため、用水路が「無用の長物(文字通り長かった)」になってしまった。恐らく水利権も放棄されてしまったんだろう、昨年ついに鐘鋳川の最上流部の一部が下水パイプに替えられ、完全に埋め立てられ、それまでは用水脇の細い通路でしかなかったところが、クルマが通れる道路にされちゃった。かなり前から、農業用水は流れなくなり、単なる下水溝(どぶ)に成り下がっていたのだから、仕方ないといえば仕方ないことか。これから順次、市街地の下の(元)水路も、同様の運命を辿らされるのだろう。時代の流れ、と言われればそれまでだけれど、ホントにそれでいいのかなあ。半世紀近くの歴史遺産、壊していいものか。イギリスの運河を見て恥ずかしくないのか。町の中を滔々として流れる清流―――クルマの道なんか要らない、川よふたたび、元に戻せ!復元せよ!ワタスの心からのお願いです。
 ところが最近、上記「高尚人」がいることを知ったってわけ。驚いたな、もう。「見えないものを見るひと」が出現するなんて、こりゃーもう、文明の進化というか、文化の進展というか、行きつくところまで行って、ついに「歴史の終焉」が近いあかしというか。それでも、昔見たものを再現している段階ならまだまだ望みはある。これが、「見なかったものを見るひと」が出現したら、それこそ「一巻の終わり」かもね。

若山牧水

2011-10-30 11:36:53 | その他

 松原の茂みゆ見れば松が枝に木がくり見えて高き富士が嶺
 末とほくけぶりわたれる長濱を漕ぎ出づる舟のひとつありけり

 松原ならば私は沼津の千本松原をとる。公園になつてゐるあたりはつまらないが、其處を少し離れて西へ入ると實にいゝ松原となつてゐる。樹がみな古く、且つ磯馴松(そなれまつ)と見えぬ眞直ぐな幹を持ち、一樣に茂つた三四町の廣さを保つてずつと西三里あまり打ち續いて田子の浦に終つてゐるのである。海岸の松原としては全く珍しいと思ふ。

 若山牧水の随筆集『樹木とその葉―――駿河湾一帯の風光』の一節。数年前の拙ブログ『日本の渚一選』で紹介したあたりのことが詳しく書かれています。我がブログ、いつもいつも食べ物のことばかりで、我ながら卑しい、恥ずかしい。たまには香り高い文章に接していないと、ますます質が落ちるばかり。とは言え、上記の一文、わざわざ図書館まで出かけて『若山牧水全集』を借りてきて読んだわけじゃなく、例によってお手軽に『青空文庫』のご厄介になったもの。苦労をいとい、努力を惜しむこの根性、救いがたいですなあ。
 大正十年から十三年にかけて書かれた文章のうちのひとつだそうだから、沼津から田子の浦にかけての駿河湾の海岸線すぐ近くを汽車ぽっぽが走っていたはずだが、鉄道のことはひとことも言及がない。いいねえ、素晴らしい!煤煙と騒音を撒き散らすオジャマムシなんか(恐らく)無視、もしくは目にも耳にも入らなかったんだろう。ましてや乗るなんて...。
 とにかく歩きに歩いたひとでした。河口湖へ行くのに、鉄道なんか使わない(すでに中央線も、大月~富士吉田の私鉄も開通していた)。『木枯紀行』によれば、大正9年(1920)10月28日、自宅のある沼津から汽車で御殿場(当時東海道線は御殿場まわりだった)、そこから須走までは馬車。蕎麦屋で酒を3本(1合徳利?2合徳利?)、このひとに酒は欠かせない。ほろ酔い加減で蕎麦屋を出たはいいが、途中で酔いがまわって、萱の上で眠り込む。通りがかりのひとに起され、風雨の中「両手で洋傘を持ち、前こごみになって、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ」とさ。
 残念ながら、牧水の跡を慕って歩きたいと願っても、現今ではかなわぬ夢。山道と言わず、里道と言わず、クルマ・クルマ・クルマ。騒音におびえ、砂ぼこりに目をふさぎ、泥水(はね)をぶっかけられるのを避けなんて、命がいくつあっても足りないよ。くわばら、くわばら。
 機械文明が入ってくる以前の旅人のことはさておき、「文明開化」の風潮に背を向けて、旧来の気骨をつらぬいた「つむじ曲がり」たち、露伴・緑雨・熊楠など文人ばかりじゃなく、幕末から明治初年生まれの学者や政治家や軍人、それにもちろん職人や芸人、そして無数の庶民・農民・漁民、今の日本があるのはひとえにそういう方々のお蔭なんですぞ!
 「世のため人のため」に努力した先人たちとは違い、このごろは「誰にも厄介(迷惑)をかけない、誰のためにもならない」ことに精を出しているひとがふえているようですなあ。近しいひとのなかだけでも、丹精込めて菊作りをしているひと(売って金にしようなんて考えてもいないそうです)、善光寺平の用水路網の痕跡を辿り、記録しているひと、尊敬しちゃうなあ。山菜やきのこをあさって、(ひとさま所有の)山野に忍び込み、かすめ採っているヤツ・・・これは尊敬できないなあ。

