10日ぶりの雨、久しぶりの農休み。朝から町に出る。まずは床屋(とこばや、と発音)へ。帰りがけに近くの『すや亀』で味噌玉ひとつ(¥525)と「味噌皮」ワンパック(¥300)を買う。味噌玉は薄切りにして少し乾かしておく必要があり、すぐには食べられない。「みそっかわ」は味噌玉を角切りにして、すぐに食べられるように調理してある。値段が少々高めなのは仕方がないとしても、油でちょっと炒めてから砂糖醤油をからめてあり、味噌玉本来の素朴な風合いが損なわれてしまっている感じ。「山国のチーズ」(と命名)は、ヤッパ、半乾きのヤツをちょっと直火であぶって、そのまま齧りつくのがエエナア。
南県町(みなみあがたまち)の木内理容所。三陸は綾里村(現大船渡市の一部)に息子さんを拉致され、例の津波以来音信不通で、心配の余り店を休んでいたのが、一週間後にケータイが通じ、一家6人全員無事だったそうで、めでたしめでたし。やはり爺っちゃん婆っちゃん(現地呼称は不明)の智恵のお蔭で助かった。あらかじめ家も店も高台に移築してあったのに加え、警報を聞いてからの行動も迅速、同じく近くの高台に移してあった小学校に通うふたりの子供を連れ、一家6人、年寄りに言われるまま、クルマを更に上へ上へと走らせ、林道を伝って山のてっぺんまで行って、そこから津波の様子を眺めていたんだとか。
津波の最高到達地点は、綾里が29.6mだったそうで、姉吉の38.9m、田老の37.9mには及ばず、残念ながら明治・昭和と連続獲得してきた栄光の首位(?)の座を奪われた(なーんてオフザケを言っている場合じゃないか)。死者行方不明は姉吉ゼロ、田老187(4・16現在)、綾里少数(詳細不明)。ただし同じ綾里でも白浜集落は実質ゼロだったそうで、いずれにせよ「世界一」(?)の堤防を誇った田老の惨状は目に余る。
今回の津波で一躍有名になった「ここより下に家を建てるな」の石碑。三陸ばかりじゃなく、今後全国の沿岸に建てる必要がありそうですなあ。特に房総から土佐にかけての沿海地区には、石碑を無数に建てなくちゃね。太平洋岸全域にわたって隙間無く立ち並ぶ石碑、壮観でしょうなあ。
悪漢(素性は忘れた)が現われ、東京都民を皆殺しにしよう(動機も忘れた)と、東京の水甕、村山貯水池(だったっけ)に猛毒(それとも放射性物質だったか)を投げ込んだ。それと知った我が鉄腕アトム。水が東京に到達するのを阻止するため、大きな岩を両腕で差し上げながら空を飛ぶ。途中のパイプにあてがい、パイプをふさぎ、ミンゴト数百万の命を救う。何しろ10万馬力、この程度のことなんかオチャノコサイサイさ。
昭和27年(1952)4月、雑誌『少年』に颯爽と登場。当時小学5年生だったか6年生だったか、毎月ワクワクしながら発売日を待っていたっけ。もっとも、『少年』を購読していたのは近くの友人で、こちらは『少年クラブ(倶楽部だったかな)』派。別々に購読していたのは、付録を2倍楽しむため。望遠鏡(紙製)だの顕微鏡(紙製)だの映写機(紙製)だの晴雨計(紙製)だの、あれやこれや両誌競って楽しい付録が付いていたなあ。
アトムの誕生は(雑誌登場の50年後の)21世紀初頭に想定されていた。だから現在大活躍中のはず。何処にいるのかアトム。どうか福島を救ってくれ!何しろアソコじゃ、「最先端科学の粋」どころか、(すぐに破れるに決まってる)新聞紙をあてがったり、(回収するアテもないのに)べらぼうな量の水をぶっかけたりして遊んでいるようだから。
ま、ヒトが必死に努力しているのを、野次馬根性でからかっちゃいけないな。しかしはがゆいねえ。アシモ君はどうした?笛を吹いたり、踊ったりばかりじゃなく、少しは世のため人のために働いてくれないかなあ。(年代などの数字はWikipediaに依る)。
