ebatopeko②
長谷川テル・長谷川暁子の道 (107)
(はじめに)
ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。
この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。
このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。
またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。
その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。
実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。
長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。
長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。
日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。
そこで、彼女の足跡をいくつかの資料をもとにたどってみたい。現在においても史料的な価値が十分あると考えるからである。
(六)十二歳で結婚 劉仁の東京での学生生活に話を進める前に、彼の十二歳での結婚について、 述べておきたい。
本渓市政文史委、佳木斯市(ジャムス市)、佳木斯市旅遊局発行の『緑川英子与劉仁』の中で劉仁の三番目の弟劉維箴氏は劉仁の十二歳での結婚について
「兄が十二歳の時、父により強制的にまったく面識のない一人の女性と結婚させられた。それが兄嫁楊春輝だ。彼女は1903年生まれで兄より五歳年上である。楊家は金持ちではないが、生活はまあ何とかやっていけるという程度の家であった。
楊家は大家族で、分家も入れると50人以上おり、兄嫁は兄弟姉妹が五人か六人いた。
楊家は情が厚く、当地では評判が比較的よい家で、父はこの家との縁組みに大変満足していた。
しかし兄はそうは思っていなかった。 兄嫁は若い頃大変きれいで、背は高くなかったが大家の娘というような気質があった。彼女は初め纏足(てんそく)をしていたが、後にはしなくなった。純朴で、善良、労苦をいとわず、あの時代のよい嫁の標準的なひとであった。
(注:纏足(てんそく)とは、中国の清朝沫まで行われていた奇習。女の子が4~5歳になると、両足の親指をのぞいて他の四本の指をきつくしばり、足の裏側に固定したものである。極めて苦痛を伴うが、10世紀ころの唐末から約100年おこなわれた奇習である。のち康煕帝が禁止したが20世紀の清朝の末まで続いた。しかしこの纏足ではは、よちよち歩きしかできないが、それが当時は好い結婚相手を見つけるための女性の美とされたのであった)
さらに彼女は二年私塾で勉強しており、これは当時の農村の女子としては、大変稀なことである。兄劉仁は結婚後間もなく、勉強のため外に出、夏冬の休暇にしか家に帰って来なくなった。
そして1933年に日本に留学した。兄嫁の唯一の精神的なより所は娘の艶茄であったが、この娘も二十歳で亡くなった」と語っている。
劉維箴の娘、劉艶月さんは1982年から1988年楊春輝が亡くなるまで共に暮らしたが、「彼女は纏足をしていたが、後にはそれを解き放した」と筆者に語っている。
劉仁の弟劉維箴は「兄劉仁は楊春輝という五歳年上の知らない女性と十三歳のときに結婚した」と語り、後年二人の間には子どもが生まれていることを見ても、確かに楊春輝という女性と劉仁との間に男女関係があったことは事実である。
しかし、この結婚は、劉仁の意思とはまったく関係なく行われたものである。 そもそもたった十二歳余りの、少年を結婚させるということがどのような意義をもつものか、今日我々は理解するに苦しむ。もとよりそれは劉維箴氏が言うように、まったく親の意向で行われたものではあるが。
劉仁は旧暦1909年7月29日生まれであり、結婚したのは旧暦1922年4月22日であるから、この時は満十二歳八カ月である。楊春輝のことを劉家の童養媳(せき)であったという人もいるが、これには無理がある。