へそまがり宣言

2011-10-14 16:07:08 | その他

 『サハリン 旅のはじまり』の筆者、山本淳一氏が『団塊的問題解消法』の最新記事の中で、拙ブログに好意的(な気がする)に言及されています。チト面映い(実は鼻高々)。あらためて愚考するに、コチトラは「つむじ曲がり」じゃなく、体で言えばずっと下の「へそ曲がり」なんだと気がつきました。「どこがどう、ポコペン違うのさ」なんて言いっこなし。そんな難しい哲学的命題、コチトラにゃあ手に負えない。
 例の「七人のつむじ曲がり」のうち、こちらのお気に入り(?)は露伴と緑雨。江戸の文人気質そのまま、薩長がのさばる世の中に対して「斜に構えている」姿勢が嬉しい。江戸城のあるじが変わったって、御一新だの開化だのとほざいたって、「ワシにはカンケーねえ、昔気質のどこが悪い?」って感じ、いいねえ。さいわい、『青空文庫』のおかげで、家に居ながらにして古典をタダで(ここが肝腎)読める。いちいち図書館まで足を運ばなくて済む。いい世の中になりました。
 

みすず急行・名飯急行

2011-09-13 15:01:57 | その他

  その後(のち)やいく春経(へ)けむ、おほ方は夢にうつヽに、
  忍びてはえこそ忘れね、由良の夜の追いわけ上手
     ――ー薄田泣菫『おもひで』より

1.みすず急行
 1963(昭和38)年3月。朝7時(8時だったかも)、当時西後町、今は税務署とNTT分局になっているところにあった川中島バス本社出発。バスはボンネット型からボックス型に変わったばかりで、緑と白の洒落たデザインだったなあ。乗客は浮浪(不良じゃなく)者風の大学生(誰だ?)ひとりだけ。それにもちろん運転手と車掌(記憶にないが、当時は必ず乗務していたはず、若い女車掌じゃなく、男の車掌だったのだろう)。
 塩尻までは犀川沿い、国道19号線。それから153号線に入り、善知鳥(うとう)峠を越えて辰野。天竜川の屈曲に合わせてくねくねと曲がる道を律儀に辿って飯田まで。都合何時間かかったものやら。6時間じゃきかなかったんじゃないか。7時間、もしかしたら8時間かかったかも。何しろ、国道と言っても、たいていはバスの幅ぎりぎり、舗装部分なんてほとんどないガタガタ道。いやはや、難行苦行でしたよ。
 コンビに無し、もちろん『道の駅』なんて無し。所持金ほとんどゼロ。あっても途中使うところが無い。家を出るときに母が握ってくれたオムスビふたつと、水筒(当時は必携品)、持ち物はそれだけ。沿線の風景はほとんど記憶にない。最初に休憩をとった山清路(さんせいじ)の美しさだけを憶えているのは、その後ずっと居眠りをしていたのだろう。「をりからの追分ぶし」も聞きそびれたなあ。
 その2年前の昭和36年6月、伊那谷を襲った通称『三六水害』の爪痕が各所に残っていた。飯田線鼎(かなえ)の駅は泥と岩と流木に埋まったままだったし、天竜川両岸の山肌は「山抜け」の跡が生々しかったっけ。
 姉の嫁ぎ先にしばらく滞在して、帰りはたぶん汽車だったのだろう。全く記憶にございません。この時は、1年後下伊那に赴任することになるなんて、思ってもいませんでした。
 (みすす急行は長野→松本→塩尻→伊那→飯田と県下を南北に縦断して、昭和26年6月~50年3月まで走っていました)。

