碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

西田 税(みつぎ)のこと (69)

2019年09月13日 20時31分00秒 | 西田 税のこと

 ebatopeko

         西田 税(みつぎ)のこと (69)

       ( 『無 眼 私 論』 1)  

 米子ゆかりのジャーナリストの碧川企救男は、民衆の立場から権力への抵抗、批判をおこなった。それは、日本中が戦争に狂喜した「日露戦争」のさなかに、この戦争が民衆の犠牲の上におこなわれていることを新聞紙上で訴えたことにも表れている。

 一方、同じ米子に生まれ育った西田税(みつぎ)は、碧川企救男とまったく別の角度から権力批判をおこない、結果その権力に抹殺され、刑場の露と消えたのである。この地に住む者として、西田税のことを調べてみたい。

  西田税に関する文献は多岐にわたる。米子の山陰歴史館の発行された『西田税資料』を基本資料とした。

 さらに高橋正衛『二・二六事件』中公新書、小泉順三『「戦雲を麾く」西田税と二・二六事件』)、須山幸雄『西田税 二・二六への軌跡』、澤地久枝『妻たちの二・二六事件』なども参考にした。

 また、最近発刊された、堀真清『西田税と日本ファッシズム運動』(岩波書店)は、西田税に関する現在の到達点と言える研究である。実に教えられるところが大きかった。きわめて大冊であるが、関心のおありの方は是非ご覧いただきたい。

  ここではこの著をもとに記していきたい。但しあくまで私の主観で解釈し取捨選択しており、堀氏の著作をないがしろにするものではありません。堀氏の著作の価値は実際に原著をお読みいただければ十分に納得いただけます。

  はじめに西田 税の自叙伝である「戦雲を麾く」を中心に彼の道筋をたどる。「麾く」は「さしまねく」と読む。

 西田税は、明治三十四年(1901)十月三日、米子市博労町に父久米造、母つねの二男として生まれた。

 当時の歴史的資料も扱っているので、今からみると差別的な部分もありますが、ご了承をお願い致します。

  西田税が、書に秀でていたことは、小学校六年に筆で残した「整頓掃除和楽育児交際慈善」の端正な肉太の字に明らかである。私などは足許にも及ばない。

 そして彼の文章力が素晴らしいものであることは、『戦雲を麾(さしまね)く』を読めばよく理解されるところである。ところが彼の遺したまとまった著作は自伝といえる『戦雲を麾く』と『無眼(むがん)私論』の二冊しかない。

 しかし『戦雲を麾く』はわりあい知られているが、『無眼私論』はほとんど知られていない。そこで、ここでは『無眼私論』を『現代史資料5』「国家主義運動(2)」(みすず書房)にもとづいて紹介したい。

 そこには昭和維新の大立者というイメージからはほど遠い女々しい面も見られると言われる。大正ロマンチシズムもみられるとも。次の詩にはそれがよく現れている。

 「詩と死と、   死は詩なり、   死は人生生存の終焉にして永遠に生存すべき発路(ママ)なり、   ー人生の光彩は実に此間に見るべし、   死は美し、   吾人は吾人の死をして真に美しからざしめるべからず」

(以下今回)

 西田税は、大正11年(1922)1月10日、「胸膜炎」のため激動を禁止されることになる。この一月「青年亜細亜同盟」の例会を山王台日吉亭で開いた。二月には例会を清水台公園の清香園で開いた。このときジャーナリスト・アジア主義の思想家、満川亀太郎を知る。

 2月22日、突然高熱を出し病床に伏した。そして2月28日に入院するにいたった。その後4月23日に退院するまで病床にあった。

 このとき、西田税が筆をとったのが『無眼私論』である。これはいわば自伝のようなものであり、公開しようとしたものではないと思われる。

   無 眼 私 論

 病 間 録                   無 眼

 大正十一年三月十一日より筆をとりしも二十三日に至り白紙数なき景況となり、又肺尖炎のため筆をとるの苦痛なるを感ずること大となりしを以て一先ず筆を描(ママ措の意か?)かんとす。遂に病には克てざるなり。嗟呼。     大正十一年春                                   無眼記

  新生に活きむ       雑詩   雑詩           病中愁辞   月と心          友に与ふ   窮天私記に補せむとて      ひがみ根性   人類の現実を見よ     病みて(詩)   大正維新         世界革命   雑詩           病床駄語   日本亡国論        男と女と   与同志唱(詩)            吾悲痛哲学の一端                  普通選挙         吾等の理想

    題 す

 * 研究中である故に誤まれる所も多からう。然し僕はそれを決して固守はしない、改めるに何等憚らぬのである。思想といふべきものでもない、

筆の障るところ是れ字となり文となるといふ奴である、一つの文でも薩張り文体をなしてない、然しこれ丈けでは大根の切りっぱしの様なもので僕の真正なる考へが何辺にあるかがわからぬのである、  ー多分そうだらうと思ふ。                             今迄に僕が書きなぐったものには大概次の様なものがある。これを見なければ連繋がないから駄目だらう、

曰く、半生回顧録、曰く罵世録、曰く祖国に訣るるの記、曰く、無眼西田税論、曰く、剣影秘話、曰く手録、曰く、窮天私記、曰く光尖、曰く江都客游詩思、其他の手記所感。

                       病 中                                         無  眼                 


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