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山の恵み里の恵み

キノコ・山菜・野草・野菜の採取記録

タワラグミ

2010-01-06 15:04:38 | 山の恵み
 「タワラグミの木は要らんかね」。60年来の友人、文字通りの竹馬の友からの嬉しいメール。もちろん要ります要ります、とふたつ返事。甘くて酸っぱくて渋い、60年前の味。懐かしいなあ。
 「タワラ」とはたぶん「俵」のことだろう。大きさは大粒のピーナツぐらい。ふっくらと丸い小さな液果。真っ赤な実の表面全体を、まるで砂糖をふりかけたように白くて細かい斑点が蔽っている。熟した実は、ちょっと指で押しただけで薄い皮が破れて、中のジュースが噴き出す。遠目にはいかにもうまそうだが、丸ごと口に入れると、皮が渋くて渋くて、思わず吐き出してしまいたくなるほど。しかし中には甘い汁が詰まっている。皮が舌に触れないように、口の前でつぶし、ジュースだけを噴射させるんだけど、これがなかなか難しくて、狙いがはずれて赤い汁が口の周りに飛び散ったり、指が真っ赤に染まったり、その指を思わず服やズボンでこすってしまうと、洗ってもなかなか取れなかったり...。
 昭和20年代。長野の町と言っても、繁華街から100メートルも外れれば、もう田舎。どの家にも小さいながら庭があり、どの庭にも果樹が一本や二本植えられていた。実が食べられない木、観賞用の木、なんてゼータクは許されなかった。庭が狭いから、栗や胡桃や銀杏などの大きい木は植えられず、せいぜいが柿・桃・杏・ザクロ・ハタンキョウ・枇杷・イチジク・サクランボ。たいていはずっと小さい庭梅・スグリ・桑・イチジク。家により好みが違っていたから、植わっている木も違う。おやつがわりに、家々の垣根越しに乗り出したり、塀の下から潜り込んで、食べ歩いたものさ。遠征しなくても、半径50メートル以内でじゅうぶん調達できた。おかげで生き延びられた。
 30年代に入ると、まず空き地が消えた。『ドラえもん』でお馴染みの土管(コンクリート製)が消えた。次に庭が消え、アパートや駐車場に変わった。町じゅうがごみごみ、せせこましくなった。まず大きな木が消え、次に小さな木も消えた。木の実が消えた。木のまわりに群がって、がやがやしゃべりながら食べる子どもの姿が消えた。長野の町(と言っても西半分しか知らないが)には、今やポツンポツンとしか残っていない。しかもいまだに年々消えつつある。
 大災害・大飢饉が迫っている。いつか来る。やがて来る。じきに来る。もうすぐ来る。明日来る。今日来る。今すぐ来る。(このあたり筒井康隆調)。家々の庭が菜園になり、駐車場はモロコシ畑、河川の土手はカボチャ畑、校庭はサツマイモ畑、公園はジャガイモ畑、ゴルフ場は麦畑。樹木はすべて果樹に植え替え。里山は栗と胡桃に植え替え。それでも食べ物を求めてうろつき廻る人々。
 戦後の「食糧難」時代の再現?いやいや、あれより酷いことになるだろう。郊外がなくなってしまった、田舎がなくなってしまった。平地はほとんど宅地になってしまったし、山地は山林原野に戻ってしまっている。昔はお米屋さんで米や麦が買えなくても、1時間も「買出し」で歩けば、田があり、畑があって、お百姓さんさんから恵んでもらえた。今やその「お百姓さん」がいない。だ・か・ら、たかが庭先のグミ、なんて馬鹿にしちゃいけない。その一粒一粒が宝石より貴重に見える日が来る。きっと来る、もうすぐ来る...。
 