2.名飯(めいはん)急行
 昭和42年(だったか43年だったか)3月。中国では『文化大革命』の狂騒が最高潮だったころ。
早朝、飯田から来たバスに、阿智村駒場(こまんば)から乗り込む。同行4名。ほかにも何人か乗客がいたような気がするが、ハッキリとは憶えていない。
 長い長ーい旅だった。三州街道一筋、浪合→平谷→根羽→足助、そして名古屋。根羽の停留所では、阿智高校の生徒と母親が何人か待っていて、例の(知るひとぞ知る)「わらじごへい(仁王様の履くわらじのように大きい五平餅)」を差し入れてくれたっけ。何人かの乗客はもちろん、運転手と車掌にまで「お裾分け」。思えばのんびり、のどかな時代でした。
 名古屋城の広場だったか、「文化大革命展」のようなものをやっていて、通行人にはしから小さな赤い「毛沢東語録」を配っていた。開けても見ずにゴミ箱行き。何のために名古屋くんだりまで行ったのか、帰りはどうしたのか、全く思い出せない。新幹線が通る前、名古屋駅の中村がわなんか、まだ「焼跡闇市」の雰囲気が濃厚に残っていたことだけ、なぜか憶えている。
 昭和40年ごろから、いわゆる高度成長の波が下伊那にも及んできて、初めはバイク、そして数年でクルマの時代に突入。中央道恵那山トンネル開通。クルマに乗って若いひとがドンドン出て行って、下伊那は一挙に過疎化。さんざんお世話になった信南交通も路線バスから撤退したとか、しかけているとか。今、リニア新幹線の駅を飯田駅に併設するとかしないとかで騒いでいるけれど、あんなもの、うるさい(に決まってる)だけ、第一、乗る人も降りる人もいなくなっているんじゃないかな。
 (名飯急行は昭和27年~51年運行)