年たけてまた見るべしと思ひきや 命なりけり奥の大波 今西行いまさいぎょう
①安政大津波(1856) ②明治大津波(1896)
③昭和大津波(1933) ④平成大津波(2011)
①と②の間が40年、②と③の間が37年、そして③と④の間が78年。三陸沿岸を襲った、三千人を超す人命を奪った大津波。③と④の間隔があき過ぎている。だから油断をしていた。油断はしていなくても、多寡をくくっていた。
かく言う筆者も油断していた。東海道沿岸に迫る大津波にばかり気をとられていた。ホント「災害は忘れたころにやってくる」もんですなあ。恥じ入るばかりです。
かねてから警鐘を鳴らしていた方々も勿論いた。だけど人々は真剣に耳を傾けてこなかった。だから海を埋め立て、家を建て、平穏な暮らしを楽しんでいた。そんな向きのために、穴埋めクイズを考えました。○○の部分を、下の語句から選んで、文を完成させなさい(ちょっとオフザケが過ぎるかな)。
忘るべからざる○○を忘れ
頼るべからざる○○を頼り
信ずべからざる○○を信じ
恐るべき○○を恐れず
怒るべき○○を怒らず
耐えがたき○○に耐え
忍びがたき○○を忍び
屈辱 苦難 災厄 被害 津波 地震 原発 政府 学者 識者 保証
警戒 専門家 防波堤 防潮堤 帝国海軍 帝国陸軍 マスコミ
高粱(こうりゃん)。「赤まんま」、懐かしいなあ。敗戦直後の食糧難の思い出の中で、ひとつ忘れていたのがこれ。穀物としては稗(ひえ)・粟(あわ)・黍(きび)・押し麦(大麦)など、何でも食べたけれど、おかずも調味料もなしじゃあ、いくら空腹でも不味かった。
幼稚園から小学校2年ぐらいまで、アルマイトの弁当箱、真ん中に梅干ひとつ、そして豪華絢爛、真っ赤な真っ赤な「赤まんま」。一見「お赤飯」、実は高粱めし。オカズは細っちいサツマイモ一本。今にして思えば、あんなもの、ウマイはずがない。パサパサしていて、正に「砂を噛む」感じ。うまかったんじゃなく、嬉しかったんだろう。たぶん母がほんの少し白米を混ぜてくれたんじゃないかな。嬉しかったのは、そのせいだったのだろう。
現在でも代表的な家畜の餌のひとつ。洋名ソルガム、またはミレット。しかしなかなかお目にかかれない。キノコ採りで山村を歩いているとき、いつも探すんだけど、とんと見かけない。どうやら日本の鶏や豚は美食に慣れていて、高粱なんか見向きもしないのかな。ゼータクだぞ、おい!
ネットで調べたら、昔は東北部(遼寧省・吉林省・黒竜江省)で貧しい農民が食べていたとか。いまでも白酒(パイチュウ)の原料として広く栽培されているほか、このごろは例の「ヘルシー志向」で、上海あたりでも「高粱粥」の人気が高まっているらしい。中国くんだりまで「のす」元気はないが、ひょっとして日本でも、どこかの上海料理店のメニューにないかな。ご存知の向きはご一報くだされ。
今年の春は寒い日が続いて、畑の準備が10日ほど遅れています。きのう(29日)あたりから漸く春らしくなり、大根やカブの種をまいたり、ジャガイモの畝の準備を始めました。昨年はジャガイモを植えつけたのが20日でしたから、だいぶ遅れています。
今年は例年にもまして食糧生産に励まなくちゃね。大津波の被災地に送るほどは作れなくても、せめて自家とご近所に配る分ぐらいは賄うようにすれば、たとえ僅かでも、その分だけ被災地に廻るはず。皆さん、自給自足を心がけましょう。
敗戦の年、昭和20年夏、町から急に食べ物がなくなった。お米がぱったりと姿を消した。父は戦地から復員せず、いつ帰るか分らない。幼い子供4人の食べ物を求めて、母はリュックを背負って、4キロほど離れた芋井村まで「買出し」(もちろん歩いて。バスなんてなかった。せいぜい荷馬車が鬼無里や戸隠に通っていただけ)。リュックには、行きは物々交換用の着物、帰りは運が良ければサツマイモやカボチャが少々。たまに米を恵んでもらっても、玄米なので、サイダーの壜に入れ、箸で突いて「自家精米」。足りない分は「ふすま団子」。「ふすま」ってのは小麦粉の皮のことでね、いくら空腹でもあればっかりはまずかったなあ。とにかくひもじかったなあ。
