碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (77)

2019年12月14日 13時45分09秒 | 西田 税のこと
ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (77)

           ( 『無 眼 私 論』 9)
 
 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。
 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。
  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。
 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。
 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。
  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。
  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。
 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。
 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。
  西田税が、書に秀でていたことは、小学校六年に筆で残した「整頓掃除和楽育児交際慈善」の端正な肉太の字に明らかである。私などは足許にも及ばない。
 そして彼の文章力が素晴らしいものであることは、『戦雲を麾(さしまね)く』を読めばよく理解されるところである。ところが彼の遺したまとまった著作は自伝といえる『戦雲を麾く』と『無眼(むがん)私論』の二冊しかない。
 しかし『戦雲を麾く』はわりあい知られているが、『無眼私論』はほとんど知られていない。そこで、ここでは『無眼私論』を『現代史資料5』「国家主義運動(2)」(みすず書房)にもとづいて紹介したい。
 そこには昭和維新の大立者というイメージからはほど遠い女々しい面も見られると言われる。大正ロマンチシズムもみられるとも。次の詩にはそれがよく現れている。
 「詩と死と、
  死は詩なり、
  死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき発路(ママ)なり、
  ー人生の光彩は実に此間に見るべし、
  死は美し、
  吾人は吾人の死をして真に美しからざしめるべからず」

   (以下今回)

  (大正維新)その2
      ※ 参考書
    罵世録(ばせいろく、世をののしる)
  我大日本主義
  我大亜細亜主義(わがだいあじあしゅぎ)
  我等ノ使命
  窮天私記
   「大正維新」の後半を取り上げてみる。
国家を清新にして真正の哲理に則(のっと)るには如何にせば可なるか、
吾等は不法にして背理(はいり、注:道理にもとること、理屈に合わないこと、不合理)の施設は之を尽(ことごと)く破壊せねばならぬーそして其上に新しい理想の国家を建てねばならぬ、
「五十年」、此の間に於ける我不合理的国家社会の改革ー而もそれが頗(すこぶ)る根強く深く食込むで居るこの弊害ーは尋常一様な温和な方法では到底不可能である、出来得ない、
況(いわ)んや其全般を棄てて一部的改造の如きはそれこそ蓋(けだ)しいけない、
成就はするかもしれない、然(しか)も決して真理を見出すことは出来ないのである。
今に於いては最早(もはや)直接破壊のために剣でなければならぬ、
剣である、そして血でなければならぬ、
吾等は剣を把(と)って起ち血を以て濺(そそ)がねばこの破壊は出来ない、建設は出来得ない、
神聖なる血を以て此汚(けが)れたる国家を洗ひ而して其上に新に真日本を建設しなけらばならぬ、
而して「天皇の民族である、国民の天皇である」この理想を実現しなければならぬ、
(注:ここにも次のフランス語がある。残念ながら簡単そうですが意味がわからない)
     *  Projectif
          L'Epee
          Sang sacre
 
噫(ああ)、
大権ー神聖なる現人神(あらひとがみ、天皇のこと)の享有し給ふ真理実現の本基たるべきーの発動による国家の改造、
「クーデター」吾等はこれを断行しなければ無効だと信するのである、ー爆弾である、剣である、
  ※   Coup  d'Etat(注:これはクーデターと読める)
        