 以上、どちらもネットで検索しても、ほとんどお目にかかれないようなので、記録のためにあえて昔話をさせていただきました。

各駅下車の旅

2011-09-11 16:21:34 | その他

 『老人の休日パス』で北海道大旅行を企んだと思いなさい。釧路から網走、そして中央部大横断。帰りは浅虫温泉で疲れを癒そうって魂胆だったんですが...。
 9月5日(月)。長野→函館。台風通過後で、ここまでは順調。ビジネスホテル『ホテル駅前』、料金良し(つまり安し)、ロケーション良し、部屋良し、応対良し。こりゃー、出だし好調だぞ。
 6日。朝6時、函館駅に来てみると、「記録的豪雨のため」北海道南半分の鉄道は「午前中はすべて不通」だと言う。さて困った。駅は足止めを喰らった人々で大混雑。払い戻しを受けるひと、午後の列車を予約しようとするひと、ひと、ひと。あーダミだ、こりゃ!仮に午後運行が再開されたとしても、これだけの人数を捌ききれまい。そもそも今日中に釧路まで行くのは絶望的だわさ。
 早々に見切りをつけて、釧路のホテルの予約を取り消し、湯の川温泉に泊ることに。チェックインまでの時間をつぶすため、市電であっちゃこちゃ行ったり来たり。午後3時前、市電で湯の川。海の近くの『プリンスホテル』に入る。しかしどうも様子が違う。豪華過ぎる。第一コチトラ、「プリンス」なんて柄じゃない。受付のお嬢さんが親切に応対してくれ、すぐに間違いを発見してくれる。同じ『プリンスホテル』でも、今朝予約したのは『プリンスホテル 松風苑』で、こちらの豪華ホテルのほうは『プリンスホテル 渚亭』なんだってさ。しかしそこはさすが一流ホテル。同じ系列ホテルだからと、『松風苑』まで送ってくれると言う。しきりに恐縮するのに構わず、高級外車(ベンツだそうだけれど、そんなシロモノに乗ったことも見たこともないから、ホントかどうか)差し回し。『松風苑』、小じんまりしたいい宿でしたよ。機会があったら、また泊りたいなあ。
 7日。「大々旅行」から一転、かねて懐に温めていた「各駅下車」を実行することに。かつてNHK『熱中時間』で見た、「全国全駅下車」のおっちゃんには及びもつかないが、せめて特急列車が停車する駅はすべて降りてみることにしよう。時刻表を見る。幹線にしては列車の本数が極めて少ないなあ。特に鈍行が少ない。通勤時間帯を除けば、ほとんどゼロじゃないか。しかも長距離の直通がない。鈍行だけで旅行しよう、なんて「不逞のヤカラ」を排除しようという意図が見え見えだ。何が何でも、特急料金を払わせたいらしい。だから、「各駅下車」を図るなら、どうしても特急と鈍行をチャンポンに乗り継ぐしかない。(もっとも「各駅下車」なんて想定外なんだろうね。だから、コチトラとしては面白いんだけどね。よし、国鉄の裏をかいてやるぞ。)幸い、今回の『パス』は「特急乗り放題」だから、好きに乗り継ぎを繰り返せる。
 宿泊を予約してあるのは苫小牧。函館から苫小牧まで、特急なら2時間半のところを6時間半かけて行く壮大な(?)計画。函館発9:30(特急)。途中の五稜郭と大沼公園は、何年か前に降りたことがあるので通過。八雲と長万部は、帰りに寄るつもりなので通過。11:14洞爺11:21(鈍行)→11:38伊達紋別(駅前の『竹ちゃん食堂』については先日ご報告済み)。紋別12:26(特急)→12:40東室蘭13:12(鈍行)→13:31登別14:40(特急)→15:01苫小牧。ふー、お疲れさんでした。泊りは『ドーミーイン』(ビジネスホテルなのに何故か温泉付)。
 8日。苫小牧7:42(特急)→8:56長万部9:50(特急)→10:10八雲10:57(特急)→11:15森12:00(鈍行)→13:26函館。この最後の森→函館こそ、かねてからの狙い。渡島半島の東岸沿いを走るこの路線は、今や(恐らく)廃線寸前。風前の灯。数年後に新幹線が札幌まで伸びるとかで、一日も早く切り捨てたいらしく、線路も駅舎も荒れるに任せてある。このまま朽ちさせるつもりらしい。だからこそ「乗る鉄」族の一員としては見逃せ(乗り逃せ)ない。乗ってみれば、人気のないのは無理もない。海が見えるじゃなし、山が見えるじゃなし、里が見えるじゃなし、ひたすら山中を走るだけだったけどね。そこがそれ「乗る鉄」派としては嬉しいのさ。
 函館13:56(特急)→15:46青森15:53→16:08浅虫温泉。函館からの津軽海峡線は酷かった。超満員で2時間立ちっ放し。それもこれも、修学旅行の中学生約二百人に指定席を占領されたため。おかげで「休日パスの老人」百人ほどは、2両の自由席車両にぎゅーぎゅー詰め。修学旅行団体を乗せるなら、臨時列車なり臨時増結しろってーの!この恨み、生涯(と言っても残りわずかだけど)忘れないぞ!『老人の休日パス 東日本・北海道5日間』なんてダメだ!二度と利用しないぞ!
 浅虫温泉『柳の湯』。津軽のお殿様御愛用ってのはホントかウソか、でも「泊り心地」は良かったよ。宿賃も手頃だったしね。
 9日。浅虫温泉→青森→新青森→大宮→長野。前々から座席指定を取っておいたお蔭で、悠々座って来れました。終わり良ければすべて良し。めでたし、めでたし。
 今回の旅のおかげで、『日本の渚』の二選目が見つかりました。長万部海岸。駅から歩いて5分。漁港なし、波止場なし、建物なし、遊歩道なし、ひとけなし、つまりなーんも無し。あるのは無人の長い長い砂浜と、「丸い地球の水平線」だけ。今回の『各駅下車の旅』で、いくつもの駅で降りて海辺へ出てみましたが、厳しい選考基準に合格したのはここだけでした。ま、これだけでも大収穫、大満足ってことにしようっと。