今にして思えば、ジャガイモの記憶がない。ジャガイモが日常食品のひとつになったのは、それほど昔のことじゃないんじゃないかな。あのころ、ジャガイモがふんだんにあったら、どれほど助かったことか。サツマイモやカボチャは「腹がくちく」ならない。古代以来の「米ひとすじ」の報いを受けたのか。
それでも、ウチは田舎に知り合いがあったので、恵まれていたほうじゃないかな。都会から「疎開」して来ていた人々はどうしていたのかなあ。当時はそこらじゅうに空き地があった。カボチャやサツマイモがぎっしり栽培されていたなあ。近くに長野師範学校の寮があって、そこのグランド一面、カボチャの蔓が這っていたような記憶がある。それを狙って、近辺のガキドモが忍び込む。見張りに追いかけられる。スリルがあったなあ。
疎開と言えば、東京湾沿岸から、千葉・茨城・福島・宮城・岩手の太平洋沿岸の人々、当面しばらくは疎開をしたらどうかな。それも、オカミに斡旋を頼むんじゃなく、どんどん逃げ出すのさ。「自主避難」するのさ。敗戦のときは「オカミ」そのものが無かった。今も同じと思ったほうがいい。できれば九州・沖縄・台湾・山陰・山陽・北陸・甲信、「窓を開けてみよ」日本は広いぞ。東海・紀伊半島沿岸・四国の太平洋岸は避けたほうがいいよ、もうすぐきっと大津波が来るから。
大地震・大津波と言えば、こちとらにも心配ごとがある。直接の被害はなくとも、電気は確実に止まる。発電所が東海地方に「一極集中」しているため、電気が送られて来なくなる。電力がとまると、水道もとまる。「その時」に備えて、屋根に太陽光発電パネル(設置済み)、庭先に井戸(掘削依頼済み)、炊事用のコンロとかまど薪と炭(常備済み)は用意しておかなくっちゃ。太陽光パネルは夜間には役に立たないのが泣きどころ。大容量蓄電池も欲しいけど、ベラボーに高価らしい。ま、夜は「電気なし」で我慢するさ。戦後しばらく、電気なんか全くアテにならなかったから、慣れているよ。
大船渡市綾里(りょうり)地区。岩手県綾里村と言えば、明治と昭和、過去2回の三陸大津波に際し、津波の最高到達地点の栄光(?)に輝いたところ。明治29年(1896)のときは、並みいるライバルたちを抑えて、堂々の38.2メートル、昭和8年(1933)のときは28.7メートル。今回は23メートルで、これでもなかなか頑張った記録ながら、どうやら40メートルを達成した地区も出そうな按配(ある学者の説)。三連続優勝ならずか。
実は長野で床屋さんをしていた亡友の長男が、この綾里の町のやはり床屋さんに婿に入っていてね。三陸で知人と言えば彼だけだったので、昨年11月「三陸大旅行」を敢行したとき、たまたま三陸鉄道の列車が行き違い停車したのを幸い、町の様子をじっくり眺めることができた。駅は山腹のかなり高いところにあり、そこから見ると、町は急傾斜地をくだった、はるか下のほうに見える狭い入江の奥にチマチマと固まっていた。
そのときは、恥ずかしながら、大記録のことはもちろん、津波のことなんかトンと頭になかった。11日午後4時前、『三陸で大津波』のニュース。まず最初に綾里のことが頭に浮かんだ。大丈夫だったかな。夫婦と父母、子どもふたり、6人とも無事だろうなあ。
すぐにネットで地図を調べた。理容店が2軒、どちらも駅近く、つまり海よりずっと高いところにあるようだった。これなら大丈夫だっただろう。しかしもしかして誰か町のほうに下っていたかも。心配がつのる。夕方、市内にある息子さんの実家に駆けつけた。「ついさっき、3時ごろ、伊那にいる弟(次男)にケータイで連絡があり、みんな無事で、今から避難するところだと言ってたそうです。だけど、その後は、こちらからいくら電話しても通じないの。」