小さなパン屋さん

2009-10-29 14:59:26 | 山の恵み
 かつて遠国や近郷近在から善光寺に至る道筋は大まかに言って東西南北4本あった。それらが町に入ってくる入口がそれぞれ商店街となっていた。北の入口は、北陸や越後から牟礼・若槻を経る所謂北国街道筋の相ノ木通り、南は小諸・上田・松代からの道が松本からの所謂善光寺街道と篠ノ井で一緒になり、丹波島で犀川を渡ったところが中御所通り、東は飯山方面から千曲川をさかのぼって来た船着場に続く七瀬通り、そして西が鬼無里・小田切・芋井からの所謂戸隠街道に通じた桜枝町通り。
 それらが鉄道(信越線・飯山線・篠ノ井線・長野電鉄線)の開通とともに次々と寂れ、最後まで栄えたのは善光寺仁王門裏からまっすぐ西、桜枝町から西長野町へとのび、そこから山道になる通称西山街道。我が生家はこの商店街のはずれ近く、人や物資の集散拠点で、西山方面へ荷車(荷馬車)で運び上げるための店が軒をつらねていた。魚屋・菓子屋・駄菓子屋・鍛冶屋・練炭炭団屋・八百屋・米屋・炭屋・豆腐屋・呉服屋・洋服屋・荒物屋・酒屋・肉屋・医者・床屋・綿屋・布団屋・自転車屋・金物屋・玩具屋・畳屋・写真店・煙草屋などなど。無かったのは飲食店(みんな握り飯持参)・味噌醤油屋(どの家も自家製)・電器屋(そもそも電器製品なんて電球とラジオ以外なかった)・薬屋(富山の薬売りで間に合わせていた)など。とにかく賑やかだったなあ。朝夕は往来の人の群れ・リヤカーや大八車、日中は子ども子ども子ども。昭和30年代、西山方面からのバスが路線を南に変えたり、クルマが普及し始めたりで、繁華街としての輝きを失いはじめ、今では面影を探すのさえ苦労するほど。
 中でほとんど唯一、繁盛している店がある(実はこの話をするために、長々とマクラを振ってきた)。仁王門から桜枝町通りを百メートルほどのところにある小さなパン屋さん、『桜枝町太平堂』。『太平堂』が付いていても、市内では最も老舗で大きなパン・ケーキ店とはほとんど全く関係がないんだとか。店主は斎藤晴美(男性)さん。パン作りひと筋50年。業界で一目も二目も置かれている超ベテラン。「自分が作ったパン(とケーキ)」の味を守るため、支店を作ったり暖簾分けしたりせず、目立たないところにある目立たない店を半世紀にわったって守り抜いてきた。かと言って職人にありがちな「頑固おやじ」ではなく、快活で篤実な人柄で信頼を培ってきた。家族だけの小じんまりした店ながら、明るく親しみやすい雰囲気が愛され、人気は絶大。まずは女子高(長野西)への通学路にあるところから、学校への往き帰りに買っていく女生徒たちから評判が広がり、次から次へとファンがふえ、やがては各所の給食用、そして味を知ったひとびとが全国各地に散っても遠くからわざわざ買いに来るようになり、商いは大きくなるばかり。それでも店や工場を大きくしたりせず、その日作った分しか売らない姿勢がますます信頼を呼んでいる。いいねえ、こういうお店。
 ここまで「よいしょ」してきたのはほかでもない、先日店主からパンをどっさり頂戴したため(ヤッパそうだったのだな、道理で変だと思っていた、サモシイねえ、との声が聞こえる)。先日カタハを一緒に採りに行った友人が、お裾分けとして半分持って行った「お返し」のついでに、その場に居合わせたこちらにも余得が及んだ次第(当方はケチだから「お裾分け」なんかしない)。久しぶりにお店に来てみると、隣りにあった店が閉店した跡地を取得したんだそうで、来店客用の駐車場になっていた。まだ昼にはだいぶあったのに、ひっきりなしにクルマがやってきては、パンを買って帰っていく。いかに遠くからわざわざ此処へ買いに来るか分かるというもの。見ているだけで気持ちがいい。飯綱あたりの別荘に来ているひとが、10日分ぐらいまとめ買いをしていったり、ついでに遠方の知り合いに送る分も買っていくこともあるとか。来年は古希を迎える晴美ちゃん、とてもそんなお年には見えないよ。あと半世紀は「もちそう」だよ。
 ついでに斎藤君から聞いた話。昨年小麦価格が暴騰したが、このごろは下落傾向が続いているんだとか。しかし単純には喜べない、何故なら小麦の値段が下がった原因は不景気、そして不景気だとパンも売れないから。小麦の供給と価格の安定を図る最善の方法は、すべてのパン用小麦粉に米粉を2割混ぜること。しかもパンの味(品質)もかえって最高になる。ただし「小麦100パーセント使用」なんて宣伝文句を無効にするために、法律で強制する必要がある。「米余り」の解消にもつながるし、輸入量の軽減にもなる。一石二鳥、三鳥じゃないか。すぐやれ!今やれ!「ヤメヤメ、中止中止」ばかりが能じゃないぞ!