紋別の駅前食堂

2011-09-10 15:45:13 | その他

 突然ながら、話は一挙に北海道紋別に飛びます(この旅については後日)。9月7日昼前。伊達紋別駅前。2軒あった食堂のうち、オンボロの度合いが大きそうな『竹ちゃん食堂』に入る。期待にたがわず、薄暗い店内。カウンターの前に、地元のジーチャンらしきふたりが(たぶん)焼酎をコップで飲んでいる。客はこのふたりだけ。
 入口近くのテーブルに座る。店の奥から、ランニングに半ズボンの親爺が、コップに水を入れて運んで来る。頭は五分刈り。丸顔で目玉が大きい。小太りで背が低い、つまりずんぐり。しかしいかにも元気いっぱいの感じ。あー、このひとには以前お目にかかったことがある。そうだ、昔(つまり新幹線が来る前)上田駅前にあった常入(ときいり)食堂の親爺じゃないか。ねじり鉢巻こそしていないが、そっくりだ。声まで似ている。しかしあれから40年。同じ人のはずはないか。
 壁一面に並んでいるメニューを見る。常入食堂とちがって、「さば味噌定食」も「焼きサンマ定食」も無い(残念!)が、定番のカレー・ラーメン・うどん・そばのほか、親子丼・玉子丼・肉丼など、今やほとんどの町から消えた「丼もの」が並んでいる。嬉しいねえ。冷や麦があれば完璧(?)なんだけど、今のご時世、ゼータクは言ってられないか。
 昔懐かしい丼類のどれかにしようかとも思ったけれど、店内正面に大きく貼ってある「手作りギョーザ定食」を注文。オヤッサンのご意向に背かないようにしなくっちゃね。出されたギョーザ。黒っぽい皮に具をいっぱいに詰め込んで、大きな芋虫のよう。大阪くだりの洗練されたスマートさとは程遠いが、これこそ「日本のギョーザ」だと思うことにして食べたら、意外と旨い。
 伊達紋別。なんで特急が停まるのか理解に苦しむような、さびれかけた町でしたが、だからこそ、古いものが残っていたんですなあ。良かった、良かった。もっとも、昔の駅前食堂は、おばちゃんやらねーちゃんやら、店員も多く、客も多く、活気があったっけ。この食堂もあと何年もつやら。侘しいこってすなあ。日本の町から昭和の日本が消えていく。昭和初年生まれの人間も消えていく。ま、これが世の常さね。