奥さんは亡夫の後を引き継いで、ひとりで理容店をやっている。数日後、町に出たついでに、店を覗こうとしたら、月曜でもないのに休業中。3日ほどおいて前を通ったときも同じ。そして今日。よかった、店はやってる。朝早い時間でもあり、客もいないようだったので、店に入って様子を聞いた。にこにこしていた。「先日やっと連絡が来たんです。8日ぶりでした。みんな無事だそうです。NTTの無料公衆電話はひとり1分間しか使えないとかで、ロクな話もできなかったけど、やっと安心。」
先週、ガソリンが入れられると聞いて、スタンドに行ったら、長蛇の列。もうひとつ列があったのでそちらに並んだら、それが電話の列で、こちらも順番が来るまで2時間待たされたとか。とにかく良かった、よかった。それまで毎日のように、新聞の死者・行方不明者のリストを見つめたり、テレビじゃ陸前高田のことばっかしやってて、ほかの地区のことを報じてくれないから仕方なく、大船渡には通じないので盛岡の県庁に電話したりで、とても「お店なんか開く気分になれなかった」のも無理からぬ話。その上、いまだに消息が分からない家も沢山あるなか、自分だけ無事なことを吹聴もできない。お気持ち、よーく分ります。
夫をなくし、3人の息子は、ひとりはアメリカ、ひとりは伊那、そして長男ははるか三陸。ホント、心細いことでしたでしょうなあ。
暖かい春の日差し。吹くはそよ風。飛び交うは燕。さえずるは小鳥。足元には露を含んだ野の花。遠くは雪山。両岸の堤防沿いは桜並木。岸辺に腰をおろして、瀬音に聴き入る浮浪者風浮浪者ひとり。雪舟の絵にでも出てきそうな風景、いいねえ(かどうか)。流れが急なため、「せせらぎ」と呼ぶには少々騒々し過ぎるが、これぞ天然のオーケストラ。田子の浦の潮騒も良かったけれど、この瀬音も素晴らしい。「山の潮騒」だな、これは。
対岸の自転車・歩行者専用道路もいいが、あちらは歩くひと・ジョギングするひと・犬を散歩させるひと・自転車で行き来するひとなどで結構賑々しい。こちらは人影なし人声なし。クルマの音なし。聞こえるのは鳥のさえずりと、ときどき鉄橋を渡る汽車の音、そしてもちろん絶え間ない川音だけ。
せせらぎが聞こえるところは、言うまでもなく、国じゅうにゴマンとある。しかし、ほとんどすべて、クルマをはじめとする騒音に妨げられ、ゆっくりしみじみ「鑑賞」させてはくれない。往古はいざ知らず、今やここは我が知る限り唯一無二。「世界音遺産」に指定したいところだけれど、大風呂敷を広げるのはやめ、せいぜい「我がせせらぎ一選」に認定して、自己満足するにとどめよう。
歩きながらフト気がついた。例の『千曲川旅情のうた』、川の音が出てきませんなあ。きっと小諸あたりでは、まだ小川に棒を振った程度の流れなので、音の印象が薄かったのか、それともあの「昼は抒情詩人・夜は狒々親父」、流れからかなり離れたところから川を眺めていたのか。この「うた」、暗誦して感激していた中学生ごろは我ながら純情だったなあ。なまじ下半身スキャンダルなんか耳にしてしまい、感興が削がれ、残念だなあ。
「うた」といえば、小学校や中学で耳に胼胝ができるほど聞かされ、夢の中で魘されるほど歌わされた『信濃の国のうた』、かねてから「ちょっと変だ、どこかおかしい」と違和感を覚えてきた。この際、徹底的に分析してみよう。(詳しくは別稿にて)。
渚に打ち寄せる波。海上に船影なし。平日の昼下がりで、陸も人影まばら。雲ひとつない空にとんびが数羽、輪を描いている。(クルマもバイクも侵入不可だから)騒音なし。聞こえるのは潮騒のみ。暑くなく寒くなく、心地良い春風。こりゃサイコーだわい!
