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横山作次郎

2013-08-10 15:06:04 | きになるニュース
横山作次郎 【よこやま・さくじろう】
2件の用語解説(横山作次郎で検索)
..朝日日本歴史人物事典の解説.
生年: 元治1 (1864)
没年: 大正1.9.23 (1912)
明治時代の柔道家。農家の次男として武蔵国練馬(東京都)に生まれる。明治19(1886)年4月に講道館に入門。富田常次郎,西郷四郎,山下義韶と共に講道館四天王のひとりとなる。20年の警視庁武術大会では良移心頭流の中村半助と55分におよぶ激闘を演じた末に引き分けとなる。その後,鬼横山の異名がつけられた。21年3月に4段,37年10月7段,死去に伴い8段を贈られた。講道館柔道初期の隆盛の立役者であった。<参考文献>工藤雷介『秘録日本柔道』
(藤堂良明)
デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説.
横山作次郎 よこやま-さくじろう

1864-1912 明治時代の柔道家。
元治(げんじ)元年生まれ。天神真楊流の井上敬太郎の門下となり,明治19年講道館にはいる。払腰(はらいごし),足払,横捨身などの得意技で柔術諸流とたたかい,「鬼横山」といわれた。警視庁師範。37年7段にすすみ,死後8段をおくられた。大正元年9月23日死去。49歳。武蔵(むさし)豊島郡(東京都)出身。


横山作次郎(よこやま さくじろう、1864年(元治元年)- 1912年(大正元年)9月23日)は、東京都出身の講道館創成期の柔道家。身長173cm(5尺6寸)、体重86kg(23貫)。段位は八段(没後追贈)で、通称「鬼横山」。富田常次郎、西郷四郎、山下義韶と共に「講道館四天王」と称された。また、三船久蔵や前田光世の師匠としても知られる。得意技は「払腰」、俵返し、横捨身で、また、自らが編み出した天狗投という技の使い手でもある(技については文献が無く、正体不明となっている)。

譜[編集]1864年(元治元年)、江戸の鷺宮で生まれる。
井上敬太郎(道場は湯島天神下)に天神真楊流を学び、他に起倒流を修行していた。兄弟子に三上富治(後、山形県警の師範となる。京都武徳殿で磯貝一、永岡秀一に勝ったこともある。また大東流合気柔術の武田惣角の弟子となった。)がいる。

1886年(明治19年)、23歳、4月に嘉納治五郎の講道館に入門。5月初段、9月二段。10月向ヶ丘弥生社警視庁武術大会で、1883年(明治16年)に初代警視庁柔術世話掛4人のうちの一人であった良移心当流柔術の中村半助(弘化2年11月16日(1845年(弘化2年) - 1897年(明治30年)で当時41歳)と55分試合し、三島通庸警視総監の裁定により引き分けとなる。
1887年(明治20年)、1月三段、同年警視庁柔術世話掛となる。
1888年(明治21年)、3月四段
この頃、警視庁柔術世話掛となった竹内流柔術の金谷仙十郎(養子前名は片岡仙十郎 1890年(明治23年)上京。)と数十分試合をするが引き分けとなったことが有名となる[1]。
1893年(明治26年)、1月五段
1896年(明治29年)、東京高等師範学校で柔道を教授。成績により級を決めた。
1898年(明治31年)、1月六段
1904年(明治37年)、10月七段、
1908年(明治41年)、『柔道教範』出版。
1912年(大正元年)9月23日没。享年49。墓は東京都北区田端の大龍寺わきの墓地にある。

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