ワラビは大昔はシドケだった

2009-10-23 15:14:37 | 山の恵み

 石走る垂水の上の早蕨のいはばしるたるみのうへのさわらびの

   萌え出づる春になりにけるかも

 万葉集の中の代表的な歌のひとつとして、教科書に載っていたっけ。奥山の渓流・ときに滝つ瀬となって、しぶきを上げて流れ落ちる水・谷間に差込む暖かい春の日差し・目をあげると滝の水が落ちてくる崖際に生えている「ワラビ」の「小首かしげて」(安曇節)いる若芽。しぶきに濡れているところに日光が当たってきらきら輝いているーーーこんな情景がすんなりと目に浮かぶ。歌の調子も良く、覚えやすい。いい歌だなあ、春の訪れを喜んでいる気持ちが素直に詠みこまれているなあ。大抵のひとはここまでで終わり。中学生も高校生も、先生の説明を素直に受け止めて、なんの疑問も抱かない。
 だが待てよ、と思ったひとがいる。(もちろん浅学菲才の小生じゃない。)「ワラビ」はそんな谷地には出ない。日当たりの良い丘の上や、水はけの良い斜面に出る。だいいち、わらびは春の訪れを告げる草じゃない、初夏を告げるもの。変だぞ、このワラビはあのワラビじゃないんじゃないか。
 疑問を感じただけでも偉い。タダモンじゃない。早速『日本国語大辞典』に当たってみる。あった!大昔(万葉の時代)は、シドケのことをワラビと呼んでいた、という趣旨の記述を発見!そうだ、これなら納得がいく。シドケ(図鑑名モミジガサ)はまさにこういう湿り気のあるところに出る。しかも確かに「春を告げる」草、味よし香りよし歯ざわりよし、見つけたときには誰も歓喜の声を上げる。新発見だ!大発見だ!言われてみると、なるほどその通りだけれど、最初に見つけたひとは偉い。ニュートンのりんご・コロンブスの卵だ!
 『あきた 山菜 キノコの四季』(前述)の著者はやはりタダモンじゃなかった。この本、やはり名著だ。読んでいて楽しいし、面白いし、そしてためになる。こういう良い本、やたには無いよ。
 それにつけても、これまでの国語の先生がた、何をしてたのか。「このワラビはあのワラビじゃありません。上代の人はモミジガサをワラビと呼んでいたのです」なんて説明をしてくれていたら、古典の授業がもっと「味のある」ものになっていただろうにねえ。著者の永田先生、もとは中学の先生だったとか。まさか国語の先生じゃなかったでしょうねえ。

『あきた 山菜 キノコの四季』

2009-10-21 17:31:29 | 山の恵み
 『あきた 山菜 キノコの四季』(永田賢之助著 秋田魁新報社 平成9年)。素晴らしい発見(?)。世の中にこんな良い本がまだあったんだ。感激!2千円もする本がタダでもらえたからじゃないよ(嘘つけ!)。名著は『サハリン 旅のはじまり』(山本淳一著 清流出版)で終わりかと思っていた。 先頃友人からいただいた3冊のうちの1冊。ほかの2冊のタイトルだけ見て、どこにでもあるフツーの図鑑だと思い込んで、棚の上に積んだままにしておいたのを、なんの気なしに手にとって、中をパラパラめくっているうちに、「こりゃーすげえ、そんじょそこらに転がっている本と違うぞ、じっくり最初から読ませてもらおう」となった次第。 単なる山菜・キノコの紹介じゃあ勿論ない。方言をまじえての山菜やキノコに関する話も面白いが、何よりかより、秋田の野や山や川や海をこよなく愛する著者のまなざし、更にそれにもまして、人々との交情人が素晴らしい。『サハリン...』の場合と全く同じだ。 本当に良い本というのは、ユーメー作家じゃないからと「大出版社」が扱おうとしない、名前が売れていないからどうせ売れないだろうと書店も陳列しない。多くの場合、具眼の士がいないから図書館にも置いてない。心をうたれる本にめぐり合えるのは、仇討ちの文句じゃないが「盲亀の浮木・優曇華の華」。残り少ない生涯、もうこれが「打ち止め」かな。 このごろどうしても「ぼやき節」になってしまうなあ。我ながらなさけないよ。今日も今日とて、県立図書館でひと悶着起こしてしまった(恥ずかしくて人には言えない)。ますます世間が狭くなるなあ。「世間」の残りも僅か。 

地瘤ってなんだ?

2009-10-08 17:17:00 | 山の恵み

 「戸隠固有といふ地瘤(ぢこぶ)とか言ふ菌(きのこ)の一種、それが他国で迚(とて)も得られぬ物であった。地瘤(ぢこぶ)とは形(かた)ち土筆(つくし)の大きなやう、蛇の背に似た斑(ふ)があって其(その)色は薄鼠(うすねずみ)、口へ入れればぬらついて一寸(ちょっと)言へば蓴菜(じゅんさい)のやう、しかし美味であった。是(これ)は地から取って数時間立つと腐敗して虫になるとか、其(その)ために戸隠(とがくし)より外(ほか)へ持出(もちだ)す事も出来ず、長野にも亦(また)無い程である。」<o:p></o:p>

