碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (67)

2019年09月08日 21時30分03秒 | 西田 税のこと

 ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (67)

       (大正天皇のこと)  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 

   (以下今回)

 大正天皇については、いろいろな噂がながれ、あまり良い話は伝えられていない。しかし、本当のところはどうであったのか、私は「大正天皇御製」といわれる漢詩を読んでその内容の素晴らしいことに感服した。

 それは、

 「歳朝皇子に示す」と題するものである。

  『 改暦方(まさ)に逢う 万物の新たなるに

    児を戒む 宜しく日新の人と作(な)るべし

    辛苦を経来たりて 心鉄の如し 

    看取せよ 梅花雪後の春 』

 これは、子供たちに示したもので、歳が改まってすべてが新しくなるように思うかも知れないが、そうではなく毎日毎日、自ら新しくなるように行動せよ、と伝えたものである。 人間というものは、いろいろな苦労や悩みを通り抜けてはじめて、鉄のような何ものにもくじけない心をもつことが出来るのである。

 あの梅の花が、きびしい雪の寒さののちに、はじめてあのように香り高い花を咲かせ、春を迎えることが出来るであるということを知らなければならない。

 今ひとつは「宝刀」と題するものである。                                                                    

  『古(いにしえ)より神州 宝刀を産す 

   男児の意気 佩(お)び来たりて豪なり

   能(よ)く妖氛(ようふん)を 一掃し尽くさしめ

   四海同じく看ん 天日の高きを』

   わが神州日本には、古来優れた宝刀が造り出されて来た。日本の神州男児たるものは、だれしもこの宝刀を腰に帯びて、意気はまさしく豪快であった。  しかし、これは人を斬るためのものではなく、われわれの心にひそむ邪悪な魔物を追い払うものである。

 どうかそのようになって、世界の人々とともに、太陽の高い理想のもとに、平和な安らかな世が来るように、日々努力しようではないか。

 という詩である。

 大正天皇は、明治十二年(1879)に、明治天皇と典侍(側室)柳原愛子との間に生まれた。生まれたときから病弱であったという。明治二十年に学習院に入学したが、そのとき侍従にせがんで軍隊の「背嚢」を背負って登校した。これが「ランドセル」の原型となったという。

  明治三十三年(1900)、21歳で九条節子(さだこ)と結婚した。親から引き離されて寂しい幼少期を送った大正天皇としては、早い結婚は嬉しいことであったという。妻節子はこのとき15歳であった。

 大正天皇には男の子が四人生まれた。昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮の四人である。彼らに伝えたことばが上記の詩である。その言葉の発する内容の素晴らしさは、じゅうぶん理解できる。

 しかし健康状態から学習は進まず、学習院を中退することになった。乗馬は進歩したという。

 明治以後の天皇では、大正天皇がはじめて「一夫一婦制」をおこなった。子煩悩で家庭的な面を見せた。この家庭的な天皇像は意外に人々に知られていないところではないだろうか。

 また健康を回復してからは、沖縄県をのぞく全土を行啓し、各地で身分にかかわらず、きさくに人々に話しかけた。京都帝国大学(現京都大学)付属病院では、患者に声をかけ、患者が感激にむせんだという。

 その移動にも、特別編成の「お召し列車」ではなく、一般乗客とおなじく普通列車に乗り込んだ。また兵庫県の陸軍大演習のときには、旧友の家を突然訪問し、新潟県では早朝に宿舎を抜け出し散策し、また蕎麦屋に入ったりしたという。

 最初にあげたように、漢詩は好きであったようで、生涯に1,367首も作られた。歴代天皇の中では抜きんでていた。

 和歌も456首が確認されているといわれるが、その歌の内容もかなり素晴らしいもので、「清涼さ」、「透徹した描写」において明治天皇、昭和天皇とくらべても優れたものであった。

 明治四十年(1907)には「大韓帝国」を訪問し、皇帝純宗や皇太子李?(てへんではなく土偏である)(イウン)と気を通じ合った。(注:当時はまだ日韓併合以前であったので、史上初めての皇太子の外遊となった)    大正天皇は朝鮮語の勉強になみなみならぬ努力を重ね、韓国皇太子が日本に留学していたときには二人でたびたび会って、朝鮮語で会話が出来るぐらいであったという。

 また大正天皇は、欧米への外遊を期待していた詩作をしていたが、明治天皇の反対で実現しなかった。つぎの昭和天皇は皇太子時代にヨーロッパ訪問をしている。

 原敬は、皇太子時代の大正天皇の巡幸に同行していたが、『原敬日記』に、きさくで、人間味あふれる、しっかりとした人間像を記しているという。また『ベルツの日記』のベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子時代の大正天皇に好感をもっていた。

 大正十年(1921)には、病状が悪化し、快復の見込みがなくなったとして、皇太子裕仁親王(のちの昭和天皇)が摂政に任じられることになった。

 大正十五年(1926)十二月二十五日、療養中の葉山御用邸において亡くなるにいたった。このとき長らく会えなかった生母の柳原愛子の手を握って死を迎えたという。

 この死の床に生母を呼んだのは、貞明皇后の配慮であったという。天皇は47歳であった。なお大正天皇は自らの病状を考え、自分を解剖するよう伝えたと言われ、死後「病理解剖」が実施されたという。

 この貞明皇后は、いろいろな面で大きな役割を果たしたといわれ、明治以後の皇室での彼女の存在はこれからも大きな研究課題であるといわれる。

 大正天皇の人物像ではさまざまなことが伝えられているが、例えば仙台に行幸したときには、競馬会に臨まれ、競争中は常時立ち上がって観戦し、お付きの武官と馬を指して語りあったりした。

 これらは、明治天皇が「神」として、人の目につかないようにしていたのとまったく別の対照的な行動であった。

 また、四人のこどもたちとは、皇太子時代に気軽に合唱を楽しむなど、良き父親であった。また、大正天皇のご成婚のときには、全国各地に「桜」が記念として大量に植樹された。

 また現在行われている「神前結婚」は、大正天皇と貞明皇后の婚儀を東京大神宮が一般向けにアレンジしたものである。

 帝国議会の開院式において、大正天皇は「遠眼鏡事件」といわれる詔勅をくるりと巻いて覗いたという話が有名で、大正天皇が脳を患っていて、暗愚であったと指摘しているが、勅書は丸めるもので、丸めることは問題ないという。

 今後、大正天皇についての人物像をもっと考えなおしてもいいのではないでしょうか?  


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