山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

若山牧水『木枯紀行』

2012-02-11 11:16:32 | その他

 大正12(1923)年10月28日。関東大震災から2ヶ月足らず。若山牧水39歳,『木枯紀行』の旅に出る。
 早朝沼津の自宅を出て、東海道本線(現御殿場線)で御殿場。そこから馬車で須走。茶屋で昼食(つまり例によって酒)の後はひたすら歩きに歩いて、籠坂峠→吉田→(夕暮れの時雨の中を)河口湖。手には洋傘、足には草鞋、背には防寒用の着茣蓙とルックサック、着るは(たぶん)袷に股引。
 29日。船津から小舟を仕立てて河口湖を渡り→西湖→青木が原の樹海→精進湖→(モーターボートで)精進村。30日。女坂峠→左右口(うばぐち)峠→笛吹河畔→(乗合馬車で)甲府→(汽車で)小淵沢。31日。今日も寒い時雨。長沢→念場が原→甲信国境まで来たところで、国境の「飲食店」で酒になり、そのまま泊り込む。11月1日。早朝「白麗朗の富士」を眺めながら(小海線は開通していないので)野辺山が原から延々と歩いて、凄まじい木枯の中、佐久街道を海ノ口→松原湖。以後4日まで、木枯と時雨のため松原湖に滞留。
 5日。(開通したばかりの)佐久鉄道でいったん岩村田まで行き、仲間と別れてから(当時終点の)馬流駅まで引き帰す。6日~8日。この3日間の足跡を今の地図で辿るのは難しい。武信国境を越えるルートを探っていたらしい。やっと辿り着いた山奥の集落で、宿が「お役人衆」に占領されていて引き返したり、別のところでもまたまた同じ「お役人衆」の傍若無人の振舞いに辟易して逃げ出したり。結局いったん野辺山に戻り、9日、決然と千曲川源流域に踏み込む。梓山から甲武信岳方向へ進み「上下七里」の武信国境十文字峠を目指す。10日、前夜「とある居酒屋で知り合った爺さん」の案内で峠越え。11日、いったん麓の栃本という集落までくだり、ついでに三峰山を登ってから、落合村。12日東京。13日沼津帰着。都合17日の歩きに歩いた大旅行でした。凄いね。
 うち3日間は木枯と冷たい雨で動けず、小淵沢~岩村田の3日間は仲間が合流して連日酒宴。最後の2日間は汽車と都会だったから、正味8日。一部汽車とバスと舟を利用した以外はすべてテク。しかもほとんどは雨まじりの木枯しが吹きすさぶ初冬のひとり旅。朝から晩まで酒、酒、酒。ちーと過ぎるんじゃねーの、と思わなくもないが、このひとの場合、歩きと歌と酒は三位一体、ひとつだけに絞るわけにもいかなかったんだろう。
 なんで今更今頃牧水か。お叱りはごもっとながら、コチトラ、このところ「引きこもり」気味。せめて古人(?)の旅日記でも読みながら、旅に出た気分にひたりたい。ほら'armchair travelling'ってことばもあるじゃないか。わざわざ図書館まで足を運ばなくても、自宅にいながら『牧水全集』や『日本紀行文学全集』が読める。嬉しいご時世になりましたなあ。
 


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