(漁港がないから)漁小屋なし、漁船なし、突堤なし。(大陸や半島に面していないので)ごみなし。海水浴場ではないので、看板なし、旗なし、掛け茶屋なし、拡声器なし、桟橋なし、花火の残骸なし。テトラポッドなし。沖に生簀も養殖筏もなし。要するに、人工的なものは何もなし。東海道を旅する人々が昔から目にしてきた光景そのもの。各地で『日本の渚百選』なるものを見てきたが、どれもせせこましい、ちゃちなシロモノだった。此処こそまさに『日本の渚一選』だぞ!
何にもまして良いのは、鉄道駅から歩いて10分もしないで、海岸に出られること。いくら「エートコ」だって、汽車かバスで容易に行けないところなんか、存在しないと同じ。「我輩の地図」には載っていない。
前回、2年前、東海道線吉原で降り、名高い田子の浦に出たときは、大失敗。工場群と漁港と防潮堤が、隙間なく続いているばかり。今回は原駅で降り、逆方向(沼津方面)を目指したのが当たった。潮騒を聞きながら、沼津近くまで、波打ち際を歩くこと2時間半。『青春18きっぷ』の残り2回分を友人から譲ってもらい、はるばる信州から、篠ノ井線・中央線・身延線と乗り継いできた甲斐があった。大成果!
1日目(3月30日)に気をよくして、帰りも大旅行。富士→沼津→国府津→茅ヶ崎→八王子→甲府→小淵沢→小諸→長野。身延線・御殿場線(初めて)・相模線(初めて)・小海線は全区間乗り通し。近ごろ「乗り鉄」なるものがはやっているらしいけれど、こちらは「全区間乗り鉄」とでも言うところかな、別にマニアになるつもりはないけどね。
日本中の海岸線は、断崖絶壁部と荒磯を除き、ほとんど人工的に変えられてしまった。埋め立て地・観光施設・港湾施設・道路・護岸(防潮堤・防波堤・テトラポッド)。太古のままの渚を何時間も歩けるところなんて、ほかにあるかなあ。とにかく大発見(?)でしたよ。『きっぷ』代4千6百円のほかに、身を切られる思いで、特急代千百円と私鉄(しなの鉄道)代930円を費やした甲斐がありました。めでたし、めでたし。
仕事があればあるで、無ければないで、家族があればあるで、無ければないで、自由に気ままに生きたいと願っている皆さん、「全国には、宅地がタダ同然の過疎村や廃村が無数にある。”一人金時”がさびしければ、会社人間は会社仲間でまとまって、たとえば鳥取県の山中に移住すればよく、町内人間や同窓会人間は、たとえば奄美諸島の加計呂麻島の海浜に移住すればいい。貯金で十分、ガラスいっぱいのすてきな家がたてられる。ただし、足柄山はだめらしい。すでに不動産資本が入りこんで、金太郎のころとはちがっている。」司馬遼太郎『風塵抄 金太郎の自由』(1989年10月2日)
「バブル崩壊」の予感におびえたひとびとの一部が、この世のしがらみ(借金・会社・家族)からできれば逃れたいと思いだしたころの文章。あれから20年、こんどはデフレで都会を「食いつめた」ひとびとへの「移住のすすめ」になっている。田舎への移住の勧めは、いつの世でも、どんな世の中になっても、有効だという証しかな。
安政地震津波(1854)M8.6 犠牲者30,000
関東大震災(1923)M7.9 犠牲者140,000
チリ地震津波(1960)M9.5 犠牲者1,743
アラスカ地震(1964)M9,2 犠牲者150
ペルー地震(1970)M7.9 犠牲者70,000
唐山地震(1976)M7.8 犠牲者655,000
メキシコ地震津波(1985)M8.1 犠牲者35,000
阪神淡路大震災(1995)M7.3 犠牲者6,437
インド洋大地震津波(2004)M9.3 犠牲者283,000