 フリガナを括弧づきにしたため、かなり読みづらいのはご勘弁あれ。写すのも大変でした。しかし明治の文人は親切でしたなあ。漢字を減らせばフリガナを付ける手間も省けただろうに、と現代人なら言いたいところだけれど、これでも少ないほう。なにしろ筆者は言文一致体の草分け、山田美妙(びみょう)、当時の一般大衆にも読みやすいように心がけて書いたくれたんだから。<o:p></o:p>

 『戸隠山紀行』(『明治の文学 第10巻』筑摩書房)。先日『鉄道記念日・全線乗り放題切符』なるものの1回分(1日分)を使って、大糸線に乗りに行った際、車中で読んでいて、この一節を見つけた。明治22(1889)年7月、善光寺脇から往生寺→荒安→飯綱(原文では縄)原→一の鳥居→大久保の茶屋→中社(泊)→奥社→戸隠山(八方睨)→中社(泊)→宝光社→長野と歩いた報告。その約百年前に菅江真澄が辿ったのとほぼ同じ道筋。約百年後に当方が何度となく往復したのも同じ道筋。当然それより何百年も前から、昭和30年代終わりごろに『バードライン』が出現する前までは、同じ風景が続いていたはず。広漠たる、荒涼たる飯綱原(いいづなっぱら)が失われて年久しい。あの広大な草原がクルマの道とゴルフ場と別荘地に成り下がっちゃった。やんぬるかな。<o:p></o:p>

 話を元に戻そう。「ぢこぶ」とはそもなにもの。漢字は単なる当て字だろう。村人が「じこぼ」と言ったのを聞き違えたか、それとも村人自身が訛ってそう呼んでいたのか。ただし所謂「ジコボ(ハナイグチ)」じゃない。色も模様もちがう。あれは恐らく「ハイイロイグチ」だろう。色・形・茎の模様・ぬめり・味すべてが一致する。「腐敗して虫になる」というのは「きのこっ採り」のいわゆる「足がはやい」ってヤツ。夏に出るきのこは一般にヤワで、すぐにふやけてしまい、色も黒っぽくなって、朝採ったものが夕方にはフニャフニャに崩れてしまい、煮るにも焼くにもならない。<o:p></o:p>

 とにかく、こんな推理を働かせて楽しんでいるうちに、11時間の鈍行列車の旅もあっと言う間に終わってしまい、あっけないやら物足りないやら。切符代¥3,060。ま、モトはとれたかな。<o:p></o:p>

きのこ名人の死

2009-03-25 09:07:00 | 山の恵み
 きのこ名人がまたひとりあの世へ住み替えました。清水和夫さん、西山信田(にしやまのぶた)で70年余り、篠ノ井西部丘陵から大岡村にかけて、きのこも山菜も、一木一草にいたるまで知り尽くしていらっしゃった、仙人を絵に描いたようなおかたでした。世の多くの「名人」は、一子相伝どころか、我が子にさえきのこの「シロ」を教えないそうですが、清水さんは度量が広く、長年かけて見つけたマツタケやホンシメジの「シロ」に友人知人をどんどん招待し、きのこの見つけ方や見分け方、生えている場所の特徴など、微に入り細に入り、文字通り手を取るようにして指導してくれました。
 ご自分のマツタケ山(持ち山)を一度案内していただいたことがありますが、落ち葉を掃いて地面をきれいにしておくための熊手を肩に、マツタケやホンシメジの生えているところを教えてくれましたが、ときどき「あ、そっちへ行っちゃダメ、そこを踏んじゃダメ」と大声で注意され、どうしてかと思って足をとめると、「ほら、そこの落ち葉の下にマツタケがある、ウシビタイ(黒皮、別名おしょうにん)がある」と指差す。厚く積もった落ち葉を剥いでみると、たしかにキノコが隠れている。
 シモフリ(シメジ)と良く似たキノコがあると、「ほら、これがニタリヤ(似たり?)と言うやつ、こことここが微妙に違う」と示してもくれました。高級キノコ以外にも、数多くの種類を教わりました。アカンボウ(さくらしめじ)、キシメジ、キナコタケ(こがねたけ)、オニギリタケ(からかさたけ)などなど。
 ホンシメジは自然界からはほぼ絶滅、クロカワ(クロッカワ)も大方採り尽くされてしまった今、見つけてくれる名人がいなくなっては、ほかに誰が見つけられるのか。長野市南石堂(いしどう)の名人、居酒屋『幸べえ』のマスター、はお亡くなりになって久しく、知る限りではたったおひとり残った上田市国分(こくぶ)の名人も、先頃脳の大手術を受けられたとか。三大名人がいなくなったら、この世は真っ暗闇、あー、世界はどうなってしまうのか(チト大袈裟過ぎ?)。