当時の中国では、貧しい親が娘をいくらかの金と引き換えで、非常に幼いうちに嫁に出すということがあった。これを童養媳(せき)とよぶが、これは息子の結婚相手として、成人した女性を望めば、娘の親にかなりの払わなければならないので、大金を払えない貧しい農民が、女の子を小さいうちに安く買い取り、小さいうちから労働力として働かせ、一人前に成長してからは息子の嫁にするというのははなはだ人間性を無視した制度である。
(注:童養媳(せき)(中国語でトンヤンシー)とは、中国や台湾でおこなわれていた制度で、幼い女の子を買い取り、将来の息子の嫁にするというもの。大体、売られるのは貧しい家庭で、ときには家に男の子が生まれる前に買い取られ、家の雑用に使用し養育し、女の子が大きくなると生まれた息子の嫁としたという。媳は嫁の意味である)
このように幼いうちに童養媳(せき)に出された女性も、自分の意思を表明できない子どものうちに決められた相手と結婚しなければならなかった男性も、ともにこの非人道的な制度の犠牲者である。
童養媳(せき)については、今日中国ではもちろん法律的に許されるものではないが、 当時も当然進歩的青年の多くがこの制度に反発をしていた。
だが楊春輝は劉仁の童養媳(せき)ではなかったと考える。
まず劉維箴氏は一言も楊春輝は童養媳であると証言していない。さらに彼女は19歳で劉家に来ている。
当時の女性の19歳は結婚するのにちょうど好い年頃であり、このような妙齢の女性を童養媳と呼ぶのは無理がある。
劉家がもし童養媳を買おうとするなら、もっと幼い子どもを買うだろうし、また経済的に裕福な劉家は、安いからという理由で童養媳を買う必要はなかったと思われる。
ではなぜ父劉振邦は劉仁の結婚をこのように急ぐ必要があったのだろう。幾つかの理由が考えられるが、その一つが劉家の橋頭街での立場である。
劉仁の祖祖父は山東省から1850年に遼東半島にやって来たが、困窮のため二人の子どものうち一人を失い、残った一人が劉仁の祖父である。
祖父は劉藺英と言い、本渓県橋頭に落ちつき、50歳で結婚した。子どもは男の子は一人と、二歳下に女の子がいた。この男の子が劉仁の父劉振邦である。
女の子は橋頭の劉春元に嫁ぎ子ども(男)を一人生んだが、早くに亡くなった。
このように劉家は当時の中国の一般的な家庭に比べると家族が非常に少なく、親戚もまた少なかった。
橋頭街で薬局や雑貨屋を開き、郵便局長になり経済的に成功する事が出来た劉振邦は、街の有力者となっている。
高鋒矛氏(佳木斯市元文物管理所長)は「彼は特別弁が立ち、何事もてきぱきと進めることが出来た。人は彼のことを、鉄の口と鋼の歯を持った劉振邦、丸を四角と言いくるめることが出来ると街の人たちは言った」と書いている。
このような劉振邦であるが、彼の弱点(これは彼個人の努力や才能ではどうしようもないことであるが)は、親戚縁者の少ないことであった。
今日でも中国で何か物事をすすめるときに、一番重要なのは人間関係であるということ、多少とも中国と関わりのある人ならばよく知っている。
まして90年以上も前のことであればなおさらのことであろう。
たとえば、村の中での揉め事など、劉振邦はそれを解決するためにいろいろと努力をしているが、どのような事であれ、自分一人で決定できるわけではなく、有力者の劉振邦といえども、橋頭街の日本人や、中国人の商工関係者や、村の他の有力者と話し合うことや、取り決めなどをする必要があったはずである。
そして話し合いを自分に有利に運ぶためには、一人でも多くの自分と同じ立場や利害関係に立つ者を獲得する必要があるその意味では。村の中に親戚が多ければ多いほど有利であり、親戚の少ない劉振邦はずいぶん苦労をせねばならなかったのではないだろうか。
劉仁の結婚相手の楊春輝の家族は大家族で分家も合わせると50人を超えていたと いうことである。
まったくの推測であるが、劉振邦はなんらかの必要から、婚姻関係をむすぶことで、一挙にたくさんの親戚をもつことができる楊家の娘を劉仁と結婚させたのではないだろうか。
もちろん、劉維箴の「祖父の早く孫の顔を見たいという願いで」……と言う説明も、四世同堂といって親、子、孫、曾孫が同じ屋敷に住むのが理想的家族であった当時の中国社会ではまたそれなりの説得力もある。
この結婚について、楊春輝はのちに「その時彼は実際には12歳、それに比べわたしはもう19歳の娘でした。父母の命令で私たち夫婦になりましたが、何がわかるもんですか !夫婦の愛情なんて話すこともありません。
解放後に評劇の『年下の婿』というのを見たことがあるけれど、私たちもあれに少し似ているようです。そしてすぐに彼は去ってしまいました」と語っている。