                          
真日本の理想に背馳(はいち、背を向けて走り去る意から、行き違いになること、反対になること、背き離れること)するものは凡(すべ)て斬らねばならぬ、
民族の理想に合はないものは凡て葬らねばならぬ、
而して民族全体の心に堅く理想を植ゑねばならぬ
之を見よ、
現時の趨勢(すうせい、注:社会などの全体の流れ)を、
上は国政を議する廟堂(びょうどう、注:天下の政治を司るところ)の大臣より下は一卑僕(ひぼく、注:召使いのこと、卑しんでいう)に至るまでこの醜態(しゅうたい、注:醜いありさま)は何だ、
主権を窺?(きゆ、注:隙を窺い狙うこと)した元老(げんろう、注:第二次大戦前の政府の最高首脳の重臣、『大日本帝国憲法』には規定がなく、憲法外の機関とされる)があった。
大臣は尽く醜陋(しゅうろう、注:みにくく卑しいこと)の極を尽(つ)くして居る、
議会を見よ、これが真面目な国政の審議者として批難のないものであるか、
選良の名は当然か、
政党政治ーこれが進歩せる立憲政治ださうだーの態は何だ、
教育家と称し実業家と称し更に芸術家と称する輩(やから)の心事を洞察せよ、
青年学生の風潮はどうか、
民衆の趨向はどうか、
国家の本質を思ひ使命を思い現実を直視し更に周辺に眼を注いだとき「時局は重大である、捨てて置かれぬ」といふ感じが強く余輩の心を衝(つ)く、
宰相原敬(注:時の首相原敬のこと)は十九歳の青年中岡艮一(なかおかこんいち)に刺された。「原敬事件」と言われる。大正十年(1921)年11月4日、ときの総理大臣「平民宰相」といわれた原敬が、東京駅において突進してきた中岡艮一に右胸を刺され殺された事件である。
中岡は当時国鉄(今のJRである)といわれた鉄道省の職員であった。
中岡には原敬に反感を持っていた上司がいたという。
彼は無期懲役となったが3回の恩赦で昭和九年に出獄し満州にわたり仕事に就いた。三年後当時のソ連から難民として流れ込んだタタール人に興味を持ち、イスラム教徒の姜鳳芝
と神戸のモスクで結婚し、ムスリムとなったのである。
このことは意外に知られていない。彼は戦後帰国し、1980年(昭和55)に77歳で亡くなった )
富豪安田善次郎は朝日平吾に刺された。(注:これは原敬事件の一カ月ほど前に起こった。中岡艮一の事件は、この安田善次郎暗殺事件に刺激を受けたといわれる)
更に大正十一年三月十七日午後一時、
神聖比なき皇城二重橋頭尊皇愛国の爆弾は破裂した、
(注:これは1922年(大正11)3月17日に起こった、一般に「二重橋事件」とも言われる事件である。時の大正天皇あるいは摂政宮(のちの昭和天皇)に上奏文を渡して直訴しようとし、そして何より「摂政宮」(のちの昭和天皇を奉じ真日本の建設を)大正維新と捉えていたことがわかる)自爆した事件である。
滋賀の38歳の労働者藤田留次郎が持っていた爆弾に火をつけて走り出し橋の上で自爆した。「直訴だ!」「直訴だ!」と連呼し、警官を振りきって二重橋へ突進した。上等兵は男を突き飛ばし、男は茶筒の封筒を投げ出した。
突き飛ばされた男は懐にあった爆弾に点火し、五臓六腑を露出し飛び散っていた。茶の封筒には上奏文があった。実は私は翌1923年の摂政宮狙撃事件の「虎ノ門事件」は知っていたが、この「二重橋事件」は知らなかった)
清き血は流れた、至誠は遂に英邁(えいまい、注:特別に才知に優れていること)なる摂政殿下(注:後の昭和天皇)をも動かし奉ったのだ。
「軽率かも知れぬがその純忠の精神を喜ぶ」
御辞は是(斯)くの如く、大臣遂に恐懼(きょうく、注:おそれかしこまる)したのである。
上訴の願文は実に国家改革の大論文である、
殿下が御心事は決して空谷(くうこく)の跫音(きょうおん、注:中国の「荘子」より、誰も居ないはずの山奥で聞こえる足音)ではない、否御真意は茲(ここ)に在るのだ、
大正維新の国家改革、
革命の第一弾は已(すで)に投ぜられた
そして第二弾も今や投ぜられたのである、
(注:ここには西田税が、「原敬暗殺事件」と「二重橋事件」を、そして何より「摂政宮」(のちの昭和天皇を奉じ真日本の建設を)大正維新と捉えていたことがわかる  
真理を把持し皇謨(こうぼ、注:天皇にはかること)を翼賛(を、そして何より「摂政宮」(のちの昭和天皇を奉じ真日本の建設を)大正維新と捉えていたことがわかるよくさん、助け)し聖光を以て国家民族を抱擁せんとする志士は起(た)つべきである、
志士は聖人でなければならぬ、古来の革命児は凡(すべ)て聖人である、ー
ー真理の把持と其現実はまこと聖者でなけれは能はざる所である、
そして青年ー燃ゆるが如き意気と真理に対する不動の信念と不屈不撓(ふくつふとう、注:苦労や困難があっても決して諦めないこと)なる理想実現の努力心とを有する青年が英邁なる青年摂政殿下を奉じて真日本を建設すべきである、
而る後、溢るる如き愛国の精神を以て其遠心力に乗じ宇内(うない、世界)人類に正義人道の神髄を宣布して真理に立脚する大日本主義に融化せしめねばならぬ、ー世界革命を敢行するのである、
ここに吾が大亜細亜主義を認め得るのだ
ああ、理想を実現すべき時機は来たのである、
日本の革命は世界の革命である、是れ日本が唯一の真理表現の国であるからである、
而も日本革命は已に其第一段を投じ去ったのである、
剣である、血である、そして「クーデッタ」である、
「明治維新に際して聖的志士が如何に活躍したか」、吾等は真我を視、現実を視、周囲を視、最後に剣と爆弾とを握って起ったとき考ふることは実にこれである、
吾等はこの革命の神聖なる初めの犠牲者を以て任ずるものである、
時代は移った、明治維新の理想は再びこれを更に大にし新にして今日大正維新に渇仰(かつごう)せねばならなくなったのだ、
「天皇は国民の天皇であり民族は天皇の民族である」
正義を四海に宣布する以前に吾等は先づ自らを清めねばならぬ。真理の道程を進まねばならぬ
そして天皇が享有せらるる霊光を一様に国民に浴せしめねばならぬ、
国家政革!!
革命の大旆(たいはい、注:大旗のこと)を押立てて進め!!
大権の発動による憲法の停止!!
「クーデッター」!!不浄を清めよ!!
青年日本の建設!!大日本主義の確立!!
而して更に之を宇内人類に宣布して彼等を匡救(きょうきゅう)せよ、
噫(ああ)、時は来れり、時は来れり、
君見ずや、革命第一弾は已に投ぜられたり、
大正維新である、
余はこの不浄を清めんがために先ず自らこの血をこれに濺(そそ)ぎ懸けむと希(ねが)ふものである、
   (二五八二、三、二〇)
     (大正十一年(1922)のことである)

