碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (110)

2020年03月15日 23時26分20秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (110)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。

   (八)

 (文豪 魯迅の結婚)
   
  「包辨婚(ほうべんこん)」のもう一つの例は中国近代文学の父、魯迅の結婚である。

 (注:包辨婚とは、親同士が子どもの意見を聞かず、一方的に取り決める結婚のこと) 
 魯迅は、小説『狂人日記』、『阿Q正伝』、中国小説史の解説書『中国小説史略』、魯迅自身が書いた雑感文をまとめた『華蓋集』、回想文集『朝花夕拾』など、1300編を越える文章を書き残した。

 魯迅は本名を周樹人という。1881年9月25日(清光緒七年)に浙江省紹興城内東昌坊口の豊かな封建士大夫の家庭に生まれている。

 士大夫と言うのは官僚、知識人階級などを指す。魯迅の祖父は県知事の職にあった人である。のちに北京で文部官僚をしていたとき、息子(魯迅の父周伯宜)の科挙試験のために不正を働き、これが1893年、逮捕された。

 祖父は杭州の牢に7年間収監されて、1902年に釈放された。この事件により周家は没落した。

 魯迅は1898年、南京の江南陸師学堂付属砿務鉄路学堂に入り、1902年1月、鉄路学堂を優秀な成績で卒業した。同年3月、南京から日本船大貞丸に乗り、公費留学生として日本に渡った。

 彼は1902年4月、東京の弘文学院に入学し日本語を学び、1904年9月、仙台医学専門学校(今の東北大学医学部)に入学した。

 1906年、微生物学の授業の合間に放映された幻灯の中に、中国人が日本の軍人に首を切られている写真があった。それを多くの中国人が黙々とした取り巻いて見ている姿があった。

 その中国人たちの顔がまるで無表情であるのに、魯迅は大きなショックを受けた。
 その結果、彼は1906年夏、仙台医学専門学校に退学届けを提出し、東京に戻った。

 魯迅は「「医学を学ぶのは必ずしも急務ではない。国民が愚かであれば、身体がいかに健康で、たくましくても、何の役にも立たない、病気で死ぬのは必ずしも不幸なことではない。我々の必要とするのは彼らの精神を変革すること、そしてそしてこの精神を変えるために、文芸を薦めるのが当然である」(『吶喊』自序)と書いている。

 魯迅は1906年7月、母が病気である、すぐに戻ってくるようにという手紙を受け取り帰国するが、実は母が彼を結婚させるために呼び戻したのであった。相手の女性は朱安といい、魯迅より三歳年上の文字も読めぬ人であった。

 そしてこの人も纏足をしていた。

 魯迅は強制されて、母親のために結婚はしたが、婚礼の四日後に日本に戻って、三年後帰国するまで、一度も帰省しなかった。

 日本から帰国後、魯迅は旺盛に文学活動を繰り広げるが、朱安とは夫婦としての生活をすることは生涯なかった。

 1928年、魯迅は許広平という47歳で結婚(事実婚)し、一児をもうけている。当時上海に書店を開いていた内山完造との長年にわたる友誼は、今日にいたるも両国の友好関係に大きく寄与している。

 内山完造については、吉田曠二著『内山完造の肖像』(新教出版社)が、その人となりおよび業績をよく伝えている。

 魯迅は19336年10月19日、上海で56歳で亡くなるが、朱安はその後も北京で魯迅の母と共に暮らし、母が亡き後は、1人家を守り、魯迅が亡くなって11年後の1947年6月に北京の魯迅家で亡くなった。(周海嬰著『我が父魯迅』・集英社) 

 魯迅の生まれたのは、1881年で1892生まれの郭沫より11歳年上であり、劉仁は1903年生まれで、郭沫若よりさらに11歳若い。

 だが三人の親が選んだ妻がともに纏足をしていたということに驚く。

 近代中国の有名な作家巴金が書いた『家』という四川省の旧家を舞台にした名作があるが、この中に纏足のことが深い同情をもって描かれている。

 当時の親はなぜ幼い娘に纏足をしたのか?

 それは、大きな足は見苦しいという考えとともに、金持ちの娘は労働をせず、家の中に囲い込まれて歩く必要がなく、嫁しては夫の家から自分一人では外に出られない弱い存在だと印象づけるためであった。
 
  結婚は家のためと考えられ、家と家の経済的なつり合いや、社会的な門戸地位のつり合いが一番大切で、娘を少しでも相手の家に高く評価させるためには、纏足をしているか、いないかが重要な条件であったからである。

 封建時代の女性であっても、農民のように自分で働いて食べて行かねばならない階級では、纏足をしないが、貴族、官僚、大商人や大地主などの娘たちはほぼ強制的に纏足を施されている。

 だが、纏足をしていない女性を足が大きいと軽蔑する考えは劉仁の原配夫人(親の決めた最初に結婚した妻)楊春輝が纏足をしていたことからも、長く続いていたことがうかがえる。

 このように纏足は本人の意思と関係なく親の意思でなされるものである。

 繰り返すが魯迅の原配夫人、郭沫若の原配夫人、劉仁の原配夫人と、まるで申し合わせたように、纏足をしていた。

 纏足をしている足の形を見ただけで、顔も見ず一言も話さず、瞬時にその女性を嫌悪するというのは、現代の我々女性からすれば、いかにも短絡的な、これもまた女性を生きた人間と見ない女性観で、素直に受け入れることは難しい。

 だが彼らの生きた時代は、中国が最後の封建王朝、清朝の崩壊から、孫文の指導した辛亥革命を経て、近代中国に移行し、さらには抗日戦争を戦い、新中国を建設するまでの、60年にわたる大激動期であった。

 この激動する時代の変化とともに、個々人の社会に対する要求、社会観の大変化が起きた。文化的にも大変化が起きたのは当然の理である。纏足は旧い封建時代の小さな足の女性を美しい、可愛い、庇護するべき物の象徴だとする文化、審美眼が作り出したものである。

 しかし新しい時代に生まれ、新しい中国を創造しようという思想と、理想に燃えた青年たちの目には、恐ろしく嫌悪すべき醜いものと写ったのである。

 彼らにとって、纏足の布でぐるぐる巻きにされた小さい足は、美しいと感じなかったのみならず、封建社会を象徴するものに映ったのである。封建社会の旧く暗い家の存在を嫌悪したのである。

 この頃の親には良心の呵責も罪悪感も無かったろう。親が無意識に、息子を家に縛り付けておこうと一方的に取り決めた結婚ではあるが、若い青年にはまだ拒否する力はなかった。

 だが、後に中国の近代文学や、政治運動の中で、輝かしい活動をするようになる。魯迅をはじめ郭沫若などに代表される若い知性は、いかにしても旧い制度や習慣に囚われた社会と家に踏みとどまることを納得出来なかった。

 劉仁も魯迅や郭沫若と同じように、この封建的習慣を否定したのである。

 纏足の布がきつく女の足を縛るように、纏足をした女によって自分を家に縛りつけようとする包辨婚(ほうべんこん)(注:これは、親同士が子どもの意見を聞かず、一方的に取り決める結婚のこと)を嫌悪し恐れたのだ。

 まだ精神的にも経済的にも独立していない、劉仁にいたってはまだ12歳の少年という時期に、結婚といういう桎梏(しっこく)で家に繋がれるのはどんなにか苦痛であっただろうか。

 そして、この封建社会の押しつけた結婚という頚木(くびき)から逃れる、合法的かつ経済的な唯一の方法が留学という手段であった。


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