大夕立

2011-08-15 11:48:58 | その他

 14日午後2時半、5分ほど前から聞こえていた雷鳴が急に近づいたかと思うと、突如、我が草庵の真上で物凄い炸裂音。同時に猛烈な風とともに、バケツをひっくり返したような雨。小屋には雨樋がついていないので、軒先一面から雨が滝のように落ちる。まるでナイアガラ瀑布(行ったことはないけど)の裏から外を見ているよう。車軸を流したような雨とはこのことか。
 風神雷神が屋根のすぐ上で乱闘(もしくは乱舞)している。雨の幕にさえぎられて、窓から外をうかがっても、5メートル先ぐらいまでしか見えない。稲妻も見えない。風の音と雷鳴が聞こえるだけ。池の水かさがぐんぐん上がって、今にも溢れそう。すぐ横の用水路もあふれかけている。用水路の管理当番も、水門を閉めるのが間に合わなかったのだろう。消防車のサイレンの音がけたたましい。おそらく犀川の堤防を見守りに出動しているのだろう。かなり急速に水嵩が増しているんじゃないか。ふだんなら、何をおいても駆けつける野次馬も、この雨と雷じゃあ身動きならない。外界の様子がまったく分らない。もしかしたら、ウチだけが豪雨に降りこめられているのか。
 さすがの大夕立も、20分ほどで衰え始める。風の音が小さくなり、雷鳴も少し遠くから聞こえるようになった感じ。軒先から落ちる雨も、滝からしずくのつながりになった。あたりが少し明るくなり、西のほうには青空さえ見え始めた。30分近く荒れ狂った大夕立。凄かったなあ。半月も続いた日照り、大旱魃。夕立も数回に分けて降ってくれたら、なお嬉しかったんだけど、オテントサマのご都合をあれこれ言ってはバチがあたる。ソマリア並みにならなかっただけでも感謝しなくっちゃね。
 空の異変に先立って、前日の午後にはパソコンがダウン。ウインドウズが途中までしか立ち上がらない。モデムの「パワー」ランプが赤のまま。何処かの接続がうまくいっていないらしい。あちこち接続を切ったり、ケーブルを外してみてもうまくいかない。表示されているメッセージに従ってあれこれ試してみても埒が明かない。「セーフモードで立上げ」る方法が分らない。
 日曜の夕方じゃあ、誰かに相談することもできない。泣き寝入り。翌日午前9時を待って、専門家に電話。「『F8』キーを押しながら、セーフモードで立ち上げればいいんだよ。」このひとことで問題はいっきに解決に向う。こちらに用語の知識があったからなんとかこなせたけれど、独特の用語にうといひとは困っただろうなあ。「立上げ」なんて言われて、ホントに立ち上がったひとがいた、なんて笑い話があるくらいだからねえ。
 パソコンが回復したと思ったら、例の夕立。あわててあちこちの電源を切るやら、窓を閉めてまわるやら、いやはや、文字通りの「真夏の異変」でした。

小川路峠(補遺)

2011-08-07 11:33:55 | その他

 前掲『小川路峠』の中で、飯田から浜松まで、天竜川を舟で下った記録について、調べ直すのがシチメンドクサイので省略してしまいましたが、良心がとがめ(と言うよりむしろ暑くて暇なため)、厖大な文献を渉猟(かなり大袈裟)し直した結果、見つけました。
 小島烏水(こじまうすい)。明治後期から昭和初期にかけての探検家・登山家。大正初年の記録のひとつに『天竜川』がある。飯田のちょっと南、時又(ときまた)という、かつて栄えた河港から、川下りの荷船に便乗し、激流を8里くだって満島(みつしま 現平岡)で一泊。そこで「船を仕立て」て、いまでは平岡ダムに遮られて船での往来不能なところを過ぎ、今はダムになっているところの少し下、西渡(にしのわたし)まで9里。ここからは客船が出ていたので、河口の浜松に近い鹿島まで、ゆっくり大河をくだる船旅を楽しんだそうな。
 「古き良き時代」(かどうかは議論の分かれるところながら)、長野にだって、下流の飯山あたりから船が盛んに上がってきていた(千曲川は屋島橋手前、Mウエーブ近くの国道ばたに、今でも『船着場跡』の標識が残っている)。もちろん信州ばかりじゃなく、全国どの河川でも、船が大活躍していた。思えばエコでクリーンな時代でしたなあ。
 なお、上記『天竜川』をお読みになりたい向きは、図書館なら『現代日本紀行文学全集』(ほるぷ出版)や『現代日本文学全集』(改造社)で、「青空文庫」利用可能ならいっそう楽に閲読できます。

