碧川 企救男・かた のこと

二人の生涯から  

長谷川テル・長谷川暁子の道 (112)

2020年03月30日 11時23分37秒 |  長谷川テル・長谷川暁子の道

ebatopeko②

         長谷川テル・長谷川暁子の道 (112)

           (はじめに)

 ここに一冊の本がある。題して『二つの祖国の狭間に生きる』という。今年、平成24年(2012)1月10日に「同時代社」より発行された。

 この一冊は一人でも多くの方々に是非読んでいただきたい本である。著者は長谷川暁子さん、実に波瀾の道を歩んでこられたことがわかる。

 このお二人の母娘の生き方は、不思議にも私がこのブログで取り上げている、「碧川企救男」の妻「かた」と、その娘「澄」の生きざまによく似ている。

 またその一途な生き方は、碧川企救男にも通ずるものがある。日露戦争に日本中がわきかえっていた明治の時代、日露戦争が民衆の犠牲の上に行われていることを新聞紙上で喝破し、戦争反対を唱えたのがジャーナリストの碧川企救男であった。

 その行為は、日中戦争のさなかに日本軍の兵隊に対して、中国は日本の敵ではないと、その誤りを呼びかけた、長谷川暁子の母である長谷川テルに通じる。

 実は、碧川企救男の長女碧川澄(企救男の兄熊雄の養女となる)は、エスペランチストであって、戦前に逓信省の外国郵便のエスペラントを担当していた。彼女は長谷川テルと同じエスペラント研究会に参加していた。

 長谷川テルは日本に留学生として来ていた、エスペランチストの中国人劉仁と結婚するにいたったのであった。

 長谷川テルの娘である長谷川暁子さんは、日中二つの国の狭間で翻弄された半生である。とくに終章の記述は日本の現政権の指導者にも是非耳を傾けてもらいたい文である。

 日中間の関係がぎくしゃくしている現在、2020年を間近に迎えている現在、70年の昔に日中間において、その対立の無意味さをねばり強く訴え、行動を起こした長谷川テルは、今こそその偉大なる足跡を日本人として、またエスペランティストとして国民が再認識する必要があると考える。


    (十) 

  (劉仁は重婚であったのか)

 ここで劉仁が重婚であったとする考えに対して、私(木田(ぼくだ)日登美)は反論したい。

 確かに第六項で劉仁は12歳で親の決めた女性と結婚したと、私は書いた。

 そして二人の間には子どもが生まれていることも事実である。

 だがこのテルとの結婚は、当時の中国(中華民国)ではまったく合法である。

 当時の中国では、結婚は親が認めればそれで成立するので、原配夫人(親が一方的に与えた妻)以外に、自分の本当に好きな女性を、実質的な妻に迎えるという方法が合法的に広く行われていた。

 これは女性の人格をまったく無視した、まことに男性に都合のよい制度であった。さらに封建制度を支えてきた儒教にも、「女は二夫にまみえず」とする教えがあり、一度結婚した女は、婚家や夫からどんな理不尽なことをされても耐え忍ぶしか生きることができなかったのだ。

 中国ではこのような結婚が何千年もの間続いてきたのである。

 この理不尽な習慣は、女性だけでなく、男をも封建制度の中に閉じ込める役割をはたしている。

 仮に劉仁のように子どもの頃に親の決めた女性と結婚したとして、その女性とどうしても夫婦としてやっていけないので離婚するとしてら相手の女性はどうなるか?

 生きるための経済的手段を持たない当時の女性は、婚家から離縁されたとたんに飢えに直面しなければならなくなるだろう。

 彼女らは食べるために、再婚をしたとしても、周囲から激しく軽蔑され、また自分自身は、儒教や仏教の、二夫にまみえた者は地獄に落とされ、鬼に八つ裂きされるというような観念から逃れることは出来なかった。
 
 実家のほうでも、一度嫁に出した娘が返されてきたら、迷惑であるばかりでなく、貧しい家など時として、新しい相手から結納金をとり再婚させる。

 つまり婚家から返された娘をまた売り飛ばすという酷いこともした。だから女は耐えるより仕方がなく、他方男は、妻を家を守るための道具だと考えた。

 劉仁は12歳で結婚したといっても、この秋には家から118㌔も離れた営口という街の水産専門学校に入学、寮に入り、相変わらず学費や生活費はすべて父親が負担し、彼の生活は、この時点では何の変化もなく、劉家が嫁の楊春輝を養った。

 劉仁が17歳の頃、楊春輝との間に事実上の関係が発生したと、30年以上も後になって、楊春輝本人が語っている。

 楊春輝との中国での法律的な結婚の根拠となるものは存在していない。

 1982年、劉仁の姪の劉艶月さんは、民政局に楊春輝を劉仁の遺族として待遇するよう申請をした。民政局は楊春輝と劉仁の結婚証明書を出すように求めた。

 劉艶月さんはそれについて「旧社会の農村の結婚に結婚証明書なんてものはありません、何度も探しましたが何もありませんでした。それ以上この面倒なことはやめました」と述べている。

 中華人民共和国が成立し、近代的法制度が確立される以前の結婚については、このような状態であったのである。

 では日本の法律ではどうであろうか。

 劉仁が長谷川テルと結婚することを決め、テルが父母にその事を話したのは1936年10月24日~31日の間である(旧婚姻法が適応される)。

 彼は両親に結婚の意思を伝えたが、婚姻届を出すなどの法律的な手続きはしていない。日本の民法第七三九條(旧七七五條)「婚姻の届出」によると

  「婚姻は、戸籍法の定めるところによりこれを届け出ることによって、その効力を生ず。前項の届出は、当事者双方及び成年の証人二人以上から、口頭又は署名した書面で、これをしなければならない」としており、

  その補則説明で、「届け出によって、効力を生ずる、とあるが、結婚の場合に、その届け出は、結婚の単な効力発生要件にとどまらず、実に成立要件なのである。

  すなわち、届け出がなければ結婚は法律上不成立で、存在しないものとされる」とな  っている。

  この条項は旧婚姻法も現在の婚姻法もまったく同じである。

  二人は婚姻届を出していないので、当然法律上の婚姻関係は成立していない。

 ここで私(木田)が主張したいのは、劉仁とテルは互いに愛し合い、共に暮らしているが、法律上の結婚はしていないので重婚にはならない、ということである。

 重婚ということになれば、重婚罪という犯罪を犯したことになる。軽々しく他人をそのように呼ぶべきではない。

 だが、1936年10月末からテルの死亡する19471年1月10日まで二人は共に生活し、実質的な婚姻関係が継続されていた。

 その上、当時の中国国内の政治情勢は複雑で、仮に劉仁が橋頭の楊春輝と離婚をしよとしても、「満州国」という日本の占領地区の劉家に住む彼女と、協議離婚することも事実上不可能であった。 


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