(注:「大正維新」の後半をたどってみる。
 国家を清新にして、本当の世界の本質になる道理を究めるにはどうすればいいのか?道理に背く施設はことごとくこれを破壊しなければならない。そしてその上に新しい理想の国家を建てなければならない。
維新以来50年の日本の改革、それが根強く深く食い込んでいるこの弊害、この改革は簡単尋常な方法では出来ない。今や実力、剣をとって、血をもってそそがねばこの改革は出来ない。神聖な血をもって、この汚れたる国家を洗う必要がある。
天皇のもとに新しい日本国家を打ち立てねばならない。この天皇とは、病気療養中の大正天皇にかわって、摂政宮(のちの昭和天皇)であろう。そしてこれを西田税は「クーデター」というのであろうか?
彼の頭の中には、本当の日本の理想に背くものはすべて斬らなければならないとあったのだ。上は大臣から下は下僕に至るまでこの醜態は何だという。主権を窺う元老があった。議会は選ばれた者と言えるのか?政党政治のザマは何だ?
これが大正十年(1921)の「原敬暗殺事件」をもたらし、さらに翌年の「二重橋事件」をも「上奏文」として残した。摂政宮(のちの昭和天皇)をも動かした。「明治維新」の理想は再び「大正維新」を実行しなければならない。
それが「国家政革」である。天皇の享有せらるる霊光を国民に浴さねばならない。大権の発動による憲法の停止、「クーデター」である。それは「大日本主義」の確立だと西田税はいう)
                                                                            
 
                             
 
 
 

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