四川大地震(2008)M8.0 犠牲者87,000
チリ地震津波(2010)M8.8 犠牲者723
<<G-ma 世界の主な巨大地震>>から抜粋
上の表を見ると、当然のことながら、犠牲者数はだいたい人口密度に応じている。アラスカはもともと住んでいる人がほとんどいないのだから、いくら大地震が来ても困らない(?)。中国や日本やインドネシアの場合は逆の意味で当然。もうちょっと詳しく見ると、全く無防備だったところを津波に襲われたインドネシアの場合は脇において置くとして、地震の場合、建物の構造が大きく影響していることが分かる。煉瓦造りや手抜き工事の建物におしつぶされたのが中国、瓦葺きの屋根の下敷きになったところを、周りの火事にあぶられて蒸し焼きにされたのが日本。
それじゃあ、チリの場合はどうか。1960年と先日、地震の規模は巨大、おまけに津波も巨大。影響を受けた地域の人口だって、過密とは言えないまでも、希薄どころじゃなかった。先日の地震の震源に近かった大都市コンセプシオンの人口だけでも20数万、半端な数じゃない。マグニチュードの大きさから考えても、せめて人口の1割ぐらいは犠牲になってくれなくちゃあ、日本や中国が可哀想だ。700人ちょっとなんて、ゼロがふたつ足りないんじゃないかい、なーんてバチあたりなことを言いたくもなる。
なして、なんで、どうしてチリでは被害が比較的軽微だったのか。言い換えれば、近々大地震大津波に襲われる関東・東海・南海地方のひとびとの命がひとりでも多く助かるためのヒントが見つからないものか。という純粋に人道的見地(声あり「オメーサンが言うといかにも嘘っぽく響く」)から、テレビの中継やら現地報告を見ながら、いくつか思いついたことがあります。
建物の倒壊が少なかったのは、①耐震構造がしっかりしていたことに加え、②基礎とその下の地盤が強固だったせいに違いない。「砂上の楼閣」が林立する東京・横浜・名古屋・大阪、地震で液状化現象が起き、基礎の下に打ち込まれた杭が途中からボキボキ折れ、高層ビルがズデンドーと倒れる。あーコワ!ロンドン・パリ・ニューヨーク・北京・ローマ・ベルリン、世界の大都市で、砂の上に町を築いてあるなんてところが、日本のほかに何処にあるだろう。
やれ防潮堤だ、やれ防災無線だ、やれ屋外警報機だ、やれ有線放送だ、などという気安め施設・設備が皆無だったにもかかわらず、津波にさらわれた人が思いのほか少なかったのは、③オカミなんかアテにせず、と言うかオカミなんか信用せず、大部分のひとが自分のカンや経験、そして昔からの言い伝えを信じて、地震即避難で高台に逃げたから。先日の日本では、NHKがあれほどしつこく警告したのに、避難したしたのはほんの一部だけだったそうだけど、あれはどうだったんだろう。なに、あれは「たかをくくって」いただけ、本当に賢明なら、警報が出ようが出まいが、チリの人々と同じ行動を取ったはず。似て非なるものさ。
それにしても犠牲者が少なかったのは、④人口集中が小さかったせいだろう。適度に分散して暮らしていたから、交通渋滞も起きず、逃げる人々が押し合いへし合いしなくて済んだに違いない。常日頃、狭いところにギューギュー固まって、歩くに歩けない、走るに走れないでいる皆さん、怖くないのか。神戸が燃えている映像を見だあとでさえ、尚も都会から逃げ出さないでいる勇気は見上げた/見下げ果てたど根性と感心すべきなのかな。
以上、時期尚早なせいか、「専門家」による被害状況分析がネットに載っていないので、お先に愚見を述べさせていただきました。文中不謹慎な言葉遣いが多々あったことをお詫び申し上げます。