小川路峠(終)

2011-08-05 16:25:54 | その他

 分け入っても分け入っても青い山(山頭火)

 鉄道が開通する前、地域間の往来は、主要街道以外ではどうなっていたのか。良く知られている例では、富山湾から松本へのいわゆる『鯖街道』。積雪期に富山→高山→安房峠→松本を、幾日もかけて、ボッカが数匹ずつ背負って運んだらしい。想像を絶する苦労だっただろう。もっと凄いのは、糸魚川→小谷→鬼無里→善光寺と、細々とつながっていた(らしい)『塩の道』。現今の道筋を想像しちゃあいけない。すべて山通し、尾根通し、今では五万分の一の地図でも点線さえついていない。
 以前東北地方の地図を眺めていたら、『六十(五十とも)里越(ごえ)』という表記がふたつ見つかった。ひとつは国鉄只見線とほぼ同じルート。もうひとつは鶴岡と山形を結ぶルート。もちろんどちらも山越え。これだけの距離を歩くって、いったいどんな様子だったのか。
 『奥の細道』の中にも、仙台から山形へ行くのに、道なき道を歩く場面があった。『高野聖』にも、暗い山中をさ迷う話があったんじゃなかったっけ。とにかく皆さん、おっそろしい思いで旅をしたらしいね。犠牲者も多かった。凍死・病死・飢え死に。人間ばかりじゃない、昔の街道筋には馬頭観音がズラリ立ち並んでいる。以前三州街道は浪合宿(なみあいしゅく)を訪ねた折にも、昔の人馬の「行き倒れ」の話をずいぶんと聞かされたっけ。
 そこで我が秋葉街道。①諏訪→杖突峠→高遠は、今でも健在。ただしケモノ(クルマ)が横行していて、ひとは歩けない。②高遠→分杭(ぶんぐい)峠→鹿塩(かしお)→大河原→地蔵峠→遠山谷は、地蔵峠が崩れたままのため、江戸末期以来通行不能で、高遠→飯田間は天竜川沿いの『三州街道』経由。50年ほど前、この地蔵峠を踏破しようとしたら、前夜泊った大鹿村の宿のひとに「道筋が消えてしまっている」と言って止められた。③飯田→小川路峠→遠山→青崩峠→水窪。地蔵峠筋が通れなくなってからは、秋葉街道と言えばこの部分だけを指すようになったらしい。
 とにかく、「いにし世を静かに」(千曲川旅情のうた。ここがカンジン。つまりクルマに煩わされることなく)歩いて偲べる道筋としては、知る限りでは、上記地蔵峠と小川路と青崩れの、いずれも峠道だけになっちゃった。このうち、小川路は地元有志のご尽力で、しっかり手入れされているようだし、地蔵はいまだ手つかずらしいからひとまず安心。問題は青崩峠。例の『三遠南信自動車道』が伸びてきていて、由緒ある秋葉街道は風前のともしびだとか。
 鉄道開通以前の旅とはどんなものだったか。せめて秋葉街道だけでも手つかずに残しておいてくれたらなあ。「世界遺産」などという、商業主義に踊らされた、いかがわしいモノなんかどうでもいい。「日本遺産」としてでも、観光客なんか容易には近づけない、昔のまんま、歩いて通るしかないところ、なんて夢のようだなあ。狼と熊と鹿と猿と猪が自由に動きまわり、人間は彼らのご機嫌をうかがいながら、そっと通してもらう道・・・いいねえ。
 以上で小川路談義を終えます。長々とご退屈さまでした。